見出し画像

ディア・ミスタ・バートルビー

ミスタ・バートルビーをご存知でしょうか。
一年半前に知って、深い衝撃を受けたその人をご紹介します。

彼は、何があっても、何を要求されても、攻撃せず、防衛せず、ただ一言、
“I would prefer not to do”.
(日本語訳:「しない方がいいと思うのですが」「しないで済めばありがたいのですが」「遠慮させてくださいませんか」etc.)
とだけ返す人なのです。
(たまに、”I prefer not to do”.「私はそれをしない方がいいのです」と少しだけキッパリした言い方をします。)

上司から仕事をわたされて、「それは私のすることではありません」「なぜ私がそんなことまで?」などとは言わず、
“I would prefer not to do.”

 しょっちゅう気分が変わり、気晴らしや休息が必要な、つまり、心の中がいつも騒がしく、気が散っていて、エネルギーを垂れ流しにしているかのような同僚たちを批判的な目で見ることは決してせず、ただ少し離れたところにいて、黙っている。一緒に仕事机でおやつを食べたり、終業後に共に飲食したり、などということは一切しない。誘われれば、
“I would prefer not to do.”

 善良な上司、安逸だと自分が信じている状態の中で日々を過ごし、自分がすでに深い落とし穴にはまっていることに自覚はなく、生真面目で勤勉というプライドに寄りかかっている上司に対して、軽蔑や嫌悪を示すことはなく、そして、私の見るところ、心の中でもそんな思いはわずかでも持たず、ただ、あるがままに受け止めている。

“I would prefer not to do”!!!!!!!!!!

この地上で、これ以上にパーフェクトな言葉があるでしょうか?
この地上で、これ以上の平和な言葉、平和な対応の仕方があるでしょうか?これほど完璧な存在の仕方があるとは!

日本語にすると、ちょっとぎこちないのですが、世間へのいかなるコミットメントも、拒むというより、「そんなことできっこないではないですか」という絶対的超越度。

 誰もがムードチェンジを求めていて、世間の一部を力づくで変えれば本質的なものも変わると信じているような幼稚さに疑いの目を向けることもせず、自分を善良で正義の側だと思い込んでいて、頓珍漢なものにだけ一所懸命になっていて、自らを卑小な弱き者と決めつけていて、そのために、金や物品その他もろもろで自分を守るのに必死で、しかも、自分が邪悪な存在とさえ思っているので、悪と罪をあらゆるものに投影してはそれらを攻撃していて、実のところ、やっているのは、いのちの取りこぼし、無駄遣い、つまり、生きているつもりでいるだけで実は死んでいる人たち、、、が、騒がしくあれこれ奔走しているのがこの世の中だとしたら、それとの摩擦を完全に拒むことしか選択肢はないですよね。

 わたしは今ここで、何やら偉そうにこの世界をクソ味噌に貶していますけど、バートルビーに注目すると、そうなってしまうのです。彼の存在が、その他の情けなさと、小さな過ちが虚無の時空間を作り出しているのをくっきりと浮き彫りにするのです。
 その他の中には、わたし自身も当然含まれ。バートルビーは、まるでキツツキのように、心の中をつついてきます。突かれるたび、何か火花のようなものが弾ける感じがします。

 攻撃せず、防衛もしないならば、やるべきことはほとんど残っていません。我らがミスタ・バートルビーは、だから、あらゆることをやめるのです。最後には、食べることもやめるのです。

 上司や同僚は、いわば生きながら死んでいる人たちではあるけれど、善人であり、心の内には、愛情や慈愛、共感したいという情熱が宿っているので、バートルビーのことを「悩んでいるのではないか」「心に傷を抱えているのではないか」「なんとか彼の心を開かせられないものか」「どうしたら助けてやれるか」等々、真剣に思い巡らせるのですが、バートルビー自身にはなんら問題がないことは、働くことを完全にやめる前の彼の働きぶりを見ればわかります。

 彼の職場は、ウォール・ストリートにある小さい法律事務所(社長含めて社員四人+使い走りのアルバイト)で、仕事は法律の書類の筆写です。
 ミスタ・バートルビーは、他の社員の何倍もの速さで、何十倍もの集中力と持続力で、脇目もふらず、タイプし続けます。まるで、それだけのスピードがなければ、彼の湧き上がる思いを文字にすることができないかのように。
 とはいえ、筆写ですから、彼は自分のエッセイや小説を書いているわけではありません。それでも、その仕事ぶりから、彼の内部の、まったき充実を窺い知ることができるのです。

 ハーマン・メルヴィルは、『白鯨』において、巨大な鯨への畏敬と讃美を隈なく描いていますが、例えばこんな描写は、鯨をそのままバートルビーに置き換えて読めます。

“マッコウ鯨の偉大なる天才は、それを実証するために何もしないところにある。マッコウ鯨のピラミッドのごとき沈黙にこそ、その天才ぶりは雄弁に物語られているのである。”
“鯨に、何か言うべきことがあるだろうか? 深淵なる存在で、世間に対して何か言うべきことがあるというような実例は寡聞にして知らない。(もっとも、口過ぎのために、何やらボソボソ言わねばならぬ詮ない事情があることは、わたしとて、承知している。それにしても、何でも聞いてくれる親切な御仁にみちみちている世間があるとは、ああ、なんたるしあわせ!)”
“おお人間よ! 鯨をたたえ、鯨を範とせよ! 汝もまた、氷のなかにあっても温かくあれ。汝もまた、この世の一部となることなく、この世を生きよ。”

