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「ただの絵じゃないか」発言とアマルちゃん

 「ただの絵ではないか」
 アンドレ・ブルトンが、バルチュスの絵を見て言った言葉だそうです。
 笑ってしまいますね。こういう発言には、それより他に反応しようがありません。
 このエピソードは、言われたバルチュスご本人が、やはり笑いながらお仲間に披露したものとのこと。
「顔!あたりまえのことではないか」と、ブルトンはジャコメッティにも言ったそうです。
 笑えます。
  そうだよね〜、ただの絵なんだよね〜。顔! そりゃあ、当たり前だよね〜。何を今更、だよね〜。桃とか葡萄も。魚や犬も。カラスが飛んだり。星が瞬いたり。山に雪がかぶさったり? だから何だっていうのかね〜。それでもって、なんで自分たちは、こういうのが何よりも好きなんだろうね〜。クソ真面目に論じ合ったり哲学的評価をし合ったりするんだろうね〜。どうでもいいのにどうでもよくないってか?
 笑いの心情を説明するとしたら、こんな感じでしょうか。
 ただの絵。
 ただの写真。
 ただの彫刻。
 ただの・・・。
 それでも、ただの中にこそ、ただならぬものがあるので、見逃せないのですよね。
 逆に、一見意味のありそう、役に立ちそう、取っておかないと後悔しそう、そんなものに気を取られてしまうとたいへん。忘れてたっ! ちっとも役に立たないんだった。時間の無駄でしかなかった。わかってたはずなのに、またやっちゃった。そんなふうにうなだれること必至だからです。(ネットで役に立ちそうなものを見つけてポチッとするときは気をつけましょう。わたしが、つい、半分に切ったアボカドの保存容器を買ったみたいな。)(アボカドの保存容器がよくないと言いたいのではなく。わたしには不要だっただけのことで。)

 ブルトンの話は、中西夏之氏の著作で読みました。氏は、「ユリイカ」の美術評で、このようなことを書かれています。
 

  緩やかにみつめるためにいつまでも佇む、装置


 これは、ある特定の作品について氏が述べられたことなのですが、アート全体に当てはまると言っていいですよね。
 このような装置こそがアートに違いないし、だからアートがなければわたしたちは急ぎすぎて、動きすぎて、息がつまってしまうのだろうと思います。
 一枚の絵の前に佇む時間は、至福、の一言です。もちろん、あらゆる絵の前で立ち止まっているわけではないですが、というか、どんな絵の前でも立ち止まっていたいものではあるけれども、その日、そこで、数点立ち止まれる作品に出会えれば幸福です。

 先日、CRSの入り口のドアを開けたら、目の前のベンチの上に、一枚のカラーコピーがはらりと置きっぱなしになっていて、その、コピーされた絵に、心臓が鷲掴みにされたようになってしまいました。その絵(コピーなので色がだいぶ違ってしまっている)(端も曲がっている)をわたしが説明するならば、

<丸々としたカラスの赤ちゃんが、この上なく優しい愛の天使の光に包まれて、ふあーっと口を開けて声を上げている。光がその声に耳を傾けてトロトロになっている。>

 そのコピーは、モリス・グレイヴスの作品Bird Singing in the Moonlightで、翌日CRSで開催するコンサートでの、エリザベス・ブラウン作曲のThe Secret Life of Birds のインスピレーションとなった作品でした。
 変色コピーの色合いも大好きで、その日からずっと、その絵はいつも近くにあります。

 ただの鳥が描かれていて、それに触発された(啓示を受けたとさえ言っていい)音楽家が曲を創り、それを何人もの演奏家があらゆる場所で繰り返し演奏する。その傍で、コピーされたその絵を持ち歩いている者もいる。
 わたしたちは何をやっているんでしょうか。何かに触れている実感、心の襞が震えている感覚に耳を澄ませているような。この世にはない確かなもののシルシを感じて時を止めているような。

