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老い曝えて山樝 [歌詞]

 老い曝えて山樝
 詞:Sagishi 曲:素人大学生

 リラの門のまえで切符をきり終えると、終着列車がしずかに駅構内へと進入してそうして佇んだ、たたまれたドアーが……
「がちゃり」と開くと、車掌のネコゼが現れた。ずんぐりした体型に、むすっとした表情して、背中が少しく丸まった、赤い山樝のような男だった。
「私はあ、いちりゅうの車掌でえす」
 トカゲ顔をした乗客が陽炎のように、そろそろと列車から降りてきた、そう言えば、列車は英語だとtrainと表記されるが、これにingを付けるとtraining(トレーニング)になるのがふしぎだと已然思っていたことがある。
 ただ、それだけのことだが……。
 夕焼けのそらは銀河に染まった菫いろをしていて、広野の草樹は茫々と伸び切って、異様な灌木の原っぱになっていた。水が折りたたまれて、子どもたちやカタワの女の子がすっと駆けていった、おさげに赤い絹のリボンをした、かわいらしいコだった。
 詩的文体というものは、意味からの『脱臼』によって行われる。喩えば、「川の水が流れる」と書かれる文章は至って普通であり、「意味」によって、言葉の選択が統御されていることになる、しかし、文章に対する一種独特な興味をもった作者に書かれると、間もなく私ならば、「川は数列する」 などと筆することになり、ここでは川が数列するという状態は意味によって統御されておらず、必然的に読者は「川が数列する」という想像的な状況に置かれることになる。
 ただ、このような箴言じみた書き方で、文章のすべての状態を網羅するとはやはり私も主張はしない。詩的脱臼は、意味ではなく無意味を要請する。
 私が「川は数列する」と書くとき、そこには文章表面あるいは内部に意味を持たせない。ただ、「川は数列する」という響きの美しさ、誰もが考えつけないような文章の並び方に、文章を読むこころが顫動するのである。
 意味からの脱臼、それ即ち詩的文体である、
 漱石も言っている(たぶん)
 さて、本作『老い曝えて山樝』は、文章における状態について思考する音楽である。作品的評価、あるいはエンタメ性、音楽としての娯楽性は一向に問わない、故に、本作は凡作である。
 しかし、あるいは凡作こそが時には世の中では傑作足りうることもある。正岡子規の「鶏頭の十四五本もありぬべき」という俳句は、発表当初は凡作としての評価および誹りを受けることになった。
 この俳句は、「鶏頭の花が十四、五本もあるだろうか」という意味だが、客観写生を信条とする子規の俳句としては、「花の数が十四本なのか十五本なのか定まっていないのは、客観俳句から外れる」という意見が当初は大勢を占め、評価も芳しくなかった。
 しかし、山口誓子や西東三鬼らが、「鶏頭の花が十四、五本もあるだろうか、と思えた子規の心情をそのまま写し取っていることが客観写生だ」という論を展開し、こうして鶏頭論争は発生した。
 駄文を弄したが、しかしここから分かるのは、一見は駄作と思える作品にこそ、真理的な創作の状態が反映される可能性である。
 音楽は楽曲構成、音、歌詞の押韻やストーリーテリングなどの諸技術が早熟にも飽和した。かつての画期的で斬新であった創作手法も、現在ではそれが当然の、必須の音楽創作の必要条件であり、技術の陳腐化にさえ陥っている。
 このような状態を打破するには、既存の音楽史を渉猟した上で、丁寧に理詰めで打破していくしかない。何事も大上段に構えた派手な手法は嫌われる元だ。
 創作者の技倆は必要なものだけが選択される。

詩を書くひと。押韻の研究とかをしてる。(@sagishi0) https://yasumi-sha.booth.pm/