眼前の風景ー2024年3月11日
時刻は午後3時5分。わたしはいつものように近所のショッピングセンターの屋上にきている。ここで10分ほど時間を潰し、そのあと1階のいなげやで夕飯の買い出しをするのがいつもの日課なのだ。
ここの屋上にはいちおう花壇らしきものがあり、土が敷き詰められた一角があるのだが、誰も整備していないのか、花が咲いているところを見たことが一度もない。ただ、風で飛ばされてきた名も知らぬ草花の種が芽を出し、あちこちに小さな青や黄色の花を咲かせている。お世辞にも栄養がありそうに見えない乾ききった土に根を張り、花を咲かしている植物たちを見ていると、確かに春のやってくる気配が感じられる。まだ風は肌寒いものの、見上げる空は、もう冬特有の晴れ渡る晴天ではなくなっている。薄い筋雲が幾重にもベールのように広がり、大気は白く霞んで見える。おそらく花粉も盛大に飛んでいることだろう。でもわたしはそれほどひどい花粉症ではないし、今もしっかりとマスクをしているからあまり気にならない。
今日の屋上には、わたしの他に1組の母子の姿がある。あまり見かけない顔だが、それは単にわたしが顔を覚えていないせいかもしれない。母親は三十代前半くらいで、子供は五、六歳くらいの男の子だ。顔立ちの幼さからしてそれぐらいの歳だろうと思うのだが、体格が大きいので、小学生くらいの可能性もある。ちょっと小太りで、幼いころのわたしに少し似ている。母親は黒のダッフルコートを着て、髪はボブで、縁のない眼鏡かけている。ベンチに座り、前屈みになってひたすらスマートフォンをスワイプしている。男の子は屋上の金網のフェンスに顔を押しつけて向こう側に見える浄水場をしばらく眺めているが、それに飽きると店側のずらりと並んだウィンドウの出っ張りに足をかけて、ウィンドウに沿いながら恐る恐る伝いながら歩いていく。たぶんアクション俳優になったつもりで遊んでいるのだろう。トム・クルーズやブルース・ウィリスは地上二百メートルくらいの超高層ビルのウィンドウでそういうアクションをよくやっていた。でもこの男の子はトム・クルーズやブルース・ウィリスを知っているだろうか? もちろん知らないだろうな、とわたしは思う。そのせいで自分がずいぶん歳をとった気がする。そういえば今日はアカデミー賞の受賞式があった。キリアン・マーフィが主演男優賞を受賞したらしい。キリアン・マーフィは確かに素晴らしい俳優だ。でもトム・クルーズやブルース・ウィリスは「素晴らしい俳優」という次元を超えた存在なのだ。でも、彼らのような俳優はおそらく今後もう出てこないだろう。時代がすっかり変わってしまったのだ。
そういえば、今日は3月11日だった。多くの日本人にとって、8月6日や8月9日や8月15日と同じくらい重い意味をもつ日だ。そのとき、わたしは黙祷をするのを忘れていたことに気づいた。携帯で時刻を見ると、もう午後2時46分をとうに過ぎていた。わたしは目をつむり、遅ればせながら黙祷しようとした。でもそこには何か嘘が、欺瞞があるような気がした。正月には能登で大きな地震があり、二百人以上が亡くなっていた。ガザでは恐ろしいジェノサイドが進行していて、三万人以上の人々が殺され、今この瞬間も絶え間なく殺されつづけていた。今ではもうなかったことのように忘れられているけれど、コロナではもっと多くの人々が死んでいたはずだ。なんだか最近はあまりにも死が多すぎて、黙祷することに意味があるようには思えなかった。あまりにも死が多すぎるのだ。あまりにも。
だがそれでも、わたしは黙祷した。13年前、わたしは26歳だった。その頃は精神的に参っていて、大学を休学して、すべてが宙ぶらりんのままかろうじて生きていた。毎日山ほどタバコを吸っていた。そしてテレビで、あの恐ろしい波が多くの人々を飲み込んでいくところを、原発で起きた爆発を、呆然と見ていた。わたしは何もわかっていないただの子供だった。いや、今だって基本的には何もわかっていないただの中年に過ぎない。ただタバコをやめただけだ。
携帯を見ると、3時15分をまわっていた。気がつくと、もうさっきの母子はいなくなっていた。きっといなげやに買い物に行ったのだろう。わたしも買い物に行かなくてはならない。家族のために、ある程度まともな、栄養のある食事をこしらえること。それはこの世界で最も大切な営みのひとつなのだ。13年前はそんなことすらわかっていなかったし、自分ひとりの食事もまともに作っていなかった。でも今はそうではない。目下のところ、わたしの使命は、家族のためにまともな食事をこしらえることだ。それはとてもはっきりしている。今夜は豚汁でも作ろう。トマトと胡瓜とハムでサラダも作ろう。それから冷蔵庫のほうれん草が傷んでいるから、お浸しにして食べてしまわなくては。あとは惣菜コーナーでアジフライでもあれば買っていくことにしよう。
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