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「令和」とは、仲間を励ます言葉である

ふと時間が空いた月曜日の朝、何の気なしに「令和」の背景となった歌について調べるべく『万葉集』を開いていました。改めて前後を読むと、とてもいい言葉だなと思ったので、ちょっと紐解いていくことにしました。

詠まれた日の背景

「令和」という言葉が出てくるのは、『万葉集』の巻第五、梅花の歌三十二首の「序文」です。天平二年正月十三日(現在で言うと、730年2月8日?)に、大伴旅人の家に集まって梅についての歌をみんなで詠んだという説明です。

ポイントは、その背景。大伴旅人が大宰府に赴任してくるのですが、実はその時に妻を亡くしているのです。ここで梅について歌を詠む前の部分には、妻を亡くした悲しみについての歌が多くあります。(万葉集巻第五、七九四~)

その大伴旅人を慰めると言ったら変かもしれませんが、みんなで家に集まって宴会が始まります。「さあ今から歌を詠もう」ということで、序文が書かれます。場の説明といったところでしょうか。この序文は当日その場で言われたものなのではないでしょうか。時は正月、今で言えば2月の上旬。梅の花はまだ咲いておらず、雪さえ降っているかも。

“時に、初月の令月にして、気淑く風和らぐ”

まず、季節や気候について語られます。ここが「令和」の元になった部分ですね。「やさしい月がでていて、柔らかい風が吹いてきて気持ちがいいね」くらいの意味でしょうか。

この言葉、大切な人を亡くした悲しみを抱える仲間にかける言葉としては最適と言えるのではないでしょうか。

「大変だったね」や「悲しかったね」って、つい言ってしまいがちですが、「月がやさしいよ。風が気持ちいいよ。」というだけの言葉は、無理してないですよね。悲しみから今この瞬間に立ち戻るためにはとても良い声がけです。気遣いが胸に沁みますね。

次にその宴の情景が語られます。すごく美しい描写が続くのですが、中でも

“ここに天を蓋にし地を坐にし、膝を促けて觴を飛ばす“

とあります。「天が屋根で地面に座って、膝を突き合わせて酒を飲む」といったところでしょうか。仲間たちが集まってきて車座になり、盛り上がっている感じが良くわかります。

集まってきた仲間の気持ちが、なんだか嬉しくなります。これぞ「和」ですよね。

歌の前提

それからもう一点、気になるところ。

“詩に落梅の篇を紀す”

と、書いてあるんですが、これは前後も含むと「昔の中国でも梅が落ちる歌が詠まれてるんだけど、昔と今と何が違うのか」という意味と捉えています。

「梅が落ちること」が主題なんです。失われていくものへの惜別がベースになっている。しかし、詠まれている歌はとてもポジティブな歌が多いんです。いつか失われることがベースになっているからこそ、今を楽しもう。そんなメッセージが伝わってきます。

咲き誇る梅についての歌が続いていく歌の中では、大伴旅人が「梅の花が散ってしまう、天から雪が降ってくるようだ」と(おそらくは悲しみをこめて)詠んだら、次の人が「梅なんかどこで散ってるの?まだ雪が降ってるくらいだよ?」って返すようなやりとりもあります。それって、すごく気が利いているなと。素敵な気遣いですよね。そんなこと言われてしまったら笑顔で泣いてしまいそうです。

歌たちの前提にあるのは、悲しみなのかもしれません。だからこそ、咲いてもいない梅が落ちることが主題になった。本当は降っている雪を落梅に見立て詠んだ歌かもしれなくて。雪は空から降る冷たい涙を比喩として。

そんな中、集まってくる仲間たちの気遣いが歌、現代的に言えばアートになり、傷を負った人が癒されていく。こんなに勇気づけられる話はないし、それは今の僕らの時代においても、ずっと同じです。同じように傷つき、同じように癒されてきました。

鎮魂としてのアート。素晴らしいです。

「今まで悲しいことがあったかもしれないけど、月もきれいだぜ!一緒にやっていこうぜ!」と、それぞれができることで寄り添い合う。これがチームビルディングやコミュニティの本質だと思うのです。仲間とか友達とか言うとちょっと恥ずかしいけど、これが日本が昔から大切にしてきた「和」の心です。「社会」そのものなんです。

「令和」とはそういった願いが込められた年号なんだなと思った次第です。素晴らしい時代にしていかなきゃですね。

※書き下し文はすべて『訳文万葉集』(森淳司編 笠間書院)より引用させていただきました。ありがとうございます。


追記1

和歌って、和して歌うから「和歌」なんですね。倭の歌(日本の歌)っていうことだけじゃないんだなと。

追記2

私は北九州古代史研究会を主宰しているメンバーでもあります。講師は、「田川邪馬台国説」を唱える、記紀万葉研究者の福永晋三先生にお願いしています。先生は万葉集の専門家でもあります。倭国二王朝論を唱える先生によると、その時大宰府(倭国)は戦争に負け(白村江の戦)唐の支配下であり、亡国の都だったと。その悲しみも前提としてある歌たちなんだと。

令和という言葉の背景には確かに悲しいことが並んでいます。でも、悲しいことがたくさん時代だからこそ、僕らは令(やさ)しい月や風を感じながら、今を和して生きていく。いまはつらいんだけど、我々はできることを共にやっていく。それは今の時代も同じだなと、そう考えました。

追記3

この記事を読んでくれた方から「この内容を話してほしい」とセミナーの依頼を受けて、やってきました。これは僕にとって、とても嬉しかったこと。自分が聴きたいことを、調べて、まとめて、話して、喜ばれた。そんな経験はなかなかない。

で、この時のことをツイートしたら、北九州市の市長にいいねされた。これもなかなかないことだと思う。

https://twitter.com/YappyHappy0712/status/1259105153023488001?s=20

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