見出し画像

サタンタンゴの雨

 12月某日。ニューヨーク。その朝、雨はまだ降っていたけど、予報ではもう止むはず。そして気温はかなり高かったのです。

 小さい折り畳み傘を広げてさして外出すると、小糠雨の向こうに、雲がのびのびした形で広がり、間に青空も見えました。大通りの広い空に、雲間からくっきりとした青が現れた瞬間に立ち会い、iPhoneでパチリとしたい衝動を抑えました。
 大通りの真ん中で立ち止まって撮影するのは褒められたことではないし、何より、十日前に同じ場所で転んでいたから。左腕をしたたかに打ち、痛みが消えるどころか強くなる一方で、主治医に診てもらいに行く朝でした。 ドクターからは、自然治癒を保障してもらい、小さいホリディギフトを渡して、オフィスを出るまで20分もかからなかったのに、雨は止むどころか大降りに。
 ダウンコートを着てきたことを後悔するほどすっかり汗ばんで、中のセーターも脱いでいたのを、着直して、コートのジッパーもきっちり上げて。わたしの折り畳み傘では心許ないですが、仕方ありません。

 と、私の前にドクターズ・オフィスを出て行った老人がいます。両手で歩行器に寄りかかるようにして、歩いて行きます。一歩ずつが実に大儀そうです。私の母にそっくりです。

 頼りない傘を差しかけて、
「どこまで行くの?」
「タクシーを拾う。その大通りで拾えると思う」
「了解。タクシーまで付き合うわね」
「悪いね。出来るだけ早く歩くからね」
「とんでもない。急いでないし、ゆっくり歩いて。足元気をつけて」
 などと言っているうちに、雨足はますます強くなり、風も吹きつけてきました。

 小さい傘は彼の頭上にあるので、私の方はずぶ濡れになってきました。ダウンコートのフードをかぶって歩きますが、彼の足元も激しい暴風雨でどんどんおぼつかなくなります。私の方は、防水加工のはずのコートの中に、雨水は容赦なく侵食してきます。

“その大通り”は、確かに“そこ”に見えるけれども、この調子では、いつまで経っても辿り着けない気がしてきました。

 間近で見るその男性、どこもかしこもぶよぶよとしていて、豊かで長めの白髪がバサバサになびいていて、頬は酒焼けのように赤く、、、よく似た人を知っているような、、、あっ、『サタンタンゴ』の飲んだくれの医者にそっくり。

 前日から、amazon primeで観ている映画『サタンタンゴ』。
 ハンガリーの巨匠タル・ベーラのその作中では、村はいつも暗い雨。そして村人たちは雨の中を歩き続けます。カメラはその後ろ姿を、長回しでずーっと見せていくのです。
 私たちもまた、歩き続けています。
 “そこの大通り”は未だ果てにあり、私たちは風を切り裂いて進んでいく力を持ち合わせていません。

「ダメだ。少し待とう」
 彼は言って、通りかかった高級コンドミニアムの入り口に入り、ロビーの端に立ちました。丸く大きくふくらんだ肩から水が滴っています。
 すぐに奥からドアマンが飛んできましたが、私もいるし、彼も、
「すみません。雨足が少し緩むまで、ちょっとここにいさせてください」
 丁寧に言ったので、追い払われずにすみました。
 それでも、早く出ていかないかと苛立ちを隠さずそばに立つドアマン。
 一向に衰えることを知らない雨足。
 寒さに震えながら、同時に、こうして待っていても何かが変わるわけではない、寒さは和らがない、と諦めと共に立つ私。

 数分後、雨足が緩んだわけではないですが、私たちはまた歩き出しました。
 延々と。
 雨の中。
 濡れそぼって。
 震えながら。
 どこからともなく聞こえてくる気がするのは映画の中のアコーディオンの旋律。

 
 雨が、風が、水浸しの足元が、続く時、顔に降りかかる雨も延々と続き、延々と頬を流れ落ちる時、時間は止まる。
 時間が止まるので、“その大通り”にもたどり着かない。
 たぶん一生たどり着かない。
 延々とした時間の流れ、延々とした存在(雨、風、“飲んだくれの医者”、私、ひょっこり現れるドアマン)にあっては、全ては永遠に続く。時間は消滅する。時間が洗い流してくれるというおとぎ話は笑い飛ばされる。時間の中を進んでいくという幻想も笑い飛ばされる。
 存在を軽く観てはならない。存在するものは、いつまでも、延々に存在するしかない。逃げ道はない。
 もうどうでもいいやと濡れ鼠になって私は思うけれども、その実、何かが苦しい。何かが壊れていく。いや、壊れていく感じがなかったことなど、かつてあっただろうか、、、。この“医者”も、わたしの母も、その個体はすでに、這々の体だ。
 個体の存在とはそういうものだった。個体という概念は、儚いものなどではなく、延々と続く重みー雨水の重みーのことだったのだ。 
     
          

