NFTの時代の代替可能な「いいね!」
最近、何だか知らないけれど、デジタルの絵?とか動画?なんかが、やたら高い値で売れているというニュースをよく耳にするようになりました。
NBA選手のプレーの様子を切り取った動画とか、モザイク模様のよく分かんない絵とかが、何千万円で落札とか。物によっては数十億とか。
これって結局はバブルということなのですが、そもそもこんなマーケットが成立するなんて、今までは考えられなかったことなのです。なぜかというと、デジタル上のものって、絵だろうと動画だろうと音楽だろうと、基本的にコピーできてしまうからです。誰でも無限にコピーできるものに、大金を払うアホはいません。
じゃあなんで、アメリカのお金持ちが、オークションで○億円で落札! とか言ってるかというと、「オリジナル」に当たる作品に、「これがオリジナルですよ」というハンコを押す技術が一般的になったからです。
この「オリジナル印」はコピーできません。イメージで言うと、いくらオリジナルの作品をコピーしたとしても、コピーされた作品にはハンコが押されていないわけです。すると「やぁやぁ、こいつはコピーですね」ということが分かってしまいます。
つまり、たとえデジタルデータであったとしても、オリジナルが、オリジナルであることを証明できるようになったのです。
そのため、デジタルデータにも資産価値が生まれるようになりました。
結果、アメリカのお金持ちがオークションで○億円で購入なんていう事態になったのです。
ちなみに、このハンコは超優秀なので、持ち主が変わっても「初代持ち主はAさん」「2代目持ち主はBさん」「3代目持ち主はCさん」みたいに、歴代のご主人さまを覚えておけます。だから、例えば悪いDさんという人がいて、不当に誰かに作品を売りつけようとしたとき、ハンコを見たら辻褄が合わなくなるのです。「やいやい! 今の持ち主はCさんなはずなのに、どうしてD君が持ってるのかね!」と迫れるわけです。便利ですね。
説明が長くなりましたが、このハンコのことを、NFTと言うそうです。
NFT(non-fungible-token)は、「他のものに換えることができない印」という意味です。
※ちなみにtokenを「印」と訳しましたが、この場合は「イーサリアム上のERC721規格に基づいて発行された印」というのが正しいです。訳わかんない単語がいっぱいですが、説明は割愛します。ただ「デジタルの世界にも、偽造防止のための便利なハンコができたんだなあ」と思ってもらえれば、ここでは十分です。
※私はデジタルの勉強は今まで全くしたことがなく、さらに自分でも笑ってしまうくらい雑にNFTの説明をしているので、きちんと勉強したい方は専門書など読まれてくださいね。ただ、なんとなく構造として↑を事前に頭に入れておくと、専門書を読む時に便利かなあ、そうだったらいいなあと思って書きました。
で、今回のテーマは「交換」です。
NFTは、本来なら「唯一無二ではない」=「他のものと交換可能」なものを、「交換不可能」なものに変える技術です。日本語では「非代替性トークン」と訳されます。
この「交換可能/不可能」という概念は、SF小説で頻繁に使われるモチーフでもあります。
例えば、アメリカの作家レイ・ブラッドベリが、冷戦中の1953年に発表した『華氏451度』です。24世紀のアメリカを舞台にしたディストピア小説なのですが、主人公の妻ミルドレッドは瀕死となった際に、体中の体液をすっかり「交換」することで蘇生します。ただ、元気になったのはいいものの、ミルドレッドは、瀕死となった前後の記憶を失っています。これは、「体液」がミルドレッドを生き物たらしめていたものであり、本来は「交換してはいけない(交換不可能)」ものであったにも関わらず、科学の力で「交換可能」にしてしまったことの代償と言えます。
「機械の体を手に入れる」ため旅をするのは、『銀河鉄道999』の主人公である鉄郎です。鉄郎は一途に「死なない体」を求めますが、これも「自分の肉体」という「交換不可能」なものを、「機械の体」に交換しようとしているわけです。
(ちなみに、物語の要所要所で、鉄郎が食欲に負けてメーテルの言いつけを破り、勝手な行動をするシーンが登場します。「辛抱たまらん」とか言いながら。昔はそんな鉄郎に本気でイライラして「辛抱しろよ」と思っていたのですが、今思えば鉄郎は圧倒的に「生きた肉体」を持っていたのですね。)
ミルドレッドと鉄郎に共通して言えるのは「かけがえのないものを交換してしまう」、いわば「禁断の交換」の場にいるということです。
なぜそれが禁断なのか。
それは、ひとたび「交換可能」にしてしまえば、その後はいくらでも交換することが可能になってしまうからです。
体液をすっかり交換されたミルドレッドは、また瀕死になったら同じことをして、何度も記憶を失うでしょう。
鉄郎が機械の体を手に入れれば、その後、体がどんなパーツに付け替えられても、本体がすっかり別のロボットにすげ替えられても、そこに抵抗はないわけです。
永遠不滅であるための、1つの回答が「交換可能」な存在になることです。
しかし、それには罠があります。
「交換可能」になってしまえば、2度と「交換不可能」には戻れないのです。この不可逆性こそが、ミルドレッドや鉄郎が忘れてはいけない「禁断の交換」の特性なのです。
話をNFTに戻します。
「交換不可能なもの」を「交換可能なもの」に変えてしまうのが、ミルドレッドや鉄郎の例です。
一方で、「交換可能なもの」を「交換不可能なもの」に変える、つまりミルドレッドや鉄郎と逆のことをやっているのがNFTです。
これが「禁断の交換」に相当するのか、答えを出すには、まだ少し時間がかかりそうです。
熱狂的なNFTバブルが治まったとき、クリプトアート(NFTと結びついたアート)市場に何が残っているのかが、その回答となるでしょう。
これって、交換していいの?
