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美しさは罪のこと、美しさは罰のこと(映画『世界で一番美しい少年』レビュー)

 これほどまでに美しい人から、私達は何を奪ってしまったのでしょうか。

 先日、映画『世界で一番美しい少年』を見てきました。イタリアの巨匠ルキノ・ヴィスコンティが監督を務めた映画『べニスに死す』(1971)で、主人公を魅了する美少年役を演じ世界中を夢中にさせた人物を追ったドキュメンタリーです。

 彼の名前はビョルン・アンドレセン。深いグレーの海の色をした瞳を持ち、かつて"The most beautiful boy in the world"(世界で一番美しい少年)と呼ばれた男性です。

 『世界で一番美しい少年』は、過去と現在が交互に語られる構造になっています。ビョルン・アンドレセンがヴィスコンティに見いだされ、神のように完璧な容貌で世界を虜にした過去と、それから48年経ち、人間らしい生活を送るのもままならず不潔極まりないアパートで大家に追い出されかけるほど落ちぶれた現在。

 あまりに対称的な栄光と没落が描かれる中で、しかし観客は年月が経っても変わらない2つのものを、そこに見つけることが出来ます。1つ目は、年をとっても衰えることのない、ビョルンの神がかった美しさ。そして2つ目は、幼い頃から今に至るまで変わらない、ビョルンの不安げな目と、おどおどと周囲を伺う表情です。

 物語の縦軸では、かつての栄光の陰で当時15歳だったビョルンが如何にマスコミによって搾取されたかや、それがどのように人生に暗い影を落とすことになったのかが語られていきます。

 一方、横軸で語られるのは、彼が自身のルーツを探す旅です。娘や妹と再会し、幼い頃に生き別れた母親について調べていくビョルンの姿を追いながら、観客はこの男性が自らの数奇な人生において取りこぼしたものの大きさに打ちのめされます。
 1人の子どもが大人になるまでに必要不可欠なものと、それが与えられることがなかった結果が、老いてなお美しい彼の顔を介して、まざまざと立ち上がるのです。

 ひとかけらの福音となっているのが、少女漫画家である池田理代子さんがビョルンを評じた言葉です。

 年老いたビョルンは、かつて自分を熱狂的に迎え入れた日本を訪れ、自分を起用した業界人との何十年ぶりの再会を果たしていきます。
 その中のひとりが『ベルサイユのばら』の作者である池田理代子さんです。池田さんは、主人公オスカルのモデルはビョルンであったと明かし「この世の中にこんなに美しい人がいるのか」と感じた当時の驚きを回想します。そして、年老いたビョルンとの出会いを経て「当時の自分は彼の表面的な美しさだけを見ていたと思っていたが、ちゃんと彼の内面も見ていたのだと分かった」と語ります。
 
 これは、「僕は性的象徴でオブジェのようだった」と自分の見た目を異物のように捉えるビョルンに対する、救いとなりうる言葉だったように思います。
 みんなが愛したのは、あなたの顔のパーツの位置や形だけでなく、そこに滲むあなたの精神性、繊細さや清廉さでもあったのだと。そして人生において多大な犠牲を払いつつ、あなたは60歳を過ぎた今でも、その美しさを未だ宿しているのだと。

 いつだったか、友人たち数名と「美しさとは何か」について大いに語り合ったことがあります。(もちろん酔っ払っています)

 美とは力だ、いや刹那であることだ、異物であることだ、と口々に持論を展開する中で、1人が「美とは鑑賞者を映し出す鏡であることだ」と言ったことを今でも覚えています。
 自分自身は何者であるかを、目の前に突きつける力こそ美。誇れる自分の姿も、歪んだ自分の姿も、そこにはありありと立ち現れる。だからこそ、私達は美から目が離せず、時に愛し、時に憎む。
 つまり、美とは「お前は何者か?」という問いであり、問いの力が強いほど、私達は一層そこに美しさを感じてしまうのだと、私は理解したのでした。

 映画の中では、『ベニスに死す』の監督を務め、名声を一層高めたヴィスコンティの言葉が要所要所に挟み込まれます。タイトルの「世界で一番美しい少年」もその1つなのですが、それ以上に私が気になったのは、「美」という言葉が、時に「死」という言葉に置き換えられている点です。
 「美を見つめることは、すなわち死の凝視だ」
 「彼は死の天使だ」
 自身が何者であるかを美を介して見つめる時、私たちはそこに自らの不完全さ、滅びゆく肉体を抱えた存在であることを目の当たりにするのかもしれません。

 『ベニスに死す』のタジオ(ビョルンの役名)が最も印象的に見えるのは、少し目を伏せる憂いを帯びた表情を浮かべる時です。そこで鑑賞者が受け取る問い(「お前は何者か?」)は深淵の中にあり、近付いてはいけないといった類のものなのでしょう。

 映画のエンドロールで使われるのは、かつてのビョルンが日本語で歌いレコーディングされた歌謡曲です。日本語など学習したわけでもないのに流暢に歌い上げている理由を、レコーディングを依頼した音楽プロデューサーは「彼は耳が良かったんでしょう」と語りますが、当然です。ビョルン・アンドレセンは、音楽家になりたかったのですから。

 音程は整っていますが、載せられた歌詞はどこか覚束なく、戸惑いの色を帯びています。それは『ベニスに死す』のオーディション会場で、目をぎらつかせた監督ヴィスコンティに、上半身裸になるように命じられた際のビョルンの不安げな表情と非常によく似ています。

 ドキュメンタリーは、かつてのビョルンが浜辺から海へ走り、笑いながら振り返るシーンと、現在のビョルンが1人浜辺を歩くシーン、そして亡き母親の手紙を口ずさむナレーションが重ねられてラストを迎えます。こんなにも寂しいシーンなのに、それは神話のように美しいエンディングだと、言わざるをえないような終幕なのです。

<了>

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