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認知症の母の喜怒哀楽について


母は要介護1の認知症である。私は母と同居し、弟は車で20分くらいのところに一人で暮らしている。
たまに顔を見せてもすぐに帰る弟に腹を立て、悲しそうにしている母をみて喜怒哀楽について考える。

「哀」はかわいがっている猫は野良猫だったため自由に家を出たり入ったりしている。そのため姿が見えないこともあり、「猫がいなくなった」と悲しむ。「怒」は私が請け負ってしょっちゅう怒らせている。「喜」は食べ物で。「楽」は記憶が保てないので、長く持たない。「喜」に近いか。
旅行などの非日常の計画や思い出の楽しみはもうない。緊張して楽しめない。幸いデイサービスではよく笑っているようだ。外出であり、同じところ、同じ人、おざなりではない対応が良いのだろう。

楽しい、うれしいだけのほうが幸せなのか、悲しみや怒りもあって生き生きとしているといえるのか。

自分にとってはどうか。喜びと楽しみばかりのほうがいい。ただ、そればかりだと思いが薄れていきそうだ。腹が立つから、悲しいことがあるから引き立つし、良いことを探す。まあ、生活していく上での原動力である。

記憶がほぼ保てない母にとって起きたことについての思い入れはない、できない。感情が漠然と残っているかどうか。生活しているので怒りや悲しみを無くすことはできない、怒りや悲しみの意味はあるだろうか。

認知症が進むと感情がなくなるという。それはどうなのか。楽になることなのか。


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