それとも、交換しないほうがいいの?
そんな「禁断の交換」を思わせる、短い小説がありました。
長崎県に拠点を置く、編集室水平線さんが運営している「雨晴」というサイトに掲載されている短編です。
諸屋超子さん、という方が執筆されているのですが、あっという間に読み終わる上に、とてもとても面白いのです。読んでほしいです!
舞台は恐らくスターバックスで、そうでなかったらタリーズコーヒーで、とにかく街のどこにでもあるコーヒーショップです。
そこで主人公は「怪物」に出会います。そいつはショップの女店員の姿をしていて、何だか妙に主人公に話しかけまくってきます。雨がどうたらとか、濡れたらどうたらとか。挙句の果てには、渡すコーヒーの紙コップにメッセージまで書いて寄越してきます。「ありがとうございます」とか何とか。
どうですか。恐ろしいでしょう。
いえ、違いますよね。これは怪物ではなく、ただのフレンドリーなコーヒーショップのスタッフです。しかし、読者は主人公とともにコーヒーが渡されるのを待っているうち、この女性店員の「怪物らしさ」を、そこかしこに見つけてしまいます。尖った牙を、捻れた角を、スタッフお揃いのエプロンの裾から覗く、黒い尻尾を。
それは彼女は、顔見知りでもない客にさえ「承認して欲しい」という欲求を持っている怪物であり、その欲求を我慢することのできない怪物であることの証明です。さらにこの怪物は狡猾なことに、自らを承認してもらうために、相手を承認するフリをするのです。つまり、「自分への承認(私を見て!)」と「相手への承認(あなたを見てあげる!)」を交換することを強制してくるのです。
この怪物の禍々しさは、2つあります。
1つ目は、「自分が相手を認めること」と「相手が自分を認めること」を、イコールとして扱っていることです。誰かが誰かを認めることは、完全に個人の自由です。さらに言えば、どの程度認めるかも個人の自由です。にも関わらず、怪物はその自由を許しません。「認める」もしくは「認めない」自由を奪おうとする点で、怪物は怪物なのです。
2つ目は、主人公にとって「誰かを認める」という行為は、「交換不可能」なものであるにも関わらず、無理やり交換しようと迫ってくることです。おそらく怪物にとって「誰かを認める」ことは「交換可能」であり、「その代わりに、自分を認めてもらう」という行為を、今までに何百回何千回と繰り返してきたのでしょう。これは、文中の表現で言えば「ホスピタリティ」ある振る舞いのようで、明らかに「禁断の交換」を、主人公に対して持ちかけています。
一度、この交換を受け入れてしまえば、主人公の「認める」行為は、「交換不可能」なものから「交換可能」なものへと変質してしまい、二度と元に戻ることはありません。後戻りできない、悪魔の取引なのです。
さて、この光景、どこかで見たことがある気がします。
そうです、SNSの「いいね!」機能です。
友人とSNSのアカウントを教え合い、相互フォローをしてしまったが最後、表示される相手の投稿には「いいね!」ボタンを押すしかありません。そして、自分が「いいね」しているのに、相手から「いいね」が返ってこないと、なんだかモヤモヤしたものが心に残ります。
私達は、自分の「いいね!」を、相手からの「いいね!」と交換しているのです。その本質は、相手への承認からは遠く離れています。お金と商品を交換するように、「いいね」を「いいね」で購入しているとも言えます。
誰かを素敵だと思うこと、その気持ちを伝えたいと思うこと。
ただそれだけの感情が、交換しないことを許さない、怪物たちの暴力によって、あっという間に劣化し、代替可能(Fungible)なものとして扱われてしまうのです。
『承認なんかされたくない午後の雨』の主人公は、コーヒーショップから出る時に、きっとあの女性店員から余計な一言を貰うはずです。
「ありがとうございました、雨の中お気をつけて!」とか「これからお仕事ですか? お疲れさまです!」とか。
そうでなくても、意味ありげな目配せとか。
妙に慈愛に満ちた微笑みとか。
だから、どうか、と私は願ってしまいます。
主人公には、聞こえないふりをして欲しい。
何の感情も移さない目で、この店員の前を通り過ぎて欲しい。
店を出た途端に、こんなこと綺麗さっぱり忘れて欲しい。
私達の承認は、交換可能なんかじゃない。
<了>
参考書籍:
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