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通過儀礼の相棒を愛せない


小さい頃の私は小児喘息やてんかんによる病院続きで赤=血の色だった。

なので赤もピンクも大嫌い。

ランドセルを買う頃、赤は嫌だダメなら黒にして!と両親に懇願した。

与えられたのは「みんなと同じじゃないといじめられるから」と本革の赤いランドセルだった。良いメーカーの中でもより一層良い品質のランドセル。


少しでも傷や汚れが付いてると「これいくらしたと思ってんの!革の買ってもらったくせに!」と怒られた。

私からすればそもそも好きな色じゃないし親が勝手に決めたからとランドセルの扱いは変わることは無かった。

6年間の相棒を私は最後まで愛せなかった。親に与えられた本革の10万円以上する赤いランドセルよりも、イオンのチラシで見たやっすいミントグリーンのランドセルに憧れた時のことをずっと覚えている。


七五三の着物を決める時期になった。

ランドセルも赤だったのに、着物も赤なんて絶対に嫌だ。私が選んだのは今度こそ身につけたかった黒。金の刺繍がかっこよくて、帯は赤を選んでもらったからこれなら大丈夫。

七五三の写真は、赤い着物で撮影した。

「何がなんでもこれじゃないと嫌だ。」「黒以外は絶対嫌だ。ダメなら七五三は着ない。」

困り果てる祖父母、あからさまに苛立つ両親、焦る呉服屋。そこに別用で来ていた、お客のマダムが通りがかり、「歳を取ればいくらでも黒は着れるのよ。女の子なんだから。赤いのにしなさい。」

形勢逆転。そうだそうだとあっという間に真っ赤な着物が契約されてしまった。

真っ赤な着物、真っ赤な口紅、真っ赤な髪飾り…

悔しくて悔しくて、七五三の日は両親の実家のお披露目後に脱ぎ捨て髪に着いていたピンも力任せにむしり取った。

親族やご近所への挨拶はボサボサの頭といつもの私服。車からも降りなかったために両親による謝罪行脚となった。


それから数年、年下の従姉妹が真っ青なランドセルを背負っている写真を見せられた。

「青、いいなあ。」

思わず出た一言だった。


それからさらに数年後、また着物を選ばなくてはならなくなった。

成人式。

地元の成人式に出る気はさらさらなく、大学のある町の成人式に出るつもりだった。

その頃には赤への嫌悪も薄れ、母方の叔母から年上の従姉妹へ受け継がれた赤い振袖を着ようと思っていた。

が、父の実家のメンツもありあえなく断念。

ならばとその場限りでしか着ないのだからとレンタルのつもりだった。

また待ったをかけられてしまった。

あれよあれよという間にまた呉服屋。今度は乗り気でもないのに私が探さねばならなかった。色々手厚いサービスのついた全国展開の呉服屋。

本当は紺が良かった。が、値段で決めた。10万も違うのだから。

ここまで来るともう諦めていた。

何もかもが億劫だった。店員さんがあてがい、母が首を縦に降り、父が財布を出す。

写真も一枚写真屋で撮ればそれで良かった。

前撮りが20万もするとは思わなかった。

請求書を見て青くなる私。

それを「お前が選んだのだから」とため息をついて払う両親。

緑鮮やかな振袖はたくさんのいいねを貰えた。大学の卒業式もこの哀れな相棒に花を持たせたくて、袴に合わせた。袴を選んだ衣装屋で放たれた「なんだこっちの方が洒落た振袖あるじゃない」母のその一言にその場で怒鳴り散らしてしまった。

せめてものアンチテーゼをと、母によって選ばれたものとは真逆の色の袴を履いた。赤紫グラデーションが鮮やかな袴。そして黒と青ラメのネイル、アイシャドウは普段より赤く、アイラインも更に黒く。

それでも、私が夢見た私にはなれなかった。ただ人の言いなりで、我を通せない、そしてほんの少しのイキりが入った痛い女がそこにいた。

私はまた、通過儀礼の相棒を愛せなかった。

そんな私も20を過ぎて、新しい段階へ心身ともに踏み出していく。そんな私がこれからの通過儀礼の相棒を愛せるように、そして誰かがこれから出会う通過儀礼の相棒を愛せるように。少しの希望と少しの恨みを込めて、今スマホをタップし続けている。


読んでくれてありがとうございました。ご縁があったらその時はその時で。

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