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”「役に立つ」とは何?”読書note70「大学という理念 絶望のその先へ」吉見俊哉

実務から大学に転身して丸8年が経過した。実務家教員として、他の先生方から温かく迎えてもらい(多少は異界の人種という風には見られているか?)、それなりにがんばってきたつもりである。

それまで28年位過ごしてきた企業と言う世界と全く異質の世界(教育の世界、研究の世界、公立なので公務員的な世界など)に、かなり戸惑った。どこにも意思決定がない、責任の所在がない、目標がない、、、これでよいのかと思いつつ、自分がやるべきと思ったことをやってきて、これでよいのか?と思う事がしばしば、そんな日々を送ってきた。

そんな時に、自分が抱いた違和感を、しっかりと明言してれる本に出合った、そして、そのことを大学の歴史や経緯を踏まえて、解説してくれた。

とても深い本だと思うが、自分に引き寄せ、自分の違和感にビビッと来たところを抽出してみる。

個人商店街としての日本の大学

米国の大学教育は、全体が一つのシステムとして設計されており、個々の教員の役割はその一部を構成する。これに対し、日本の大学教育は個人商店主=教員による個別の営みの集合である。だから、各学部は教授たちによる商店街のようなもので、自分の店をどう運営するかは店主に任されている。しかも、各商店街=学部を超えて、地域全体、つまり大学全体を一個のシステムとして設計する発想が弱い。

今の大学に赴任した時、僕が思ったこと! 「この学部は雑居ビルみたいだな。」雑居ビルの面白さもありかなと感じたが、結果、単なる寄せ集めの雑居ビルかなというのが今の感想。

教員の役割、職員の役割

大学教授はそれぞれの専門の分野に関してはスペシャリストです。しかし別に教育のプロではない。組織のマネジメントのプロでは、ますますない。
大学で教員の委員会が関与している多くの業務は、入試を含めて必ずしも教員でなければできないものではない。職員の中から育った専門家が、その人の専門的な知見に基づいた判断で決定を下していく方が、適切なことは少なくない。

まさに、その通り。なぜ、そんな事が最も苦手であろう大学の先生に、入試や広報や、地域との折衝などをやらせるのか? と首を捻ることが多い日々である!!

もちろん、この本は「大学の理念」あるべき姿に論考している格調高いほんである。その一端を紹介しておきたい。

大学を成り立たせるのは、教養(リベラルな学び)と研究、専門職教育の三本柱の統一性でなければならない。専門職教育についても、「最高の訓練とは、完成された知識を習得することではなく、むしろ学問的な思考へと諸器官を発展させる」営みにおいてこそ可能である。人は、専門知識や技能以前に、「問うことの方法を練習しなければならないのであり、専門に応じて、どこかで、究極の根拠にまで達しなければならない」のだ。

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