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コップの水が半分であるとはどういうことか? ――時制に基づく思考パターンの分類

◆「コップに半分の水がある」

世の中には、「考え方が全然合わないな」と思う人と出会う機会は少なからずあると思われる。同じものを見ているはずなのに、どうしてこうも意見が分かれるのか? それが例えば趣味の話であれば、「人によって意見は異なるよね」とか「解釈は人それぞれだ」と言って流せるが、喫緊の問題が起こった時にはそうも言ってはいられない。「解釈性の違い」だけでは片付けられない問題は山ほどある。

そこで、今回私はドラッカーの「コップに水が半分入っている」という話をベースに、それにまつわる解釈のざっくりしたパターンを分析し、それぞれの長所および弱点について考察する。「コップの水が半分入っている」とき、人はどのようにこの事象を捉えるか。まずはドラッカーの有名な格言を見てみよう。

数学においては、「コップの水が半分入っている」ことと「コップの水が半分空である」ことの間に違いはない。だが、この二つの陳述の意味は全く異なっており、その結果も異なっている。もし一般的な認識が、コップに「水が半分入っている」と見ることから、「半分は空である」と見ることへと変化する時、そこにはとてつもない革新的な(innovative)機会がある。(Drucker 1985: 99)

ドラッカーのこの言葉をそのまま解釈すれば、「半分もある」と考えて現状に満足するよりは、「半分しかない」と捉えて、現状を改善しようと試みる姿勢こそが、革新をもたらす可能性がある、というものだ。しかし、この言葉は分かりやすいイメージを喚起するということもあってか、経営学という分野だけに留まらず、心理学的(?)な要素を加えた解釈もされている。それはつまり、「コップが半分しかない」と捉えて悲観的になるよりは、「コップに半分も水がある」と、現状あるものを積極的に肯定する方が幸福だ、という風に。

私個人としてはそのような解釈の可能性はさもありなん、といったところだが、さらに私はこの寓話に別の解釈の可能性を与えてみたいと思う。というのも、先日当サークルの会議において偶然この話題が出たときに、メンバー間で異なる読み解き方をしたのが印象的だったからだ。それはおそらく、単純な幸福論的な読み方でも、本来的な経営学的な読み方でもない、別の可能性を提示する。つまり、ある意味ではこのドラッカーの「コップ半分の水」の例え話は、個人の思考パターンの得手不得手を読み解くものでもあるということだ。

◆コップの水の時制

端的に言えば、この「コップ半分の水」の様相をどう捉えるかで、その人の志向性がどの時制に向かうかが分かるということである。言い換えれば、普段その人は物事をどういう角度から捉える傾向にあるかが分かる。ただし、あくまで傾向は傾向であり、分析の傾向それ自体に良し悪しというものはない。ではコップの水が半分であるということは、一体どういう風に読み解けるか、以下に列挙してみよう。

①どのようにしてコップの水は半分になったか(⇒過去志向型)
②コップの水が半分であることはどれだけ現実的な問題か(⇒現在志向型)
③いかにしてコップの半分の水を利用するか(⇒未来志向型)

このような分類それ自体は既に存在してはいる。例えば組織論の分野ではジョン・フューレイが『マインドタイム ――「未来思考」「過去思考」「現在思考」で最高のチームをつくる』という本を出している(註1)。彼によれば、過去思考(志向ではなく)型は確実性を、現在思考型は実現性を、未来思考型は可能性を追求するタイプであることになるが、ここではもう少し分析の角度を変えて説明してみよう。

まず、単純に語彙レベルで言えば、私が言おうとしている「志向(intention)」とは、「思考(thinking)」とは異なる。「思考」はもちろんその人の考え方や判断を指すが、「志向」は、考えた方や判断も含めた思考全般の傾向性を指している。次に、フューレイとは異なり、私は三者が追求する姿勢について、過去志向型を安心を得るため、現在志向型を不満を解消するため、未来志向型を何かを変革するためと、それぞれ仮定している。詳しくは各章で見ていこう。

