【新潟編】転勤と田舎での消耗
どうも、河村です!
先日この様なツイートをしたところ
悪い意味でのプチバズりを起こしました。
特に深い意味はなく書いているのですが、こんな浅いツイートがここまで拡散されるのか、、、と少し驚きました。
という事で急に思い出したのですが、
⇩この記事の続きを書いていこうと思います。
【急な転勤】
社会人5年目も終盤に差し掛かった2月14日バレンタインデー、会社で次年度(4月から)の人事発表があった。
1年目~5年目までずっと同じ部署にいたし、地方への異動がある場合は、事前に知らされることが多いと聞いており、その日も特に人事発表の事は気にもせずデスクワークをしていた。
夕方頃、会社の掲示板(PC上)に来期の組織編成と人事異動の通達が表示されたのですが、あっさりと自分の所属していた部署が解体されると書かれていました。
つまり自分の異動も確定となり軽い気持ちから一転、
そのまま、恐る恐るPDFデータをスクロールして行きました。
すると、、
○○○○部 ⇒ 新潟営業所 河村泰博
と、記載があった。
隣にいた上司からも『そういう事になった』とあっさりと言われた記憶がある。
後々わかった事だが、上司も各々がどこに異動になるのかは知らされていなかった様だった。
そんなこんなで1ヶ月半後の転勤があっさりと決まってしまったのだが、全国に拠点がある企業の総合職なら、転勤も致し方ない事であると意外と前向きに捉えていました。
が、
唯一の悩みの種は格闘技だった。
格闘家としてのタイミング的には、パンクラスで合島選手に勝った後で直ぐにランカークラスと試合を組んでもらえそうなタイミングでもあったし、それなりに存在感も出せていたので、ここでの長期離脱は格闘家としてはマイナス要素しかないのは明らかだった。
しかし、格闘家である前にサラリーマンとして生計を立てていたし、当時は会社に不満もなかったので異動ぐらいで転職しようという考えもなく、格闘技とは一旦離れる覚悟で転勤を受け入れ、新潟の長岡へ移住することになった。
新潟の長岡という地名はこの時初めて知ったし、西東京(23区外)出身の自分からしても『どこやねん!?』という印象しかなかった。
※長岡出身の方本当にすみません。今では大好きな都市です。
『長岡は花火大会が有名で、新潟でも2番目の都市だから、そこそこ盛えているよ!』
と何人かにアドバイスをもらったのですが
物件探しで初めて長岡を訪れた時に『いや、全然盛えてないじゃん!』と何か騙された感覚になったのを今でも覚えています。
そんなこんなで長岡での生活がスタート
仕事や生活が落ち着くまで格闘技はやらないつもりでしたが、1,2ヶ月程経ったタイミングで近所に格闘技ジムがある事を知り、訪問したのが【新潟イエローマンズ】でした。
代表である佐川さんがパンクラス(Abema TV)で僕の試合を見た事があった様で話がスムーズに進み、新潟イエローマンズで格闘技を再スタートさせる事になった。ありがとうAbema TV!
(この時に全国で見れるネットTVの強みを感じました)
※新潟での練習環境については、別で記事にします。
【うまくいかない仕事】
こうして新潟でも仕事と格闘技の両立を目指すのですが、
そこそこ大きい会社にいると部署が変わるだけで別の会社ぐらいやる事が違い、全く仕事がうまくいかなかった。
業種としては専門商社だったのですが、まず取扱う商材が違うのと、東京にいる時は、新規事業部だったので新規でアポイントを取り、提案する仕事が多かったのに対し、新潟ではルート営業と在庫管理をしなければならなかった。
それに加え、東京から新潟に出張で来る人のアテンド的な事をしなければならないのだが、気の利かない性格の自分にはこれが中々ストレスになった。
「仕事がうまくいかない」「格闘家としても本格始動ができていない状態」から焦りが生まれ、私生活も何もかもがうまくいかない負の連鎖に陥っていました。加えて、東京の様に家族や友達が近くにいなかったので直ぐに相談もできず、今考えると心にも余裕が無かったと思う。
暴飲暴食を繰り返し、通常体重も70キロから82キロまで増加してしまい、
試合とは程遠い状態にもなっていた。
↓MAX体重からの減量の過程
因みに、新潟の長岡は、そこら中にラーメン屋があり、仕事の付き合いなども含めて週4,5回はラーメンを食べる状態だったのでこれも体重増加の原因だったと思う。
特に東京から出張で来た人を青島食堂というラーメン屋に良く連れて行っていたのだが、青島食堂は本当に美味しいので是非一度行くことをおすすめしたい。青島食堂は秋葉原にもあるのだが、やはり長岡本店を一度食べて欲しい。
【必要な割り切り】
そんな長岡での生活も3,4か月が経ち、少し慣れてきたタイミングで、徐々に格闘技の練習頻度も増え、ZSTでグラップリングの試合に出始めます。(いきなりMMAでの復帰は難しいと思い、グラップリングでの試合を組んでもらっていました。)
これは今だから言えますが、当時の自分は仕事面では全く使い物になっていなかったと思う。仕事がうまく行かない、楽しくない、そんな時こそ格闘技をやっている時間だけが唯一の楽しみだったのかもしれない。
気が付くと最低限の仕事だけをして、格闘技に充てる時間が徐々に増えていき、MMAの試合にも復帰することができたのですが…
当時の上司や先輩からしたら「もっと仕事してくれ。」という話だったと思う。そんなことは薄々感じ取っていたし、本業ではない趣味に本気を出すなんて一般社会から見るとただのクズ人間だったと思う。
(しかも、当時は戦績も良くなったし本当に趣味に毛が生えたレベルだった。)
当たり前だがそんな仕事ぶりが人事的な決定権を持つ役員クラスにも伝わり、飲み会の席で役員から
『お前、格闘技と仕事、どちらかを今選べ!』と唐突に言われた。
酒も入っていたが、即答で
『格闘技をやりたい』と言った。
あまりにもあっさりと回答したから驚きもされず、その日は解散になったのだが、恐らくこの一件で完全に見放され、たった一年で東京の別部署に再度異動することになってしまう。
こうして僕の初めての転勤、田舎暮らしはあっさりと一年で終焉を迎えるのであった・・・
話は続くのだが、一度この記事を纏めようと思う。
【失敗の原因】
まず当時の失敗の原因は何だったのか?
冷静に分析すると、生活環境が変わっているのに仕事だけでなく格闘技に手を出していた事が挙げられると思う。
環境が変わった時は、一つの事に集中して丁寧に焦らず生活することをオススメしたい。
1つの事がうまくいくと、全てがうまく行き、
1つの事がうまくいかないと雪崩式に負の連鎖が襲ってくる事がある。
【何かうまくいかない。】そんな時は落ち着いて一つ一つ問題を解決していく事をオススメしたい。
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