見出し画像

「令和三都物語(京都編)」

 二月の土曜日の昼下がり、去年の春から東京に就職した娘、葵から電話がかかってきた。
 大学生の去年までは、いつも家にいて一緒に生活をしていたが、大学を卒業した昨年の春、私たち夫婦の元から巣立った娘は、仕事が忙しいらしく、盆や正月以外は東京から大阪に帰省することはなかった。

「お母さん、元気?」
「うん、ありがとう。」
娘の声は元気そうで、親としては安心をする。
「ごめんね、お母さんのお誕生日近いのに帰っておめでとうって言ってあげれんで。その代わりプレゼント送ったからね。」
「わるいなぁ。いろいろ物入りなんやろうに。でもありがとうね。どう、ちゃんと食事作っとる? 野菜しっかり取らんとあかんよ。」
「うん、分かっとるよ。新入社員でまだお給料少ないし、出来るだけ自分で食事作る様にしとるんよ。私、お母さんより家事、得意なんよ、知っとった?」
「なに言っとるん。でもそうかもしれんねぇ。」
娘の言う通りだ。私は家事が得意なタイプの主婦ではない。

「ねぇ、母さん。」
「うん、何?」
「私も家を出たんやし、母さんはもっと自由に生きればええんやないかと思ってるんよ。」
「えっ、それどういう意味? 私、結構自由に生きとるやん。」
「うん。そうかもしれんけど・・・。お父さんとのことね。」
「お父さんとのこと?」
「そう。お母さんは、お母さんらしい人生を生きればええんやないかって、高校生ぐらいからかな。私、そう思ってたんよ・・」

 その娘からの言葉を聞いて、私は直ぐには言葉が出てこなかった。
 夫との関係において、私の中に違和感や疎外感を感じていたことを、娘がずっと前から感じていたことを知って・・

 娘からの電話の後、夫と二人だけの味気ない夕食を済ませた翌日、ポストを開けると一通の手紙が入っていた。

 宛名は、私の旧姓 岸本 涼子
 宛先は、私の実家 兵庫県宝塚市
 そして差出人は、私が夫と結婚する前に付き合っていた彼の名前。懐かしい文字だった。その文字を見たのは、何十年ぶりだろう。そして、些細なことで彼と分かれた私は、当時、彼の手紙を恋焦がれるように待ち望み、そして届けられることはなかった。
 だけど今、その不思議な手紙は、二十数年振りに私の元に届けられたのだ。沢田 徹からの手紙が。

 徹とは、私が大阪の大学を卒業後に就職した職場の同僚、智子の従弟だった。
 智子の紹介で徹と知り合い、付き合うようになり、私は彼に惹かれ、彼となら結婚していいと思うようになっていた。
 付き合って一年程たった2月。3月の私の誕生日に二人で京都の嵐山で、和服を着て梅を見ながらデートをする約束をしていた。

 その約束は、些細な口論で消えてしまった。
 私は、彼からの謝罪の手紙、いや、謝罪でなくてよかった。嵐山のデートに約束通りに行こうという言葉が書かれているいるだけでよかった。だけど、私が待ち望んだ彼からの手紙は来なかった。当時の私は、自分から謝るだけの余裕を持った女性ではなかった。そして、私は徹を失った。
 だけど、今日届けられたその不思議な徹からの手紙には、

「涼子ごめん。
 君の誕生日に約束通りに嵐山に行こう。
 嵐山で着物デートをしよう。
 3月3日の10時に嵯峨嵐山駅の改札前で君を待っている。」
そう書いてあった。私が待ち望んでいた言葉が・・・

 彼との約束だった私の誕生日、私は大阪の私の自宅近くの駅から電車に乗り、京都駅からJR嵯峨野線で嵯峨嵐山駅に向かった。
 金曜日で通勤・通学の時間帯を過ぎた9時過ぎの電車の中は空いていた。外国人の観光客で賑わっていた嵐山も、まだコロナの影響もあり、観光客は戻りきっていないようだった。

 私は電車の中で、なぜあんな不思議な手紙が届いたのかということ、本当に徹が駅の改札口で待っているのかということ、もしいたとしたら何を話そうか、この関係は夫に対する不義の始まりになりはしないだろうかなどと、取り留めのないことを考えていた。

 今の夫、正と同じ職場で知り合ったのが、徹と分かれた翌年だった。一年付き合って私たちは結婚して、そして娘の葵を授かった。他人から見ればごく普通の夫婦・家族だったろう。だけど、私の心はこの結婚生活に満たされていないものを感じていた。徹を忘れきれない私の心は、夫の正に対して、何か愛情の欠ける妻であったかもしれないし、そのせいか、正の私に対する愛情の示し方も、何か他人行儀なものが感じられることがあった。

 その感覚は、結婚当初からというより、葵が生まれて私の関心が子育てに主に注がれるようになったからかもしれない。夜の営みも、妊娠・出産後は疎遠になり、今は寝室の異なるベットで寝ている私の身体を夫が触れることはない。

