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かつて軍艦島にあった風景へ

長崎への旅で軍艦島を訪れた。思いもよらず、軍艦島へ
のフェリーに乗ることができた。徐々に軍艦のように
見える島が近づいてくる。軍艦島には、1890年に三菱
の所有となり1974年の閉山に至るまで、日本の近代化
を支える炭鉱として、そこに住む人々の生活があった。


長崎港松が枝国際ターミナルを後にして訪れたのは

軍艦島デジタルミュージアム。軍艦島の変わりゆく姿
とかつての風景をデジタルで展開し記録し続ける所

軍艦島は長崎港から18.5kmの位置に浮かぶ島
2015年に他の産業革命遺産と共に世界文化遺産に登録された
かつて栄えた海に浮かぶ小さな孤島
長さ30mもあるスクリーンに映し出される軍艦島
採炭の竪坑が完成したのは1886年(明治19年)のこと
そして1974年に閉山。同年4月20日に無人島となった軍艦島
大きなスクリーンにはデジタル映像により
軍艦島の様々な姿が映し出されていく
かつては緑が乏しかった島も次第に緑に覆われて
映像には建物の余命を架空のグラフィティアートで表現した
GUNKANJIMA GRAFITIという作品
それぞれの建物は崩壊までのカウントダウンを刻み続ける
防潮堤の上にそびえるRC8階建ての51号棟
中央の建物。周囲をめぐったフェリーからもその姿を望んだ
22号棟の推定余命は20年。海に面する建物
 は年々、台風の影響を受けながら崩れていく
軍艦島の風景に推定余命が重ねられ、その存在の限度を知る
30号棟に隣接する25号棟の推定余命も1年を切るという
65号棟は地上10階建てで、軍艦島で最大の建物。
コの字型の建物は2度にわたり増築されたできた
中央右の大きな建物が65号棟。屋上に幼稚園が作られていた
70号棟は小学校と中学校が入った建物
右奥の建物。最上階には崩れつつある体育館の姿
そして推定余命が半年程の30号棟
軍艦島での説明でも、いつ崩壊してもおかしくないとのこと

65号棟から70号棟、30号棟が調査された動画も

そしてスクリーンには今の軍艦島の風景が映し出される
建物は崩壊を続け、緑はその隙間をうめていく
ドローンによる空からの視点で軍艦島の風景を感じる
無人島となり来年で50年。これからも軍艦島の行く末を
映し出されるオレンジの薔薇
映像はモノクロへ。かつてそこにあった風景が映し出される
墓所以外はあらゆるものが揃っていたという海上都市
そこには多いときで5000人を超える人々の生活があった
日本の産業革命を支えた炭鉱の島
階段に集まる子どもたちの姿や
日常の買い物など風景や
そして明かりが灯る軍艦島
ミュージアムには30号棟の模型や
当時の暮らしを再現した部屋の様子も
デジタルだけでなくアナログの展示も。
軍艦島デジタルミュージアムを楽しんだ

いろんな角度から軍艦島を楽しんで

そして訪れることのできない建物内部に想いをはせて

世界遺産となった軍艦島にあった共同体としての形

軍艦島はもとは南北約320m、東西約120mの岩礁で、
数回の埋立工事により、南北約480m、東西約160m
の大きさに拡張された。その島には1960年の最盛期
の頃には5,267人の人々の生活があり、その人口密度
は東京の特別区の5倍以上にも達していたという。

その生活の場となったのが島に建てられたアパート。
1916年に日本初の鉄筋コンクリート造のアパートが
建てられた後に、次々と高層アパートが建設された。
1974年に無人島となった後、島に残された建物は
年々、風化し続け、廃墟の風景が広がる。そこには
想像をこえる生活があったことに思い馳せてみる。

軍艦島を訪れて、朽ちてゆく建物の向こうに、かつて
そこにあった島の人々の生活に思いをはせる。そして
軍艦島ミュージアムでは、当時の風景や生活を体感し、
島が今に伝えるものを感じる貴重な体験ができた。

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