見出し画像

【第1話】(無料) 初めての父の愛情〜11年の海外生活を終えて日本に帰国。

2748文字)
写真は、「ベルリンにあるチェックポイント、チャーリー」と「日帰りで楽しめる運河のキレイなオランダ、アムステルダム」

2011年4月から始まった、ドイツのデュッセルドルフでの生活も18ヶ月が過ぎた。

2009年に申請したオーストラリアの永住権は、移民局からのメールが届き「貴方の申請書は、まだ審査するプロセスにはほど遠く、いつになるか分からない『無期限』のステイタスに切り替わりました。」との事。

永住権が発給されるまで2年という事だったので、「それじゃー2年間は違う国で、折角身につけた英語を使って仕事しよう!」と思い、デュッセルドルフの日航ホテルの中にある理美容室に来たのだが、オーストラリアの永住権の発給が無期限なんて言われたら、もう出ないだろうと思い諦めた。

ドイツのデュッセルドルフという約50万人の小さな都市は、多くの日本企業が支社を置き、ヨーロッパの基点とするらしい。それで日系企業の街に払う納税額が半端ではなく、日本人のビザ発給は優遇されているという。

「デュッセルで5年間働いて、5年間納税したら永住権がもらえるけど、どう?」とお誘いを受けたが…


ドイツ好きの方には申し訳ないのだが、ここで永住したいとは思わなかった。

ヨーロッパは歴史も深いし、芸術も優れていて、旅行するにも日帰りでオランダに行けるし、夜中0時の夜行バスに乗り、目が覚めて朝6時にはパリの凱旋門前に着く。一泊二日あればベルギーを楽しめる。

僕が1番ハマったのは、ベルリン。高速鉄道に乗って4時間強の距離を3〜4回は通った。どうしてか自分でも分からないのだが、東西冷戦時代のベルリンの壁に興味がそそられた。

当時のドイツ人の凄まじい生活があり、当時の事を知っていて英語を話せるドイツ人と友達になり、話を伺ったりした。一夜にしてできた壁。誤報による壁の崩落。チェックポイントチャーリー前にある博物館に行き、ドイツ語は読めないので、英語で書かれた歴史書を買って読んでいた。

そんな気軽に旅行に行けるデュッセルドルフは楽しいのだけれど、なにせ美容師の社会的地位が低い。国民性も真面目なのかいい加減なのか分からなく、オージーの陽気さと比べると閉鎖的でイヤになる時もあった。

ドイツの話は、また別な機会にするとして…。

ドイツ、18ヶ月。オーストラリア9年。アメリカ6ヶ月。合計11年の海外生活を終えて、実家に戻る決意をした。

永住権の申請が進まなかったのも理由の一つだが、もう一つは父親だった。

うちの父は、16歳から理容師の道に入り、半世紀以上も理容師として鋏を握って仕事をしている。今も(2019年7月1日現在)79歳で現役で理容室を営んでいる。

頑固一徹、職人気質の父親で、定休日以外は絶対に店は休まない。母親は美容師なのだが、僕が生まれてからは、父親の専属アシスタントで、二人三脚で理容室をやりくりしていた。

僕が子供の頃は、運動会といえば両親と親戚がお弁当を持ってグランドに敷物を敷いて応援に来てくれ、昼休みになると子供達は一斉に親の所に走って行き、敷物にいっぱいに広がっている重箱のご馳走を食べるというのが定番だった。

しかし、両親が理容室を経営している僕だけが、お昼休みは家に戻ってご飯を食べていた。子供の行事があっても、仕事最優先、お客さん最優先で生きてきた父親だった。

「お客さんが来てくれた時に、お店が開いているのが、最高のサービス。だから休まない」が口癖だった。

その父親が、息子の為に1日だけ店を休んでくれた日があった。

僕が、9年住んでいたオーストラリアから数週間だけ実家に戻り、次のドイツ行きの準備をしていた。そして、いよいよドイツに向けて出発する日(2011年4月)の朝だった。

「なんだ?こんな大きなスーツケースが二つもあるのか?」と父。

「大丈夫、タクシーでバスターミナルまで行って、荷物を預けちゃえば、あとは空港の中はカートに乗せて移動できるし、慣れてるから大丈夫」と返事した。

そしたら、思いもよらない答えが父親の口から…

「それじゃ、一緒に空港まで行ってやるから、店は休みでいい」

「いやいやいや、そんな事で店を休まなくていいから、大丈夫だから」と言ったのだが、そこは頑固親父、休むったら休む、行くったら行くなのだ。

一緒にタクシーに乗り、15分でバスターミナルに着き、そこから1時間ゆられて新千歳空港に着いた。父親と二人きりでバスに乗るなんて、何十年ぶりのことだろう。

チェックインを先に済ませ、荷物を預け、お茶しながら他愛ない話をし、保安検査場へ向かった。

「それじゃ、ここで大丈夫だから、ありがとうね。帰りのバス乗り場わかる?」って聞いて、「大丈夫だ、ちゃんと帰れるから」と父。

僕はカバンからパソコンを取りだして、保安検査場を通る準備をし、ちょっと振り返ると、まだ父親がこっちを見てる。僕はありがとうって手を振る。

セキュリティーをくぐり抜け、振り返ると、父親はロープの内側まで入ってきて、背伸びをしながらこっちを見てる。

僕は笑顔で手を振る。

僕がパソコンをカバンにしまって、振り返ると、検査場の入り口ギリギリまで入り込んで、のぞき込むように背伸びをして僕を探している。

そんな所まで入ってきたら、怒られるよ!ってところまで進んできて、まだ背伸びをして僕の姿を探している。

生まれて初めてといったら大げさなのかもしれないが、父親の愛情をこのような形で感じた。父親が息子を見送るという姿に感動し、僕は人目を気にせず大きく手を振った。父親の視界から僕自信が消え去るのに躊躇した。できることなら、搭乗時刻ギリギリまで父親の見えるところに立ち止まっていたかった。過去に100回以上は飛行機に乗っているが、最初で最後、空港で涙をぬぐったのは。

そんな父親との出来事があって1年後、僕がドイツ滞在中に父親とスカイプをしている時だった「もうそろそろ、床屋を廃業にしようと思っている」と衝撃の発言が!!

今まで辞めたいだの廃業だの、一言も言ったことがなかったのに、初めての「リタイア」発言!!


それから、僕も先々の事を考えた。結果、僕も年貢の納め時だなと思い。実家の床屋を後を継いで、近所の爺ちゃん婆ちゃんの髪でもやるか〜なんて思うようになった。

そこでタイミング良く、オーストラリア移民局から「無期限」の知らせ。

もう実家へ帰らない理由がなくなった。

ただ現実を考えた時、日本に帰っても顧客はゼロ。…と言う事は、年収ゼロ。

ビジネスの基本に戻って、ペルソナの設定、Webサイトを作ってSEO対策し、ブログを小まめにアップ、ちらしを作って近所にポスティング、そして11年前の顧客リストを使ってダイレクトメール。

やれる事は、何でもいいからやってみようと、作戦を練っていた。



画像1

画像2

ここから先は

0字

フリーランスを目指している人には、成功のエッセンスがこのエッセイに詰まっています。 2011年秋。長年の海外生活を終え、日本に帰国。顧客…

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?