字幕を入れる①
協議の末、次回作には全編に亘って字幕を入れることになった。いま文字入れ作業の最中だ。
字幕入れをするため、話し言葉を書き言葉にする際には、どうしても暴力的ともいえる捻じ曲げをせねばならない。本当にこの人は「と言って」と言っているのか。「ち言って」ではないのか。「と言って」なのか「と言って」なのか。声を聴くだけなら、何と言っているか決める必要は全くないが、字幕化するならどれかに決めねばならぬ。
編集で使うだけの文字起こしと違い、字幕は映画の一部として外に出る。そしてひとつの正解になってしまう。
字幕を入れること自体、賛否両論がある。
字幕があることで、聴力や環境の影響があっても楽しむことができるようになり、文字情報を得られることで理解もしやすくなる。一方で、映像としてごちゃつくという指摘はあるし、録音や整音の仕事をないがしろにしているのではないか、そして観客の誤解や解釈を規制しているのではないか、などの懸念が浮上する。
私は字幕絶対反対という訳では全然ない。
今回はDVDになって、様々な環境で再生されることが今から分かっている以上、字幕はあったほうが絶対に良いと思ったのもあり、入れることとした。
字幕制作の負担は少なくはない。しかし、今日のYouTuberの人々の動画に字幕は当たり前のように存在し、テレビ番組でも当然の如く入っている。しかも、聞き取れないところだけではなく、ばっちり録音できているところにもちゃんと入っている。言いよどんだり言い回しがもったりした部分は、それが親切なのか誘導なのかはおくとして、機械的な逐語でなく分かりやすく要約してある事も多々ある。
金にならないものは消えていく中で、手間のかかるであろう凝った字幕が作られ続けているのは、もちろん音声を使えない人や環境であっても楽しんでほしいというところは大きいのだろうけど、それ以外の意味でもきっと重要なのだと思う。
なぜ字幕を入れるのか、に立ち戻ると、そこで何が話されているのか分からないから、という理由が恐らく一番であろう。耳の聞こえない人に向けて、というのはもちろんだが、耳が聞こえる人であっても、映像の声が聞き取れないことはままある。
ところで、私の敬愛する『阿賀に生きる』でも字幕はしっかり使われていて、佐藤真監督によるその解説はとても興味深い。
佐藤監督は、これは自分のオリジナルではなく小川紳介監督の『ニッポン国古屋敷村』で確立された方法論から学んだものだ、とした上で、その方法を次のように述べている。
発話されたものを翻訳するのではなく、言葉の意味を漢字に託しつつ、聞こえてくる音を仮名でそのまま表現するのだ。予告編でも少しそれを見ることができる。
私も大いに影響を受け、『辺野古抄』ではなるべくこの方法を採用した。
音を文字起こししても難しい部分に関しては、乱暴だとは思いつつも、聞こえた表音文字の後に( )を置き共通語を入れた。
正直に言うと、当初は『辺野古抄』の島言葉に字幕を付けないほうがいいと思っていた。島言葉が分からない、と共通語話者が戸惑いなく放言するのはいかがなものか、との思いと、劇場で何を言っているのか分かりたいけれど分からずに座っている観客と全く同じく、私自身も撮影しながら何が話されているか分かりたいけれど分からない時間を過ごしていたからである。だから「分からないということ」それそのものに意味がある、と思っていた。
『辺野古抄』の撮影で沖縄に滞在している間、桜坂劇場で『ザ・トライブ』を観た。
予告編を観るとすぐ分かるが、字幕が一切ないウクライナ映画である。しかし、字幕なしでも、映画内で起きていることをある程度理解できる仕組みになっている。
のめりこんで観てしまった。手に汗を握りながら共感したり首を傾げたりして、未だによく覚えている強烈な映画体験だった。
予告編の宣伝文句も「「愛」と「憎しみ」ゆえに、あなたは言葉を必要としない」と謳っていて、観終えて劇場を後にするときには、確かにそんな気分になっている。
だが、本当にこの映画は「言葉を必要としない」のだろうか。
音としての声のみに注目すれば、この映画は確かに静かで、言葉はほとんど出てこない。
しかし、ウクライナ手話を理解できる人にとっては、これはどの映画よりも騒がしい映画ではなかろうか。
私はウクライナ手話が分からないから、「言葉を必要としない」と言われてもああそうかと思ってしまうが、ウクライナ手話話者や映画の登場人物にとっては言葉が溢れかえっているわけで、「言葉を必要としない」と言い切る宣伝文句は、果たしてどうなのだろう。
字幕があれば受け取れるはずの豊饒な会話を、私はウクライナ手話の知識がないのと、この映画に字幕がないために全く受け取ることができなかった。それこそが狙いなのかも知れないが、その上で、やはりその先にある世界も実は知りたかったなあとも思ったのだった。
(ちなみに、この映画は環境音も素晴らしい。そちらに注意が向く音響設計だからなのかも知れないが、息遣いや衣擦れ、ざわめき、足音など、人の暮らしからはこんなに音がしてたんだ、と驚く)
さんざん悩んで、私は『辺野古抄』に字幕を付けた。全編に亘ってではなく、少しずつではあるが。
全編のほとんどがアラビア語アレッポ方言の『故郷とせっけん』については、『ザ・トライブ』のように、字幕無しでただアラビア語を浴びる映画にする事も考えた。だが、この映画においては、アラビア語を浴びて途方に暮れることよりも、そこで話されている会話内容を理解する方が重要ではないかと思い直して、字幕を入れることにした。
外国語を翻訳する字幕には、日本語字幕とは違う課題が現れる。それは、翻訳そのものにつきまとう問題でもあると思うが、言葉を1:1で翻訳できるケースの方が少ないゆえに、字幕を作るにはかなり意図的な演出が必要、というものだ。
語順が違ったり話し方が違ったりする外国語の話し言葉を、その意味を保持したまま日本語字幕へそのまま持ちこむのはまず不可能であり、特に字幕は一度に書ける文字数も限られている。
外国語を翻訳して字幕を作る場合、演出を加えねば字幕は成立し得ない。
例として『故郷とせっけん』の一部分をあげてみる。せっけん職人さんの小さい頃の話を伺っているインタビューだ。
上がインタビューの日本語翻訳、下がその部分の本編に入れた字幕である。底本となる日本語翻訳が既に翻訳である、という事実は興味深い。
外国語字幕は、いくらでも作為的に意訳することができてしまう。
だからこそ、話し手の意をきちんと汲んで、作り手が勝手に作った都合のいい突飛な意訳を諫めて下さったり、適切な言い換えを一緒に考えて下さる翻訳の専門家と作ることが、どれだけ大事かは言うまでもない。
ただし、その演出で作った字幕の言葉に対応する語が、果たして本当にそういう意味で発話されたものだったのか、ストーリーに貢献させるためだけに活用してしまっているのではないか、本人に見てもらって改めて意図を聞いたり、翻訳の専門家の先生に相談したりした上であっても、いつまでもそうした葛藤から逃れられないのも事実で、でも、それは当然のことでもある。
ドキュメンタリー映画は、内容全てを分かる必要はないと私は思っている。
ただし、会話の内容を知りたい、という気持ちに対しては、やはり真摯に向き合わねばならないと思う。
文字にすれば全部が分かるわけでもない。意図を”分かってもらう”ために押し付ける字幕は作りたくない。それでも、それを踏まえて、どういう字幕を入れていくか。
むにゃむにゃ言いつつ、字幕を入れている。
②では字幕による演出について書こうと思います。