 今日の朝、朝食を夫と食べている時、今日、大学時代の友達と京都で逢うことを夫に話していた。いつもはあまり私の話に関心を示さない夫が、京都の言葉に反応を示した。

「いいな、京都か。ちょっと仕事が落ち着いたら、二人で京都に行こうか。」
そう私に提案をした。私は、
「そうね。」
とだけ答えた。

 夫に、大学時代の友達ではなく昔の恋人に逢うことの後ろめたさも感じていたし、最近では夫と二人きりで出掛けることが殆どなかったため、徹と逢うかもしれない京都に夫が行きたいと言ったことに対して、どう答えようか戸惑ったこともあった。

 約束の10時の15分前に嵯峨嵐山駅に着いた。
 私は化粧室に入り、手洗いの前の私を鏡で見て化粧を少しだけ直す。
 もし、もしも本当に徹がいたとして、今の私をどう思うだろう。25年程たった50前の私を・・・

 鏡を見ながら、私は不安になってくる。着物は来ているけど、私はどう見ても普通のおばさんだ。でも、昔、徹は私を「綺麗だよ。」と、デートで逢う度に言ってくれたっけ。
 
 今日も年を重ねた私に徹は、そう言ってくれるだろうか。そもそも、本当にそこに徹はいるのだろうか?
 不安な気持を持ちながら、私は改札への向かった。

 私は改札を出て徹を探した。
 そして、そこに徹は居た。紺色の着物に藍色の羽織を着て。少し年をとった感じはあったが、長身でスマートな感じは変わっておらず、むしろ、若々しい感じすら感じ、私は少し気後れしてしまった。

「涼子、来てくれたんやね。やっぱり、君はいつ見ても、何年ぶりに見ても綺麗やなぁ。」
「嫌やなぁ、徹も。もう、ええおばさんやろ。でも、あの手紙、どうしたん? 私の昔の住所と名前で、今の家のポストに入っとったんやけど。」
「うん、あれなぁ。まあ、その話は追い追い話そうか。折角の涼子との四半世紀振りのデートやさかいな。」

 私を誘うようにゆっくりと歩き出した徹の顔を、彼の横を歩きながらそっと顔を見上げるようにして覗き見る。夫の正より身長の高い徹は、何か、活気に溢れ、男として円熟の魅力を感じさせていて、私は久しぶりに見る彼の顔と、本当にこうして逢えて一緒に時を過ごしているその奇跡に、心をどきどきさせていた。

「竹林を散策して、それから渡月橋の見える河川敷のベンチで、お弁当でも買って食事でもしようか。それでええかなぁ。」
「うん。あの時もそういう約束やったもんね・・」

 駅前を通って、二人は竹林のある方に向かってゆっくりと歩いていく。平日の嵐山は、往来の人も少なめだ。
 竹林の道も、人影はまばらだ。徹とここに来たいと私がお願いしたことが、やっと年を経て叶えられた。

「スマホやけど、記念に写真撮ろうか。」
「うん。撮りたい。」
 徹は、近くを歩いていた年配のカップルに頼んで、スマホで私たちの写真を撮って貰った。
「後で、ラインのアドレス交換しような。写真送るわ。」
「うん、ありがとう。」

 付き合っていた当時は、逢うと途切れなく二人は話をしていた。どちらかというと、私の方が彼に話しかけていた。あまり話す方で無い私だったが、どういう訳か、徹に対しては、止め処なく話したいことが浮かんでいたし、徹はその私の言葉を受け止め、そして発展させ、楽しい会話が二人の間に交わされていた。

 だけど今日は、私も緊張の為か、余り上手く話すことができなかった。話したいことはあった。聞きたいことも沢山あった。でもそれは、歩きながら交わせる内容でも無かった。早く、桂川沿いの河川敷で座りたかった。落ち着いて、彼に聞いてみたかった。
 なぜ今日私を誘ったのか、そして、どうやってあの手紙は届けられたのか・・・

 渡月橋近くの店でお稲荷さんとお茶を買って、渡月橋が良く見える川岸のベンチに腰をかけ、二人の間にお稲荷さんを置いて、昼食を取ることにした。お稲荷さんは小ぶりのシンプルな五目稲荷。薄味の京都らしい味だった。
 春めいてきて穏やかな3月の日差しの中、久しぶりに徹と食べる昼食はなんだか不思議な感じがする。

「あの手紙な。」
 徹が話始める。

「うん。」
「スマホでブログを見てたら、香川の瀬戸内の島に、出せんかった手紙を預かる郵便局とポストがあるっちゅうのを見てな。勿論、本当の郵便局やないねん。昔あった郵便局に、ボランティアで昔の郵便局員がおるとこやねん。」

