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台湾における日本統治時代の政策から見る女性観

台湾で1895年から1945年までの50年間続いた日本統治時代。台湾総督府による近代化政策は、産業、交通、インフラなど様々な面で近代化を押し進めました。一方、地元文化や社会への介入もまた、植民地支配の影を色濃く映し出しています。

本稿では、洪 郁如氏の近代台湾女性史: 日本の植民統治と新女性の誕生を中心に、当時の女性観と教育政策を紐解き、解纏足の動きから「新女性」誕生までの歴史をたどります。植民地政府が文化介入した解纏足や、当時の教育令を見ることで、当時の台湾人女性に何を求められていたのかを見ることができます。

また、当時数少ない女性作家の一人、楊千鶴の作品にも注目し、当時の女性が抱えていた葛藤について考えます。東アジアにおいては、まだまだ男性家長の強かった時代。伝統と近代、家庭と社会、台湾と日本のはざまで揺れる女性の姿は、現代の私たちにも通じる問いを投げかけてくれます。

一, 解纏足運動から見る植民地政府の風俗への介入

台湾総督府の戸口調査によると、1905年時点で、台湾女性(本島人)の纏足状況は100人比率約57%であり、およそ半数以上が纏足の習慣を持っていた。

このような高い比率の中、総督府はどのように解纏足に乗り出したのだろうか。台湾統治開始時点から、纏足はアヘン・辮髪とともに漢民族の「悪習」と捉えられていた。特に纏足や辮髪は、見た目からして漢民族そのものの特徴であったことが、「日本人らしさ」に反発するとして、問題視された。

しかし、直接的な纏足禁止令は民衆の反発を招く恐れがあり、慎重な対応が求められた。そこで総督府が取った方法は、台湾人紳士たちの協力を得て、内部から改革を進めるという戦略だった。

当時、纏足は上流階級の女性を中心に広く行われており、彼女たちは外出の機会も少なく、植民地政府との接点も希薄だった。 また、家父長制的な社会風潮もあり、女性自身による解纏足運動は現実的では無かった。そこで総督府は、解纏足啓蒙活動の主体をエリート階級の台湾人男性に定めた。

解纏足への説得には、学校教育、新聞や雑誌での言論、そして内地観光という方法が活用された。 特に内地観光は、台湾人エリートたちの意識改革に大きな役割を果たした。

総督府は、台湾人エリートの中でも有力者を選定し、内地視察旅行を企画した。視察先には学校や工場が含まれており、彼らにそこで実際に働く日本人女性の姿を見学させた。 その様子は「台湾日日新聞」などに旅行記として掲載された。

こうした植民地政府の介入も手伝い、1900年には台湾人エリート達による天然足会が発足した。天然足会は、解纏足と風俗改革を推進することで、台湾社会の改革と近代化を目指した。台湾人エリートたちの間では、解纏足が近代的な女性像と結びつき、近代的な女性のイメージが徐々に形成されていった。

一方、当事者である女性たちにとって、纏足は単なる風習ではなく、美と結びつくものでもあった。特に当時の伝統的な結婚観において、纏足は重要視される項目の一つであり、結婚適齢期の未婚女性にとって、解纏足は縁談に支障をきたす可能性があった。

女子教育の普及は、このような伝統的価値観変容の要因の一つとなった。植民地政府は、女子教育の一環として体育の授業や遠足を導入し、女性たちに身体的訓練を行わせた。運動や体力向上を促すことで、纏足による身体的不便を実感させようとしたのである。この取り組みは、女性たちの身体的な自立意識を高め、纏足に対する従来の価値観を揺るがす効果を持った。

↓台湾における解纏足の歴史が分かりやすいアニメで説明されています。


二, 日本統治時代の女子教育と「新女性」の誕生

そのようにして纏足を解かれた女性たちは、だんだんと学校教育の機会が与えられた。そのような高等教育を受け始めたエリート女性たちは「新女性」と呼ばれた。

彼女たちの誕生の主な舞台は、女学校であった。この女子教育はどのように始まり、何が目的とされたのだろうか。

19世紀後半、ヨーロッパでは女子教育の義務教育化や婦人解放運動が盛んになり、女性の社会進出への機運が高まっていた。その流れは日本にも波及し、1874年には東京に女子師範学校(お茶の水女子大学の前身)が設立された。これは、日本における女子教育制度化の第一歩であり、女子高等教育の出発点となった。

教育者たちは、欧米列強に追いつくためには、教育の近代化が不可欠であると考え、女子教育の重要性を認識しはじめていた。初代女子師範学校学長を務めた中村正直は、イギリス留学を通じて、欧米の女性たちの高い知識や見識に触れ、日本の近代化の遅れを痛感した。

彼は、女子教育を通して「良妻賢母」を育成することで、国家の発展に貢献できると考えた。彼の「良妻賢母」思想は、単に家事や育児をこなす女性像ではなく、夫を支える内助に加えて社会進出を通して社会に貢献する女性像を指した。これは、元来の儒教的女性観とは異なる新しい価値観となり、戦前の女子教育における重要な柱となった。

一方、台湾における植民地政府による女子教育も、日本同様に、女性の妻としての家庭内役割が重視され、女子教育の目的は将来の良妻賢母を育成することに置かれていた。

これに加えて、台湾植民地の教育政策は同化政策に基づき、日本語教育が重視された。台湾人女性を日本的な文化や価値観に同化させ、やまとなでしこ的に教育することで、植民地統治の円滑化を目的としていた。

さらに植民地政府は、台湾人女性に対して家庭内役割に加え、風俗の改革という役割も重要視した。近代的な教育を受けたエリート台湾人男性と共に、家庭内から風俗改革を促進させる役割である。