◆過去志向型――安心感を求めて

まず、過去志向型は他の二者と比較すると定義しやすい。というのもこのタイプの人間は、コップ半分の水を見て「どのようにしてコップの水は半分になったか」を考えるのが得意だからだ。このタイプは過去の情報、つまり歴史から、現在あるいは未来についての分析のための土台作りを行う。彼ら/彼女らの信条は――スロベニアの哲学者であるスラヴォイ・ジジェクの言葉を借りれば――「新しきものの真の新しさを把握するための唯一の方法は、古きものの中にある『永遠の』レンズを通して世界を分析すること」にあると言える(註2)

したがってこのタイプの人間は、過去の事例においては、「コップの水が半分であること」がどれくらい普通のことだったのか、あるいは異常なことだったのか、その条件は何だったのか等を考える。そうした分析から、「コップの水が半分である」ことはどういう状態で、どういう比較の下で考えられるべきなのかを提案する。過去の事例を探求することで、「コップの水が半分であること」がどれくらい新しい出来事なのかを分析するのである。

このタイプは、よく言えば慎重な性格で、新しい事象を発見しても即座に飛びつくのではなく、ひとまず吟味し、反応を観察してからその事象について取り組むタイプである。しかし反面、前例踏襲型になりやすく、「かつてはこうだったのだから、今後もこうするべきだ」というような考えに陥りやすいとも言える。こうした傾向に陥らないためには、あくまで分析と判断は必ずしも一致しないことはままにしてある、ということを理解しておくことが重要であると思われる。


◆現在志向型――不満を解消する

続いて現在志向型だが、このタイプの人間は「今このコップの水が半分であることはどういう意味をなすのか」ということを考える。つまり、たとえ過去の例から引っ張ってこようとも、あるいは未来のありようを考えようとも、水が半分であるのは現実問題なのであり、その水が「半分である」ということはどういうことなのかを真正面から考える必要があると捉える。コップの水が「半分」と言う時、それは果たして半分なのか。半分であるなら、その意味とは? つまり、「コップの水が半分であると言われるこの状況は、一体何を意味しているのか?」ということを考えるのが得意である。

極言すれば、最も哲学的に「コップの水が半分入っている」ことに対して向き合うタイプがこの現在志向型である。それは、上記の「コップに水が半分入っている」ことの意味の探求から、「コップ半分の水をどうするか」という現実的な対応策まで含めている。その意味では現在志向型は、次に説明することになる未来志向型に共通する要素としての工学的な視点も含まれていると言える。例えば、アメリカの工学者であるヘンリー・ペトロスキーは、『フォークの歯はなぜ四本になったか――実用品の進化論』の中で次のように述べている。

今の世の中に存在するおびただしい数のモノは、果てしない未来を保証している。というのも、現存するモノはほとんどすべて、じっとしていられず不満を抱えた誰か、つまり「まずまず良い」状態でも欠点が残っているはずだと考える誰かにとって、あら捜しの格好な標的になるからである。それに反発し、現状に余計な手出しをすべきではないと叫んでも無駄である。文明の進歩そのものが、過誤と欠点の失敗の相次ぐ修正(そしてときには過剰修正)の歴史なのだから。(Petroski 1992=2010: 430)

このことを「コップ半分の水」の話に置き換えてみると、人は水が半分しかないことに対しても不満を覚え得る。なかなかこの話から具体的な例を想像しづらいが、例えばそのコップの大きさが少し異なれば、同じ水の量であっても満杯そうに見えたり、あるいはほんの少ししか入っていないように見えたりもするだろう。つまり半分という「状態」が良くないのであって、満杯そうに見えればそれで良いと考えることもできるということだ。

