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”教育とは「贈与」である”読書note104「京大というジャングルでゴリラ学者が考えたこと」山極寿一著

この本は、霊長類の研究者である著者が京都大学の総長になって活動した6年間の考えを記したものである。内容は多岐に渡っているが、大学教育に関わる者として印象に残った部分を引用する。

教育とは本来「贈与」であると私は思う。(中略)「贈与」であれば、学生がそれをどう受け取り、それをどう生かそうとも教育者が口をはさむ余地はない。現代は教育の効率やその成果がとかく問題とされるが、教育とはそれを受けた学生がその人生を豊かにする上で役立てばいい。教育者の思惑通りに学生が育つことが教育の成果ではないし、ましてや、それを効率化しようとしても学生が育つとは限らない。

表題本

教育者だけでなく、政府や産業界など、どうこうしたいと考える人は多い。

基本的に高校と大学の教育ははっきりと区別されている。その大きな違いは、高校は正確な答えを出すための教育であり、大学は問いを自分で立てて、多様な答えを見つける教育だということであろう。

表題本

大学の教員には教員免許はない。研究者であるという自負と実績があるだけである。その理由は、小中高の教育のように既存の知識を教えるのではなく、未知の答えにたどり着く方法を教え、未知の自分に出会う道へと学生を送り出すことが求められているからだ。そのために、大学の教員は常に自分の学問分野の広がりと深さについて熟知し、自分も未知への挑戦を続けていなくてはならない。大学教育で学んだ学生は、これから社会に順応するだけではなく、これから新しい社会や世界を作っていかなければならない。大学はその可能性を広げる場である。

表題本

彼が大学総長として、感じた日本の大学教育の課題は次の言葉に集約されている。

政府や産業界から聞こえてきた掛け声は、「大学の研究力が落ちた」「大学生は遊んでいて必要な教養を身につけていない」「産業界にイノベーションが起きないのは大学の責任だ」「国立大学は政府におんぶにだっこで、自律的な改革を行っていない」「一定の指標の下に競争させて、業績の悪い大学は統廃合すべきだ」などというものだった。しかし、その責任はバブルが崩壊するまでリニア・モデルに固執しすぎた産業界の古い体質と、財政負担を減らすことばかり考えて大学への実質的な支援を怠った政府の失政にあったことは明らかである。低成長の時代が来ることを早くから見抜いていた欧米諸国に比べて、日本の政府も産業界も、そして大学も周回遅れになっていたのだ。

表題本

わかっていても、変わらない、変えられないのが、課題か?

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