見出し画像

粘性と響きの押韻論、子母音の効果 [押韻論]

本記事は、2019/02/02にniconicoのブロマガに投稿した記事です。サービス終了に伴い、noteへ記事を移管しました。過去に書いた記事なので、現在の私の押韻論から変更がある箇所もあります。ご了承ください。

序文

 国内において、画期的で優れた押韻論を展開するひとは数名しかいない。多くは、母音での押韻についての論や、どう韻を踏むかという一義的なものに終始しており、その効果についてまで深く検証していない。

 押韻論は、先行文献の数が少なく、文学論として確立することが難しい。客観的な、効果の測定方法や基準がないため、個人の判断や感性にどうしても頼る部分が現状では出てしまう。それが論の定着や実践による検証が根をおろしにくい一因といえる。そこで、まず序文としてはじめに、押韻の後進研究者のために参考となる先行文献を記す。

九鬼周造『九鬼周造全集 第五巻(押韻論)』
吉本隆明『言語にとって美とは何か』
菅谷規矩雄『詩的リズム』
中村真一郎『中村真一郎詩集』
那珂太郎『那珂太郎詩集』『続・那珂太郎詩集』
梅本健三『詩法の復権』
鈴木漠『鈴木漠詩集』『遊戯論』

 詩歌周辺の書物が多いが、これらは目を通しても損がない画期的な記述のある書物だ。最もスタンダードな、文学で「押韻」の扱われた歴史、ストーリーをリニアに追うことができる。

 さて本題。「押韻」とは、音と音をあわせる技法で、結びつかない言葉と言葉をペアリングし、言葉とリズムの発生に必然性を与え、言葉が持つ隠された音の効果を引き出すものだ。

 しかしその効果には、知られていない未知が存在し、陽の光が当たらず底に横たわっているものがある。その全貌の一端を明らかにするため、ここでは観測した、まだ広く通説となっていない「押韻」の効果や現象を考察し、記すこととする。

1. 頭脚一致による中間音無視の現象

 最初に紹介するのは、最もオーソドックスな現象、「ある一定レンジの押韻価Aと押韻価Bの頭脚の母音が一致していると、音数や中間音が異なるにも関わらず、押韻価全体が押韻効果を発動しているように聴こえる現象」だ。『中間音無視』とか呼んでいる。

※押韻価…押韻を可能にする、ある範囲/スケールを持つ語(文章)/音の連続体のこと。

 喩えば、分かりやすい例は下記となる。

押韻価A「ミステイク」
押韻価B「見捨てずに行く」

 上記の押韻価AとBは、音数と押韻に差異があるにも関わらず、口に出して発話したときに「押韻価AとBの全体で押韻状態にあるように聴こえる」と感じるだろう。このことから、押韻価の中間にある音は、頭脚の押韻がもたらす効果に比べて弱く、等閑視されることが分かる。

▲補足:現在で言うところの「語感踏み」の一種についての解説。この記事を執筆時点では、まだ韻マンの言う「語感踏み」はそこまで話題になっていませんでした。

 長短調やアクセントの差異の阻害を受けなければ、この効果を利用することで、下記のようなきわめて少数量の押韻でも、「全体的な押韻効果」を引き出せることが分かる。

押韻価A「シュプレヒコール」
押韻価B「浮いてる像」

 中間音が存在しないかのように扱われるこの現象から、「日本語の韻律」は押韻価の頭脚の押韻効果をより引き出す構造であることが予想される。特に、押韻価の頭韻は強い粘性を持たされており、「頭韻は、その音の効果を脚韻部まで伸ばそうとする」ことが分かる。

押韻価A「言葉に迷う」
押韻価B「こだわりがある」

 押韻価が文章ベースでもこの効果は発揮される。だが、「こだわりがかなりある」のようにして中間音を3音以上持たせると、頭韻の粘りの効果範囲から外れそうな状態になる。どれくらい中間音を無視するか、効果が発揮されるか、個々人でも実践してみてほしい。


2. 粘性という概念

 先ほど「頭韻が粘る」という、押韻の技法の話ではまず出てこないような風変わりな概念を提示した。しかし、この現象・効果は観測され、存在するように思える。

 この現象をはっきり『粘性』と呼んでしまおう。「頭韻の効果は、文末に向かって伸びようとする」という、粘性の性質を理解することで、「言語全体の調子」をバランスよく統御することが可能になるはずだ。

 また粘性は、効果範囲から外れてくると、交換を求めてくるように思われる。

例文A
言葉の魔法をこれから使うと混然一体となった心が見える

 「こ」を、一定のレンジごとに繰り出す文章を作成してみた。たしかに韻を踏んでいるが、どうにも歯切れが悪く、何か座りが悪い感じがする。

例文B
言葉の魔法がわたしたちをいざない忘れられた心が見えた

 例文Aより音の座りが良い。この例だけで完全な判断はできないだろうが、一例の中での、粘性の切れる(頭韻となる語彙が次に出る)タイミングで、「頭韻を別の韻に変える」ことが、文章のリズムを新鮮にさせることがあると分かる。

