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目の前の風景 – 2024/4/3

 今日も雨が降っている。そして寒い。窓の外を見るかぎり、春を感じさせる風情はどこにも見当たらない。この前の日曜は27度もあったというのに、三寒四温にもほどがあるんじゃないだろうか。とはいえ、前にも書いたように、わたしとしては寒いほうが好きだし、体調も良いのでありがたい。とはいえ、桜の木や、冬眠明けの熊からしてみれば、いったい今は春なのか夏なのか冬なのかわからなくて迷惑な話だろう。

 天気予報では午後から雨が降るということなので、今日は午前中にいなげやで買い物をすませる。やはり同じように雨を嫌って早めに買い物にやってきた主婦やお年寄りで、店内はかなり混み合っている。今日は水曜日でいなげやポイント3倍デーということも効いているのかもしれない。

 鮮魚コーナーでは特売で富山産のホタルイカが売られている。もちろん買うに決まっている。今年のホタルイカは豊漁だというニュースはやはり本当らしく、比較的リーズナブルな値段で買えるのが嬉しい。去年は不漁だったので値段が高騰して悪夢のような値段だったから、なおのことありがたい。うちは母方が富山出身ということもあり、ホタルイカには目がないのだ。ホタルイカがスーパーに並ぶようになると「ああ、春がきたんだなあ」と感じるくらいだ。これを醤油と日本酒で軽く炒って食べると最高である。関東では沖漬けにしたり、からしを酢味噌を添えたりするのが一般的だが、あんなのは母から言わせると邪道らしく、そんな食べ方しか知らないなんて関東の人間は気の毒だと鼻で笑うほどである。確かにホタルイカは醤油と酒で軽く炒る食べ方がいちばん美味い。それは太陽が東から昇り西に沈むのと同じくらい確かな真理である。

 買い物をすませて店を出ると、自転車置き場でちょっとした人だかりができている。何事だろうとのぞきこんでみると、ママチャリ2台と50代くらいの女性2人を取り囲むように、警官が4人もいて、なにやら自転車を指さして議論している。よく見ると、フレームが少し凹んでいるようにも見えるが、細かい事情はまったくよくわからない。自転車同士で衝突して傷でもできたのだろうか。それとも荷物が盗難にでもあったのだろうか。なんにしても、たいした事件というわけでもなさそうなのに、警官が4人も出動するというのはちょっと大げさじゃないかな、と思わないでもない。地方のニュースで熊が市中に現れるたびに警官が百人ぐらい出動して対応にあたっているのを見ていると、住民にとっては確かにありがたいことなのかもしれないけれど、他にもっと警察の仕事ってないのだろうか、と思わないでもない。なんにせよ、日本はやはり平和な国なんだなと思う。

 そのとき、レジの横で展示されていたピーター・ラビットのぬいぐるみ(なにかのシールを集めるともらえる景品らしい)を物欲しげに抱きしめている5歳ぐらいの女の子と、その横で手持ち無沙汰な様子でカートを前後に押しているやや年上の女の子がいたことを思い出す。おそらく彼女たちは姉妹で、母親が会計をすませて戻ってくるのを待っているのだろう。妹らしき女の子は、どうしてもピーター・ラビットのぬいぐるみが欲しいらしく、何度も愛おしげに抱え上げようとするのだが、ぬいぐるみには盗難防止用の紐がついているので、一定の範囲までしか動かせない。姉らしき女の子はそんな妹の様子を呆れたように横目で見ているが、とくに止めようとはしないで、カートにもたれるように動いている。やがて妹がぬいぐるみを諦めて、その代わりだと言わんばかりに、姉のお腹にがばっと両手で抱きつく。姉はくすぐったそうに体をよじってケタケタと笑う。そうしているうちに、母親らしき30代くらいの女性が買い物袋を抱えてやってくる。今度は姉が嬉しそうに、母親の片腕にぱっとしがみつく。妹も負けじと、母親の足にぱっとしがみつく。

 とても平和な光景だ。

 だがその直後に、Xに絶え間なく流れてくる子どもたちの遺体の写真のことが頭をよぎる。それほど長い時間ではない。たぶん1秒からせいぜい3秒くらいだろう。でもその死のイメージは、確実にわたしの頭の中に浮かび上がる。今では子どもの姿を見るたびに、それらの死のイメージが浮かび上がり、一瞬だけ息がつまるのを感じる。でも、それは過ぎ去っていく。わたしはそれらの死のイメージを断固として振り払い、わたしの現実に戻ってくる。わたしが生き延びなければならない現実に戻ってくる。現実とは人の数だけ存在するのだし、人が選び取れるのは自分の現実だけなのだから。

 わたしは自転車置き場の人だかりから離れ、家路につく。たしか今日は燃えるゴミの日だから、帰ったら捨てにいかなきゃな、と思いながら。

 それにしても寒々しい日だ。いったい春はどこにいったのだろう?

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