見出し画像

一昨日7月8日(水)愛する祖母が永眠しました。

一昨日7月8日(水)愛する祖母が永眠しました。

僕は初孫で、それはそれは僕を可愛がってくれた祖母でした。末期の胃癌で手術も出来ず、ここのところずっと入院していました。

最初、吐血もあって永くはもたないかなぁと家族と話していて、いつでも名古屋に帰れるよう準備をしていたのですが、さすが戦前生まれ。心臓がとにかく丈夫だったようで、もう食べものも飲み物も喉を通らない状態だったのに、ここまで3週間、点滴だけで凌いで来ていたのですが、

「まだちょっと持ちそうだから、意識のあるうちに顔を見に来たらいいよ。あなたにはお祖母ちゃんに会う権利があるのだから。」という妹の容子の言葉に背中を押されて、不要不急じゃない事情で単身、名古屋へ。

コロナ禍の最中なので、病院は面会謝絶なのですが、付き添い一人だけは認められていたので、名古屋駅から直接、祖母の入院している病院に向かって、前の晩、徹夜で付き添っていた母と交代して。

祖母はきっと、僕のことなんか誰が誰だか分からないんだろうけど、(分かっていたのかも知れないけど、)僕の顔を見ると凄く嬉しそうにしてくれて。結果7時間ほど、小さな病室で、祖母と二人きりの時間を過ごすことが出来ました。

僕の手を握りながらじっと僕の顔を眺める祖母の表情。握っている手や背中をさすっていてやると気持ちよさそうに眠って、しばらくして起きると外や、天井をじっと眺めていた祖母のまなざし。その間、取り立てて言葉を交わすこともまったくなく。ああ。付き添うってこういう時間を過ごすことなんだと改めて思い知りました。

僕のほうに頻りに手を伸ばすので、何かと思ってからだを近づけると、不思議そうに僕の着ているシャツのボタンをいちばん上から一つひとつ、確かめるように触っていったり。

とても落ち着いていたので、そのまま夜番の、もう一人の妹の祥子と交代していったん実家に帰ってみんなと夕ごはんを食べていたのですが、夜半に様態が急変。頻りに痛みを訴えて。痛み止めを祥子が看護師さんに何度かお願いして落ち着いて、昨日はなんとか朝を迎えることが出来たのですが、祖母の長男で僕の父である勝次が午前の付き添いの当番にいって、彼が立ち会っているときに、すっと途絶えるように息を引き取りました。

急いで家族を呼んでくれ、という医者の呼びかけに病院にみんなで駆け付けたのですが、残念ながら臨終には間に合わず。病院に駆けつけたときにはまだ、祖母のからだが温かかったのを覚えています。

それからは父と、先日、3か月前に亡くなったばかりの父の弟の妻、僕にとっての叔母と、母と、妹二人がテキパキと葬儀の手配をし、病院からそのまま実家の近くの葬祭場へ。こんなときは実家を遠く離れて暮らしている者はホント、役立たずですね。苦笑

葬祭場に着いたら昨夜のうちに枕経をあげて貰い、今日は午前中から故人にとっては最後の入浴であり俗世の穢れを流す行為である湯灌をし、死に化粧をして貰い、家族で死に装束を着せ、納棺の儀。そして今晩のお通夜。明日は午前10:00から告別式というところです。

お通夜は家族葬にするつもりだったのですが、思っていた以上の方がいらして下さって、とても賑やかなお通夜になりました。

画像1

あと10日生きていれば95歳というのだから、大往生です。それでも、会話は出来なくともいろいろコミュニケーションの取れた一昨日の午後は、僕にとっては救いになっています。

きちんと看取りが出来たというか、看取るということについて改めていろいろ考える経験をしました。叔父はもう、臨終には立ち会えなかったし、緊急事態宣言下での入院だったので入院中に面会も出来なかったので。

昨日の夕方に駆けつけてくれた妻の優子さんと一緒にお線香の番で、故人とともに過ごす最後の晩ということで僕ら二人は昨夜から葬儀場の控室で寝ています。ふと目が覚めてしまったので、今の気持ちを整理しておきたくて書き記しています。

入院してから3週間交代で、毎日24時間付き添いをしてくれた母と叔母、妹二人と父とには本当に感謝です。僕は最後の、祖母のとても機嫌のいい一日だけ付き添いをさせて貰って、その翌日ですから、いいとこどりな感じです。しかもそんなことだから祖母は、ひょっとしたら僕を待っていてくれたのかな、と柄にもないセンチメンタルなことを思ったり。

画像2

4月に叔父を亡くし、そして昨日祖母が他界し、名古屋の実家も賑やかな人が一気にいなくなりました。二人続けてなので、本当にぽっかりと寂しくなりました。今は、遺された家族や親族を大切に想って、明日の告別式と、火葬と、初七日の時間を過ごそうと思っています。

東京には土曜日、7月11日に帰ります。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?