「うん。」
「そこのポストに、昔出せんかった手紙を入れると、届けてくれることがあるっちゅう内容やってん。俺、それを見た時な、涼子に出せんでずっと持っとった手紙のことを思い出したんよ。」

「私のとこに届いた手紙やね。」
「そう。今日、涼子が来てくれたっちゅうことは、やっぱりあの手紙届いたんやなぁ。昔の涼子の住所に昔の涼子の名前。おまけに切手は当時の封書の料金や。俺が、その香川の島の郵便局のポストに入れた手紙や。」 

「そうやったね。でも、なんで、届いたんかなぁ。」
「うん、分からへん。でも、思いが通じたんやないかと思う。涼子と喧嘩して、あん時は、涼子から謝ってくるまで俺からは謝らへんぞと思っとった。」

「うん。私も同じこと思っとった。二人とも頑固なとこあったからねぇ。」
「そやな。でも、俺から、涼子の誕生日の約束やし、俺から謝らなぁあかんと思って、手紙を書いたんよ。」

「うん、ありがとう。でも、その時は出さんかったんやね。」
「そうやね。今考えると、なんでかなぁ。ちょっとした勇気なんやけどなぁ。何を意固地になっとったんかなぁ。」

「私もそう思うわ。」
「その内、出すタイミング無くなって、約束の涼子の誕生日が来てしもた。」

「うん。」
「もしかしたら、涼子から連絡が来るかもしれんと思っとったけど、全然来よらへんかった。」
「そやね。私も待っとったんよ。」
「そうか。お互い、待っとったんか。」
「そうこうしとる内に、一年が過ぎた。今考えてみると、なんでそんなに何もせんで、待っとったんかな。」
「うん。」

聞いているだけで、思い出すだけで泣き出したくなる。
「その内、智子から涼子が結婚することを聞いた。それを聞いた時、涼子が俺にとってどれだけ大事な存在やったか、やっと分かったわ。」

私は、言葉を返すことが出来ない。
「当分、恋愛なんてする気が起こらんかった。でも、涼子と別れて、3年ほど経った頃かな、両親の勧めで見合いすることになった。それが今の嫁や。一人息子がおって、高校を出て消防士になって働いとる。」

「そうなんやね。」

 彼が結婚した話や、男の子が一人生まれた話は、会社を辞めてからも付き合いがあった智子から聞いていた。

 私はもうその時には結婚もして葵も生まれていた時だったけど、何か、人生で失ってはならないものが、私の手からスルリと落ちていったような気がしたのを覚えている。

「嫁は俺によう尽くして呉れとる。ええ嫁や。だけど、なんか、あの出せんかった手紙を捨てることが出来んかったし、涼子のことも忘れることが出来んかった。それで、香川の出せんかった手紙を受け取る郵便局の話を見た時、もしかしたら、あの手紙が出せるんやないかと思った。やっと、涼子に謝って、嵐山に一緒に行けるんやないかと思った。」

「うん。」

私は泣いていた。嬉しかったのか、悲しかったのか、複雑な気持がこみ上げ、私は泣いていた。

「俺は今日電車に乗って嵐山に向かいながら考えとった。もしも、もしも涼子が今日来とったら、何を話そうか。何を伝えようか。もう、後悔はしとうないからね。」

「うん。」

私は徹の言葉を待った。

「人生、後戻りは出来ん。あの手紙を出せなかった時に戻ることは出来ん。だけど、やり直すことは出来る。俺はずっと後悔しとった。そしてやっとその手紙を出せた、そして涼子にこうして再び逢えた。涼子、俺ともう一度やり直して欲しい。俺は離婚して君と一緒になりたい。人生の最後に過ごす相手は君しかいないと思っとる。」

 私は震えながらその言葉を聞いていた。長い間、言葉を返すことができなかった。徹と別れて以来、夫には悪いと思いながらも、何度となく、徹と結婚してたらどんな人生をおくっとるやろうと考えたことがあった。でも、夫との生活や葵を否定するかのようなその考えを私は打ち消してきた。そして、その気持を心の奥底に沈めてきた。

 何か答えなきゃ。でも、なんて答えよう?
 私は混乱していた。

 涙を流している私に、徹はハンカチを差し出してくれる。
 そのハンカチで涙を拭きながら、徹が私に言ってくれた言葉、葵が私に言ってくれた言葉、今日の朝、夫が私に言ってくれた言葉、それらが私の頭の中に浮かんで来た。

「ごめんな。結婚しとる涼子が、答えられんようなことを言ってしもた。答えは直ぐでなくてもええし、答えてくれんでもええ。俺の我儘な告白だということはよく解っとる。」

 私は徹の眼を見た。真っ直ぐに私を見つめるその眼を。

 そして、私は彼への答えを、私のこれからの人生の歩むべき道を決心した。

「私ね、徹・・・・」

 49歳の誕生日を徹と嵐山で迎えたその日。私にとって生涯忘れられない一日となった。

(京都編終わり)

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?