このように、当時の台湾人女性は植民地政府によって、家事などの実務に加えて国民性の培養という二重の役割が期待された。

上述の思想のもと、1919年の第一次台湾教育令と1922年の第二次台湾教育令が発令され、少しずつ女性たちが学校に通い始めるようになり、「新女性」と呼ばれるエリート層の女性たちが誕生した。

彼女たちは、従来の纏足の風習から解放され、新たな教育を受けることで、知識や教養を身につけ、社会進出の機会を獲得しつつあった。このような高等教育を受けた女性た「新女性」と呼ばれ、彼女らの出現は、台湾社会における近代化の象徴として注目を集めた。

三, 当時の女子教育観

当時、どのような女子教育観が提唱されていたのだろうか。著書の中で、洪は台湾のジェンダー研究者 游鑑明の言説を引用している。游は従来の女性観を「斉家興国論」とし、近代的な女性観を「解放論」として、それぞれの特徴について言及している。

「斉家興国論」は、従来の良妻賢母の伝統的な教育観を基盤としつつ、家庭を基盤として最終的には国家の発展を目指す思想である。日本における興国女子教育論は、妻としての家庭内助の役割と、さらに国のために子を産み育てる母としての役割が重視された。

洪は、台湾における「斉家興国論」はこれとは異なる二つの特徴を持っていたと指摘する。一つは、家の利益の重視である。日本の「斉家興国論」では、家における利益が最終的に国家へと繋がるという考え方が一般的であったが、台湾における議論では、円滑な夫婦関係、嫁姑関係、家政能力、次世代の教育といった家庭内の役割がより重視されていた。

もう一つの特徴は、「国家」概念の曖昧さである。台湾知識人が女子教育論において「国」を用いる際、その国が台湾を指すのか、日本なのか、または中国なのか、解釈が曖昧になる。

洪によれば、これは国家概念の薄弱さというより、当時の論者たちが被植民者である立場から意図的に「国家」概念を曖昧にし、具体的な議論を避け、あくまで「理想」を提示するまでに留めたのではないか、と指摘している。

一方、「解放論」は、第一次世界大戦後の社会思想や婦人解放運動の影響を受け、新知識人たちによって提唱された新しい観点である。従来の「良妻賢母」像とは異なり、「解放論」は女子教育への「解放」、つまり家から学校への「解放」を強調した。

これは、当時の世界の社会思想や婦人運動に触発された議論であり、女性の地位向上や女性問題の解決を目的とする近代的な考えである。しかし、洪は、「解放論」における「解放」の意味を単なる「良妻賢母」像からの解放として捉えるのではなく、近代的な「新男性」に相応しい「新女性」の育成を期待した、という側面があったのではと指摘している。

  • 教育による植民地事情の理解 :家計の内助となるだけでなく、男性と同じように政治、社会、経済を含む植民地問題への理解。

  • 近代知識の取得:被植民者である台湾人男性・夫の思想を理解できる近代知識の取得。

上記ように、被植民者である台湾人男性の家庭内理解者としての期待が「新女性」たちに期待された。


三, 最後に

前述の通り、日本統治時代の台湾における女性教育は、国家統制とジェンダー規範強化という二つの側面を持っていた。植民地政府による「皇民化」政策の一環として、台湾の女性たちは国家(日本)の良き母として育成されることを期待されていた。

同時に台湾新知識人からは、従来のジェンダー規範とは異なる「新女性」像も提示された。この「新女性」像は、教育による解放と伝統的な女性観の維持という二つの矛盾を孕んでいた。その結果、「新女性」たちは家庭と社会の両立、伝統と近代の葛藤などの問題に直面することになったのである。

当時の台湾人女性作家であり女性初の新聞記者となった楊千鶴の『花咲く季節』は、彼女のような「新女性」たちが直面した葛藤を鮮やかに描き出している。 主人公は、伝統的な結婚観と新しい時代の価値観の間で葛藤し、苦悩する。戦前の女学生たちの生き生きとした生活は、内地の大正時代の女学生に通じるところがある。楊千鶴の感じていた矛盾は、以下のような文章に表れている。

お友達とは1箇月に一ぺんほど会って一しょに映画をみたり、本を借りあったりして、学校にいた頃とあまり変わらない付き合いをもちつづけていた。(中略)それは自分がじかにふれ、感じている身近なものでありながら、どうしてもそれを形にとって見ることが出来なかった。只分かっていることは、私たちには古い時代の因習と新しい時世の動きとの摩擦がより一層強くまとわりついていることであった。

楊千鶴, 花開時節(花咲く季節)四語文新版(華.日.台.英)【附台語朗讀】


今回、高等教育を受けた「新女性」に注目しましたが、彼女たちは台湾における女性文化のごく一部です。洪氏が問題意識として提起しているように、アジアの女性史への注目は慰安婦問題の注目から始まっており、より包括的な台湾女性史像を考察するためには、民衆女性の生活や文化にも目を向ける必要があります。さらに教育制度には、入試や待遇や、言語の面で台湾人に対する明らかな不公平も存在していました。

興味深いのは、台湾の「新女性」と、内地・日本で高等教育を受けた第一世代の女性たちが抱えた矛盾が非常に似ていることです。 当時の教育令や女性観は、男性目線で女性がどうあるべきかを規定しており、「解放論」という比較的新しい考え方でさえ、男性主観から抜け出ることができませんでした。

そして、この時代に提唱された「良妻賢母」の考えは、時代や形を変えて現代でも東アジア、特に日本においては女性規範として強く残り続けているように感じます。

中村正直が理想とした「良妻賢母」は、時代を経てアップデートされてきたのでしょうか。日本の近代の女性観についても今後深めたいテーマの一つです。

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