◆未来志向型――何かに役立てる

最後に未来志向型についてだが、このタイプの人間は「コップに残った半分の水をどのように活用するか」を考える。上記の2種類とは異なり、水をより直接的に「資源」と見なし、それを用いることで現状がどう変わっていくかを予想することが得意である。このタイプは、現在志向型で述べていた工学的な視点に加えて、経済的な視点をも有している。こうした発想は、換言すればプラグマティック(道具主義的)なものである。プラグマティズム(道具主義)とは、まさに読んで字の如く「コップ半分の水」を何かに役立てるものとして見なす思想のことを指す。

そうしたプラグマティズムの立役者の一人である、アメリカの哲学者であるW・ジェイムズは、1906年から1907年にかけて「プラグマティズム――古い考え方の新しい名前」という講義を行ったが、そこで語られた内容は未来志向型にとっても非常に親和性が高いと思われる。


……ある対象に対する考えを完全に明確にするためには、その対象からどのような種類の実際的な効果が引き出せるか、つまりその対象からどのような感覚を期待し、どのような反応を準備しなければならないかを考えるだけでいいのです。これらの〔想定される〕効果についての捉え方については、その効果がすぐに表れてきそうか、時間がかかりそうかどうかにかかわらず、それが私たちにとって積極的な意義を持つ限り、その対象の私たちなりの考え方の全体になるのです。(James 1922: 46-7)

つまり、そのコップの水がどうやって半分になったのか、ないしはその水が現在どんな問題を引き起こしているかという問題を焦点化するというよりは、そうした問題を解決するにあたって、その水が資源としてどのように役立ち得るかを考えるのが未来志向型であると言えるだろう。また、未来志向型はともすれば「予言者」とも言い換えることができるという点から―手前味噌で恐縮だが―私どもが発行しているジャンル不定カルチャー誌『アレ』Vol.5においても、そうした先見の明を持つ人物を比較考察を行った論考があるので是非参考にされたい(註3)

◆結びに代えて――権威論との比較において

以上までで簡単な分析は終えるが、あらかじめ断っていたように、過去型・現在型・未来型それぞれの傾向性自体に良し悪しは存在しない。むしろ、その人の傾向性を察知し、理解することで、齟齬が生じた場合に対処法を講じやすい。

さらにこうした比較・分類は、権威というものが何に由来するか、ということに関して現象学的な考察を行った、ロシア生まれのフランス哲学者であるアレクサンドル・コジェーヴの『権威の概念』との議論に接続が可能であると思われる。例えば彼は「権威」が、時間的構造をもつ世界のなかでのみ「顕在化」することができると指摘していたりする。こうしたコジェーヴの分析から私たちは、過去志向・現在志向・未来志向型それぞれが「権威」を持つようになるときの条件、ひいては特定の集団における知の志向性の在り方を測定することができるようになるだろう。

最後に、この記事は2019年9月に書かれて以来放置されていたものに加筆したものである。当サークル内でもこの記事についての扱い方に困ったらしく、ずいぶん長い間放置されていた。もしも公開上で何かしらの問題があった場合は私の責任である。

(註1)
他にも、いわゆる様相論理学と呼ばれる分野では、①はコップの水の〈必然性〉を、②はコップの水の〈現実性〉を、③はコップの水の〈可能性〉を扱うことになるだろうが、ここでは深くは取り扱わない。

(註2)
Žižek(2009: 6)を参照。

(註3)
松井(2018)を参照。

【参考文献】
・Drucker, Peter, 1985, Innovation and Entrepreneurship, New York: Harper & Row.
・James, William, 1922, Pragmatism: A New Name for Some Old Ways of Thinking, Toronto: Longmans, Green and Co.
・Petroski, Henry, 1992, The Evolution of Useful Things, New York: Alfred A. Knopf.
(=2010,忠平美幸訳『フォークの歯はなぜ四本になったか――実用品の進化論』平凡社.)
・Žižek, Slavoj, 2009, First as Tragedy, then as Farce, London: Verso Books.
・松井勇起,2018,「『先見の明』は科学的に解明できるか?」(『アレ』Vol.5収録,アレ★Club:88-121.)

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