 突然、ワープしたように、気がつくと、私たちは大通りの端に立っていました。
「向こうに渡って車を拾う」と、彼。
 信号が変わるのを待って渡り始め、赤に変わると同時になんとか向こう側に。
 渡ったところには家具屋があり、軒下で雨宿りしているカップルがいます。私たちには、今更雨宿りは不要です。もうずぶ濡れなのだから。それに、歩道をまた歩いて軒下まで行く、ということが、また永遠への苦行のように思えてとてもその気にはなれません。

 一刻も早くこのドラマを終えたい、帰ってお風呂に飛び込みたい、という衝動が頭をもたげる。そう、私たちは、“一刻も早く”“ここから逃げたい”た
めに、ストーリーを早回ししたくなるものなのだ。
 それが、“この”存在が経験する唯一のもの。この“存在”は、そしてますます重く大儀になる。その証拠が、たとえばこの“医者”だ。わたしの母だ。そして今のわたしだ。

「特にこんな日は、タクシーなんて来ないだろうなあ」と思いながらタクシーを待ちーーー延々とーーー「私のアプリで呼びましょうか」という提案は彼に却下され。
 するとまたようやくカットが変わって、タクシーが滑り込んできました。彼を乗せようとすると、、、なんと、彼は足を上げられない! 私がお尻を渾身の力で押し上げる。できない! 片足がどうしても車内に入らない。だいたい、足首がまったく稼働していないのです。

 そこに助け舟が来て――家具屋の前で雨宿りをしていた若者――一緒に頑張ってくれたけど、
「ダメだ。このタクシーは彼には高すぎる。車高の低いのじゃなくちゃダメだ」。
 その車には行ってもらい、車高の低いタクシーを、また延々と待つことに。
「ありがとう。行っていいですよ」とわたし。
「いや、タクシーに乗るまで見届けてあげる」と若者。

 またカットが変わり、車高の低いタクシーがやって来、私一人では乗せられなかっただろうところ、若者のおかげで、“医者”は、もはや動かなくなった太い両の足首を、なんとか車中に突っ込み。
「ええっ!? 君は乗らないの?」
「いや、私は通りすがりだから」
「なんだって!? じゃあ彼はどうやって降りるの? ねえ、Sir, タクシーじゃなくてあなたは救急車に乗るべきじゃないですか?」
 いやいいんだ、大丈夫、ありがとう、と私のサタンタンゴは走り去って行く、、、。

 それまでに私のダウンコートは、内側までたっぷり水を含んで重いのなんの、寒いのなんの、身を縮めるように地下鉄に乗ってCRSに戻りました。
 服を着替えて、脱いだ服は全部ラジエーターにかけ、お茶を淹れて、早速『サタンタンゴ』の続きに取りかかります。

 最後のセクション。警察官の手で書き換えられたイリミアーシュの文書に偽の署名がなされ、それまでのすべての映像の意味が押し寄せてくるような感じで興奮が迫り上がってきたその瞬間、画面が止まってしまいました!「お客様のレンタル期間は過ぎました」の表示。

『サタンタンゴ』は7時間を超える作品です。私は映画館で観ることなく、日和ってamazonでレンタルし、しかも購入すればよかったものの、高額だったのでレンタルにしたみみっちさが仇となりました。48時間の期間が過ぎてしまいました。
 サタンタンゴの雨に降られてその中を歩いているうちに、刻々と、終了時刻が迫っていることに思いが及んでいませんでした。

 あと7分とちょっとで終了だったというのに!

 やっぱりそうだった。存在とは欠損のことだった。

 まあいいや。またレンタルしよう。今のところは、、、と、イリミアーシュことヴィーグ・ミハーイの音楽をかけてみます。

 例のアコーディオンから始まって、『サタンタンゴ』で演奏される曲を続けて聴き、彼の若い頃のバンド演奏まで、延々と聴き続ける午後。映画の残り7分に思いを馳せながら、他には何もしない午後。窓の外ではまだ雨が降りしきり。

 ヴィーグ・ミハーイの初期の曲は、70年代のドイツのプログレッシブ・ロックを思い出させます。80年代終わり、ニューヨークに来たばかりの頃のCBGBやリッツのブルーグラス、パンク、ノイズ、のあれこれも蘇ってきます。あの頃、夜中の2時に汗だくになりながら、鮨詰めのライブハウスで、根拠のない希望が胸の内に確かにあったこと。

 今日の唯一の色、朝の雲間に見えた青空を思い出しました。
 雨雲に覆われた、欠損した存在からの逃げ道はないでしょう。
 気づかぬふりをして、一見完全な製造しようとしても無理でしょう。
 存在を包み込みつつそれを超える知覚は、可能というより、それが私たちの自然に違いありません。雲の向こうには空があるのと同様に。
 問題は、ただ、雲の向こう側を、それが肉眼で見えていないからという理由で “ないことにする” 早急さだけなのでは。

 

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?