宗教とマゾヒズム

 北森嘉蔵著「神の痛みの神学」はたいへん説得力がある。カール・バルトは北森神学に対して否定的評価を下していたようだけど、バルトの「ローマ書講解」は神と人間との隔絶がやたら強調されていて、福音というより律法臭い。北森神学の方が福音としての本来性を感じる。
 「神の痛み」とは神の怒りが愛であるから痛みになるというロジックだ。旧約における神の怒りと新約における神の愛が十字架の痛みとして矛盾なく整合している。
 旧約のエレミヤ書の一節にある「神の痛み」を拡大解釈したものだけど、該当箇所はルターもカルヴァンも注目したところだから神学的伝統を踏まえたものであり、北森だけの恣意的解釈でもなければ、バルトの言う日本的特殊性でもない。なにより北森神学には福音の喜びがある。
 福音は律法のように人間に対する強制ではない。敬虔と服従は喜びに満ちた自発性に基づくものであり、威嚇する神により強制されたのでは福音にならない。イエスによる律法の否定とは、強制による服従の否定である。強制にはいかなる喜びもないから福音にはならない。
 例えば「汝の隣人を愛せ」という命令には「自分を愛するのと同じように」という前提がある。強制によって命令に服従するのではなく、自分を愛する自発性に基づいて従うわけだ。
 だけど考えてみれば隣人を愛することは人間には不可能なことである。イエスの愛は罪人への愛だから「隣人」には罪人が含まれている。愛すべき者を愛するのは誰にでもできることだからイエスに命令されるまでもない。悪魔でさえ我が子を愛するというからね。
 だけど罪人を愛することは人間の本性に反している。リビドーは対象に向かうにせよ、自己に向かうにせよ、犯罪者や敵にリビドーが向かうことはない。
 だから犯罪者や敵を愛することはリビドーを超越する逸脱なんだな。それも強制的服従ではなく「自分を愛するように」だから、自己へ向かうリビドーを模倣する超リビドーとして愛することになる、と私は思う。
 犯罪者を愛することは自己を愛することではありえない。だから自己愛と同じ気持で犯罪者を愛することは現実離れしている。たとえそれがフロイト的マゾヒズムと類似点があるにせよ、性愛的要素はない。なぜならあくまで自己愛の模倣であって、自己愛そのものではないからだ。にもかかわらず自分を害する者への愛が成立しうるのはなぜか?
 北森嘉蔵のロジックを私なりに敷衍すると、それは現実の害悪を否認して、その害悪を自分に対する神の怒りとみなし、なおかつ害悪を神の愛として受け入れるからである。
 信仰の有無にかかわらず現実の害悪を消すことはできない。世の中には常に自分を圧倒する力が存在し、運次第で害悪を受けることは誰も避けられない。だけど信仰によって害悪や苦痛に対する価値評価をマイナスからプラスに変えることができる。それは確かに幸福の音信であるかもしれない。

 これに近いのがドゥルーズの解釈するマゾヒズムである。苦痛に快楽を見出すフロイト的マゾヒズムと異なり、マゾッホの描くマゾヒズムは苦痛と快楽を宙吊りする「否認」となっている。苦痛に快楽を見出すのではなく、現実を「否認」して自分自身が絵画や彫像になることにエクスタシーを見出すのが真のマゾヒストなんだな。鞭打たれる苦痛ではなく、鞭打たれている自分の姿に恍惚となるのだ。
(自分の墓に女性の足跡を刻印する谷崎作品の主人公こそドゥルーズ的意味による真のマゾヒストである。)
 ドゥルーズは無信仰と思われるが、イエスを父の否認による新たな人間として捉え、マゾッホによる真のマゾヒズムとの類似性を指摘している。そう言えばイエスの父は母に比べて影が薄い。
 現実の「否認」とは超リビドーとしての愛ではないか、と私は思う。真のマゾヒズムは現実の快苦を否認し、ファンタジーとしての快苦を求める点で芸術や宗教に近い。
 ただし害悪や苦痛を「否認」してもそれらが現実に消えるわけではない。むしろ苦痛が本物であればあるほど、ますます福音的意義が高まるということだ。だから害悪や苦痛をシニフィアンとして、福音がシニフィエになる。福音とは人類の悲惨な歴史それ自体をシニフィアンとする超言語(神のロゴス)であり、神学とは超言語の解釈学である。
 神なき現代においてドゥルーズは限りなく宗教に近い哲学になっているようだ。それはドゥルーズの解釈する真のマゾヒズムを媒介としている。
 私見ではサドよりマゾッホの方が現代的である。なぜなら人間は世界の支配者の地位から降りて、世界を自分の意のままにならないものとして捉えているからだ。この世界への被投性という運命から目をそむけずに、受動的に生きている現事実を能動的な生に換えるものとして、マゾッホの戦略は有効と思われる。
 それゆえドゥルーズのマゾッホ論を権力への抵抗として捉えるのは反動である、と私は思う。能動的に生きることが不可能な世界で、いかに能動的に生きるかが問題なのだ。ハイデガーの被投的企投を範例として現代哲学の根本問題であろう。
 

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