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直感と場所、記憶の上書き

写真を見た瞬間、「あ、ここ知ってる」と思うことがたまにある。

街角のカフェ、誰かがインスタにアップしたオシャレな壁、最近だと『花束みたいな恋をした』の窓の外の景色。

記憶しようと思っていたわけでもない、何気なく通り過ぎていただけの景色を、ある種の確信を持って「知っている」と感じるのはなぜなのだろう。

GeoGuessrというゲームを、友人に教えてもらって一緒に遊んだことがある。
このゲームは、地名を隠して表示されるストリートビューの場所を推測し、自分がここだと思ってピンを立てた場所と、そのストリートビューが撮影された実際の場所の距離の近さを競うものであった。

これはまさにその「あ、知ってる」という感覚を楽しむ遊びなのであろうが、しかし、その感覚が毎回訪れることはなくて、大抵は文字の書いてある看板やマンホールを探し、そこから地域を推測することになる。改めて、文字はすごい「情報」なんだなあと思った。

文字は分かりやすい例だが、それ以外でも直感的に「知ってる」と思う大半の要因は、特長的な建物の構造だったり、走っているバスの色だったりということが多い。自分にしか分からない説明できない純粋な「雰囲気」で分かることは、実はそんなにないんじゃないか、と私は思っている。

以前、誰かに「ここ、どこだと思う?」と見せられた海と畑の写真を「読谷かな」と正解して驚かれたことがある。その時は、私も自分で何か能力があるのかと勘違いしたが、考えてみれば何のことはない、読谷は海に向かって緩やかな傾斜が続いているということから、陸と海の対比が特長的な感じで見えるというだけであった。

「雰囲気」はほとんどの場合、説明可能だ。

それなのにもかかわらず、私は固有の場所をあいまいな記憶で、文字として説明可能になる以前の「雰囲気」として覚えている。
そのあいまいな「雰囲気」に合致する風景を誰かのインスタの写真に見出した時、私はあいまいだった記憶を具体へと解凍しその写真と符合させる作業に先んじて、その一瞬の真空に「あ、」と何かを思い出すのだろう。


ちょっと怖いのはその先だ。

「実際に見た」という記憶は、「写真で見た」記憶で上書きされる事があるよね、と誰かに言われたことがある。

確かにそれはある。

特に、ドキュメンタリー映画を編集している最中、顕著に出現する。

編集中に何回もそのシーンを見ているから、段々とカメラに写っている映像こそが自分の見ていた映像だと思ってしまうのである。
当たり前のことだが、カメラに写っていた世界だけがその世界だけではなくて、カメラが切り取ったフレームの外にも世界は広がっている。

撮影中、私はカメラを覗きつつも色々なところが気になってキョロキョロしているので、カメラのフレーム外もそれなりに長時間見ていると思う(それが良いか悪いかは諸説ありますが、私はキョロキョロ派です)。しかし、編集段階において、撮影された映像を繰り返し観ていると、その時肉眼で何かを見ていたはずの私の記憶に、私の目とは違うところをじっと撮っていたカメラの映像が、段々と上書きされていく。

当然だが、カメラで撮影できた映像しか映画には使えない。だから、現場でキョロキョロして取得した記憶は編集段階において大変危険なものともなる。カメラで撮った情報以上のものを知っている、というのは、論点先取やパーツの足りないロジックを組んでしまうなど、映画の破綻を招く大きな要因である。
しかし、その逆に、その場をキョロキョロと見ているからこその利点もあるはずなのだ。

目下の問題はこれが混同してしまうことだが、この記憶の混同は、今のところ私にはどうしようもない。良いのか悪いのかもはっきりしないので、今後もいちいち立ち止まって考えながらやっていくしかない。


ともあれ、何かに触れたとき、ふと被写界深度の浅いセピア色の記憶が出てきたら、それは実際に見たものではなく人工的な記憶なのでは、と疑ってみる必要があるなあ、と思っている。