 この効果の発現の仕方はよく観察すべきで、押韻をすることで逆にリズムや調子を阻害することがあるというのは覚えておく必要がある。阻害によって読みの違和感を生ませる、押韻に気づかせない、という狙いの場合はいいが、リズムを良くするための押韻で逆効果が得られた場合について、押韻が最善の手法なのかはよく考え、慎重になるべきであろう。

 ……余談ではあるが、なぜこのような現象が観測されるのか。予想では、先ほども書いた「日本語の韻律」と、また「日本語の性質」に根幹があるように思われる。日本語は「等時拍言語」であり、子音と母音がほぼ必ず一対のパートナーになって構成される。この特性が一音により「もたり」を生み、頭韻に効果の持続的な運動を促しているように思われる。

 拙速ではあるが、演歌や歌謡曲の歌唱を想像するにゆっくりためるように歌うことは日本語の生来の能力を引き出していたのではないかと推察される。和歌の五七五にも、もしかしたら近い関係があり、韻律と音の関係の秘密が隠されているのかもしれない。


3. 子母音の音楽的効果

 ところで、押韻の元となる「子母音の音楽的効果」を考えたことはあるだろうか。そして、どこでどの子音を使うのか、母音を使うのか、効果を意識して判断することはあるだろうか。

 下記に、日本語の母音のフォルマント周波数の配置を示す。

画像1

 詳細には音声学について書かないが、概して「i」「e」が高い音であり「u」「o」が低く、「a」が中間的な役割を演じれることを理解できると良い。

 言葉に重低音的な性質を付与したい、またそのような印象を抱かせたい場合には、意図的に「u」「o」を連続的に使用する必要がある。また、言葉を転換し、違う方面に行きたい場合は「e」の音をピンポイントで使用する。すると、意味の展開と音の性質に不一致が発生せず、ごく自然な言語の印象を与えることが可能になる。

 また、子音については、個別的な認識効果の事例にはなるが、「K」と「S」の組み合わせが非常に分かりやすく代表的である。

 一度、「クスクス」「カサカサ」という感じで、KとSを連続的に発話してみてほしい。その発話から生まれるような音の効果を、KとSを隣接または近い位置に配置することで文章に発生させることができる。

草はころころと騒いでいた。

 意味よりも音の情感、立体性を出したい時、子音を使うことで意図的に文章に導引できる。言語の雰囲気作りは、子音から始まっているのだ。

 また、上記と同様な種別として、「Y」「M」を連続的に配置することで高い詩的効果を引き出せることが分かっている。

夜明けを混ぜた奇跡が満ちていた。

 「夜明け」「混ぜた」と「Y」「M」が連続することで、非常にゆったりとした時間が言語の内部を流れることが分かるだろう。この子音の組み合わせは、単純に韻を踏むより高い音の効果を、フレーズ単独で引き出すことができる。

 こういった子母音の音楽的効果に自覚的になることは、先述の『中間音無視』や『粘性』をより効果的に使うことにも繋がる。

 「粘性」が切れるタイミングで、音を「auo」から「e」へ転換し話の展開を変えつつ、子音の種類を「KS」から「YM」に変えて、夜の夢幻の世界へと雰囲気を変貌させる。このようなことが技術として意識的に可能になるのだ。


跋文

 一旦、これをひとつの論のまとまりとして締めさせていただく。しかし、まだ押韻の議論には「韻律」や「長短」、「強弱(アクセント)」といった問題が横たわっている。

 また、「コード的音の配置必然」についても書こうとしたが、例を提示することが難しく、まだ概念を説明できるに至っていなかったため控えた。『粘性』に近い概念が影響しているとは思われるが、「遠距離の孤立しているはずの韻が、後続の文章に韻律的に接続してきて韻の効果を増大させる」という現象がどうにもあるように思われる。

 「押韻」にはまだまだ未知の効果や現象がある。また、非常に広範な学問領域にまで概念が広がっているため、個人だけの知識では渉猟できる内容に限界がある。新しい知識で、補える内容があればそれは有意義な広がりのあることだと思う。

 「押韻」は言語表現の末っ子だ。その領土を広げるには、まだまだ角度のするどい思考や、広い知識を統合する考え、その経験や絶対数が足りていない。この文が、まだ見ぬ地平へと「押韻」を押し上げる、新しい考えの礎となれば幸いだ。

詩を書くひと。押韻の研究とかをしてる。(@sagishi0) https://yasumi-sha.booth.pm/