見出し画像

社会への「憤り」を原動力に生きるのを、やめてみる。

25才くらいまで社会への憤りをバネに、この社会を変えてやろうと必死だった。でも今はだいぶ違う。

社会を変えられていない罪悪感

僕は原体験からくる社会への憤りや使命感を1人で背負い込んで追い込みがちで、行動量や思考体力に驚かれることも多かった。「メンタルヘルスの問題を、誰かがなんとかしないといかん!」と。

怒りのエネルギーはすごい。誰かがやらないと、今日もまた何人も苦しんでいる人がいるんだから休んでられないという気持ちでひたすら限界まで頑張ることができる。

一方で、力が足りなさすぎるのに、使命感だけは大きいから、何回か過労で倒れた。社会を変えることのできてない自分への罪悪感が十字架のように胸の中にずっと居座っていた。

「社会を変える」という他者軸の動機

「こんな社会にしちゃってごめんね」と毎日謝罪しながら無限に続くモグラ叩きに疲弊していた。何とか変えたい問題はあるのに、何もできずただ忙しくしているだけで日々が過ぎていくのは辛い。

社会という「敵」を倒そうみたいな他者軸の動機は、脆く潰れやすい。実像のない大きな敵との対立構造は自分自身の心の燃料にするには頼りない歪んだものになるか、無力感で動けない結末に陥りがちだったする。

なぜかというと、社会への憤りは、アドラー心理学でいう「原因論」的考え方だから。困ってる人の力になって感謝されることの喜びとか好奇心とか「目的論」に基づくポジティブなエネルギーの方がしなやかに振る舞える。目の前の困った人を助けて幸せにすることを喜べる人が、結局はその積み重ねで社会を良くしていくと思う。

「ありがとう」を増やす旅

27才になって「ありがとう」を増やす旅への変化が自分の中で明確に起こっている体感がある。「目的合理」から「価値合理」への価値観の変化とも言えるし、ただの「老い」なのかもしれない。

先日、「パパゲーノ Work & Recovery」利用希望の方の見学会があった。前日の夜からずっと緊張し当日を迎えて、ヒアリング、タイピングテスト、お試しワークを通じて、本人の希望・夢の実現を僕たちで応援していけそうだと実感し、感無量。久しぶりに仕事で泣きそうだった。

これまでも色々あったし、これからも山あり谷ありだと思うけど、このチームで「パパゲーノ Work & Recovery」をやると決断して本当によかったなと心から思えた1日だった。

心から「ありがとう」って言ってくれる人がいて、社員以外も含め一緒にがんばる仲間がいるからがんばれている。困ってる人と社会との対話をしながら丁寧に課題を解き、「徐々に力つけて社会を前に進めてくか〜」という気持ちでやっていこうと思う。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?