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橋本絵莉子/日記を燃やして(2021、日本)

感情の込み上げ度 ★★★★

チャットモンチーのボーカルだった橋本絵莉子のファーストソロアルバム。今日はアルバムレビューというより雑記的な内容を書こうと思う。なお、僕は「です、ます」調で書くときは客観的、データの裏付けのあること。人にある程度読まれることを想定していて、「だ、である」で書くときは自分のメモとして書いている。だから、どちらが面白いかは読む人次第だけれど今日は「だ、である」の日。アルバムレビューというよりは「創作について」とか「音楽というコミュニケーション手段について」みたいな話を、主観的に書こうと思う。

チャットモンチーは不思議なバンドだった。僕はライブを観たことがないし、それほど強い思い入れがあるわけではないのだけれどアルバムを聴くたびに独特の感傷を得ることがあって、それはつまり彼女たちが「本物」だということなのだろうか。何か心を揺り動かされるものがあった。知っている誰かに似ているわけでもないし、別に彼女たちが好みというわけでもない。不思議な切なさと心のどこかをかき乱される感じ。メロディセンスが近いということなのだろうか。でも、彼女のような曲が書けるわけではないし、不思議な感覚があるアーティスト。

「音楽が好き」というのはどういうことなんだろう。自分自身で作った曲ですら良く分からない。あるメロディを思いつく、それはコードの制約、声域の制約などがある。自由に鼻歌で歌うか、ギターを弾きながら作るか、あるいは詩が先か。自分にとって何が一番心地よいのか。

音楽マニアであること、マニアというのは知識量の勝負になるし、あとはコンセプトの勝負。「今ない音」をどうにかして見つけて、そこに狙いを澄ませば一定数分かってくれる人はいる。じゃあ、僕は何のために曲を作りたいと思ったりするのだろう。もっと考えると、なぜ人は曲を作るのだろう。

チャットモンチー時代からそうだが、彼女の作る歌はどうも「創作というものについて」を僕につきつけてくるような感覚がある。メロディが心を打つ、とか、そういうことではなく、「音楽を創るということはどういうことか」を考えてしまうのだ。何故なのだろう、ということを考えながらこの記事を書いている。

村上春樹が「文章を書くということはどこかに着地するかどうかわからないけれど着地すると信じて書き続けるしかない、その信頼は自分自身の過去の経験からしか生まれない」みたいなことを(だいぶ言い方は違ったが)何かで書いていた。僕もそれなりに文章は書いてきたので、こうしてゴールを決めずに書き始めてもどこかに着地することは経験則上知っている。だけれど、どこの深さ(あるいは高さ、というべきか)に着地できるのか、どれぐらいの意味を掘り出せるのか、は書き終わってみないと分からない。こういう試みをしてみよう、という気持ちにさせるのだ、彼女の歌が。

僕は自分の声が好きだけれど、説得力がないことも分かっている。それは「才能」でもいいし「努力」で埋められるのかもしれない。で、別に今の僕はそれを苦に感じてはいない。音楽で身を立てる必要がないから。だけれど、今でも時々曲を作るし、詩を書いている。何故なんだろう。

この文章もそうだ。これは形を整えていない歌詞と同じ。しかしどうも入ってこないな。このアルバムは微妙な出来のようだ。僕を酒と共に酔わせてくれない。やはりバンドというのは偉大だったのか。

音楽の魔法とは何なのだろう、手が込んだ曲が心を打つわけではない。再現できないマジックのようなものがあるといえばあるが、トップアーティストは音楽を越えたところに位置づいている気もする。自分のいいたいことを決めて、それを表現する手段として音楽を選んでいる、ような。

音楽は一つの手段だし、熟練することである程度自在に操れるようになる。悲しい感情を伝えたいならマイナーコードを使えばいいし、それこそいろいろな手法がある。言葉で説明しずらいがボサノヴァのコード進行とかはマイナー調だけに頼らないコード展開で哀愁を伝えられるし、リズムパターンでも喧噪から静寂に移動するときに苦悩や悲鳴を感じさせる音を入れれば感情の変化を伝えられる。要は感情表現の手段だ。プレゼンテーションというと事務的に過ぎるが、音楽は「何をどう伝えるか」ということの一手段なのだと思う。五感のどこまで訴えられるか。聴覚だけが音楽ではない。だからライブは視覚も嗅覚も触覚も使える。

僕にとって「いい文章」というのは「現実の新しい見方」を手に入れる文章だ。今までの話の流れからどこかたどり着ける「新しい現実」はあるだろうか。

しかし彼女の歌い方は力みが取れてしまったように思う、ぎりぎりのバランスが保たれているような危うさがなくなってしまった。家庭を持ったことも影響しているのか。そうした「不安定なロックスター」に心惹かれるのはなぜだろう。僕にないものを求めている、というわけでもない。僕自身不安定な時期もあれば安定している時期もある。具体的な日常生活とは別に「若さ」というもの、「変化できる可能性」への希求ということなのかもしれない。

編集すれば2行ぐらいになる文章だ。それを探しながら書いているから長くなるし冗長になる。こうした文章を書きながら、エッセンスを抽出して歌詞を書いていく。それは歌詞でなくても文章でもいい。だけれど制約があった方が簡潔になりやすいから、言葉数が制約されている歌詞の方がいわゆる「名言」的なものになりやすい。

言葉で何をどこまで描けるのだろう。邦楽は「歌詞」が意味として入ってくる。僕はもともと作詞家になりたかった。昔は「歌詞」、音楽を通じて伝えられる言葉の意味に強い興味があったけれど、今はほとんど興味がなくなってしまった。意味は意味であり、音楽は意味を越えたものであっていいんじゃないかとも思う。歌詞が心に響くこともないわけではないけれど、どちらかといえば「言語以外の共感」を求めている。自分のことを言葉で整理したい、という願望がなくなった、あるいは言葉にある程度諦めがついたのかもしれない。言葉ですべてを表現しようとする、浮かんでいるもの、現実そのものの情報量をすべて言葉にしようとするのは凄くエネルギーのいることだから。

そうだ、彼女、チャットモンチーを聞いていて感じていたエネルギーとかひりひりする感じは「現実の感じているもの」をすべて言葉と音、メロディで表現しようともがいている、それが本気であることが伝わってくること、だったのかもしれない。音楽的に分析するより、生身の日常がぶつかってくる感覚というか。

僕は安全な場所でこれを書いている。切り離された言葉だけで誰かに刺さることはないのだろう。価値をわざわざ落とすことはないけれど、尖っていないナイフが刺さらないことは分かるし、すべての可能性を信じるのはかえって不誠実な気がする。「起きるかもしれない」と「ほとんど起きない」が同じだけれど、後者の立場に立つ方がいい生き方なのかもれない。判断すること、はたいていリスクを伴うし、間違っていることも多いから「あらゆる可能性に対して開いておくこと」は成長することとほぼ同義だと思うだのだけれど、それは曖昧になることなのかもしれない。

アルバムが終わった。文章も終わりにしよう。どこかにたどり着けただろうか。

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