 緩やかにみつめるためにいつまでも佇む装置は、アート作品だけではないですよね。知覚するあらゆるものが、実はその装置なのに、それに気づかないだけで。
 人だって、装置です。
 その人の前で、しんと心の海が凪ぐ。そういうことがあります。
 死もまた装置です。
 悼む思いの奥に、ただ静かな感動があります。
 惨事やゴタゴタ、失敗。病気や事故だって、どれも装置です。
 調子良いつもりで走っていた足がぴたりと止まり、否応なく佇むことになります。
 人生には、装置がいたるところに散りばめられていて、それは間違いなく、ギフトだと思うのです。なんといっても、わたしたちは、立ち止まらないと正気に戻らないのですから。
 装置に助けてもらわなければ止まれないわたしたちですが、装置がそこにあることに気づく心は、自分で保ち続けることができるでしょう。それは練習していたいと思っています。
 いつもは一瞥して通り過ぎるもの、たとえば幼少時からそばにある、ガラスケース入りの日本人形を見つめて佇んでみる、とか。
 

 人形。そうでした。人形、です。
 3メートル60センチの巨大人形、“リトル”・アマルちゃんも、間違いなく、佇む装置です。アマルちゃんは止まっていなくていつも動いていますけれども。
 彼女は、10歳のシリア難民で、生き別れになったお母さんを探して、何人もの人間に操ってもらいながら、もう一年以上もヨーロッパ中を旅していたのです。(9歳で旅を始め、途中で10歳になりました。)
  先日、グランドセントラル駅からCRSに戻ろうとしたら、駅構内に大勢の人。それはいつもと同じですが、様子はだいぶ違います。誰も動いていない。スマホや一眼レフを手に突っ立っています。中二階のバーもアップルストアも早々にクローズしています。「何か待ってるの?」尋ねると、「アマルだよ」。
 ニューヨークにもわたってきていたのですね!
 リトル・アマルは巨大なパペット(操り人形)で、イギリスのプロダクションと南アフリカのパペットカンパニーの共同でスタートした壮大なプロジェクトです。大勢の難民の子どもたちが行き先もない、パパやママとも生き別れたまま、ということを多くの人に知ってもらいたいという趣旨です。ニューヨーク・チームも小さなものではなく、アマルちゃんイベントの動員数もかなりのものでした。
 シリアの難民少女人形、大きくて精巧にできていて長い髪がたなびき、可愛い動きでうつむいて見つめてくるアマルちゃんに接したら、アマルちゃんて誰なの? どこから来たの? と、子どもたちの問いかけは自然に始まります。地球にはたくさんの国があって、でも人は生まれた国に住み続けるとは決まっていなくて、たとえばニューヨークなどには、本当に大勢の、他国で生まれた人が住んでいて、その人たちは移民と呼ばれる人が多いけれど、難民も少なからずいて、その数は増え続けている、受け入れを待っている人たちはもっといる、ということを、アマルちゃんをきっかけにして知っていくことができます。やむなく亡命した人や、帰る国が消滅してしまった人たちだっているということも。あるいはまた、パペットの芝居や旅そのものに好奇心の扉が開かれる子どももいるかもしれません。アートは何一つ押しつけるものがないのです。

 このような、社会問題、政治問題に直接アプローチするアートプロジェクトを批判する人たちもいて、「そんな金と時間と労力があったらもっと有効に使え」と言うのですが、所詮ただのアート、ただのパペットですから、そっちに焦点を向けるなら、素直に細部を見て、何かに触れる喜びのとびらになるでしょう。事実、アマルちゃんがニューヨークを発ってまもなく、移民難民のあふれるニューヨーク市が非常事態宣言を出したのですが、それを聞いた大勢の人たちはアマルちゃんの姿を思い出し、他人事ではなく、考えることができたでしょう。
 アマルちゃんは、もともとシアターでのキャラクターとして制作されたようです。眼の作り方など、他の人形と異なる試みがいくつもされていると聞きました。キリッとしたお顔立ちで(わたしの友人に似ています)姿勢によって表情が変わるように見えるのが素敵です。
 カラスの赤ちゃん?が愛に包まれて安心して歌を歌うように、アマルちゃんを見上げて歓声をあげる子どもたちは、装置をしっかり受け止めていると思います。わたしもそれに倣いたいです。




 


 

 



 




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