『白鯨』メルヴィル作・八木俊雄訳(岩波文庫)

 深淵なるミスタ・バートルビー! あなたは、メルヴィル讃えるところのマッコウ鯨です! 
 あなたには、言うべきことなど何一つない。やるべきこともない。

 彼が、世間に向けて何か言うべきことなど持っていないのは当然です。
彼の内なる叡智は、自身が“そこには属していない”という事実を完全に理解し、それだけを理解しているのですから。いのちは自身の内には宿っているが、目の前に知覚しているそれらにはない、とわかっているのですから。無と闘うのは、豆腐に拳骨を食らわせるのと同様に馬鹿げたこと。

 打ち明けるのが遅くなりました。ミスタ・バートルビーは、『白鯨』=『モービィ・ディック』の著者、ハーマン・メルヴィルによるショート・ストーリー『バートルビー』の登場人物です。
 1850年代。アメリカは、奴隷解放宣言もまだでしたけれども、愛と生命の代替として、

"妻に、ベッドに、食卓に、鞍に、炉辺に、設定していて”

同『白鯨』

その後急速に工業化が進み、テレビや洗濯機、トースターや七面鳥の丸焼きに浮かれ、それらに囲まれている限り自分達は安泰だと思い込む時代が形成されていきます。その世界にあって、善良でそこそこ勤勉でいることが、新しく作られた“幸せ”でした。もちろん、それはフェイクなので、心の中には常に渇望と葛藤があるはずで、それでも彼らはそのことにさえ気づかずにいます。幸せは金次第でやってくるという概念は検証されずに一般市民に伝染し、定着していきました。
 作品の語り手であるバートルビーの上司は、最初から、バートルビーを歓迎し、なんとか親密でオープンな友情を結びたいと考えているようなのですが(ちょうど、かつてない熱く信頼に満ちた友愛が生まれるのではと期待して転校生に擦り寄っていく子供たちのように)もちろんバートルビーは身を引きます。上司が差し向ける“友情”は、彼には無用だからです。完全に充足していて、誰かの不足感を、自身が補ってあげなければならないという概念は皆無なのです。仕事場に、すなわちただひたすらタイプしていく時空間に余計なものは要らないのです。それに、この代替世界においては、真の友愛は育ちにくく、あらゆる”優しげな”関係は、経済生活の中の取引になってしまうのです。ロマンティックな関係でさえ! 

 上司の善意に押し出されるように(彼は戦いませんからね、決して。ただ優雅に押し流されていくのです)バートルビーは、仕事をやめ、一日中、壁に向かって立っているだけの存在となります。壁に向かう。素晴らしいアイデアではありませんか! さすがミスタ・バートルビーです。壁を見ていれば、他の何ものも知覚せずに済みますものね。

 タイプするのをやめ、壁だけを見つめ、食事も取らなくなってみれば、この世から去っていくのは必然です。上司は、「ああ、死んでしまった」「彼の心に届いてやれなかった」「救ってやれなかった」と思ったかもしれませんが、それは、“自分は生きている”と思い込んでいる人の見解であって、実のところ、バートルビーは死んでなどいないわけです。

 冥界で、彼は、心おきなく、タイプしているに違いありません。

 筆写。完全な没頭。幸福な活性。集中という清らかな明るさ。それは、ソローがウォールデンの森の池を日がな見つめていたのと同様の、完全な静寂、完璧な生命の発露だったと思います。彼のタイプの場面は本当に美しい! そのスピード! その正確さ! いっときも崩れない姿勢!

 彼がこの地上を去らねばならなかった理由は、ここに生きる場所がなかったからです。タイプの最中に、「仲間になってよ」「こっちを向いてよ」という代替世界からのちょっかいで邪魔されるからです。ならば、「お暇します」と引き下がるしかないではありませんか。

 バートルビーは、明快な回答を、地上で真に生きたいならこれしかない、というお手本を、示してくれたと思います。彼は、作者メルヴィルのエール「汝、この世の一部となることなく、この世を生きよ」に応えて生き抜くということはしなかったけれど、そのように生きた証は残しました。筆写する彼の姿こそがそれだとわたしは思っているのですが、どうでしょうか?

 『バートルビー』が出版されてから一世紀を優に超え、多くの人たちが、彼について考察してきました。とりわけ英語のエッセイなら無数に出ています。それほど彼は愛されているのです。また、それほど彼は恐れられているのです。バートルビーのこと、メルヴィルのこと、白鯨のこと、書きたいことはまだまだあります。続きはたぶん、かつてのメルヴィルの家を訪ねた時のことから。いつかまた。

 


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?