キリストではなく自分の言葉で
初めに断っておきますが、これは宗教の否定ではありません。
先日の昼下がり、私は昼夜逆転で眠りについていた時でした。
チャイムが私の睡眠を妨げました。
何だろう、と思いドアの施錠を解除しました。
ドアの向こう側には二人組みの女性が。
「またか」と私は頭をたれる。
もちろん宗教の勧誘なわけですけれど、彼女の第一声に思わず「何だコイツ」と思ったのです。
「今日は聖書のお言葉を一つお伝えに参りました」
「いいえ、結構です」
と、私は即座に断ったのですが、第一声がそれかよ、と内心呆れていました。
確かに、何かに救いを求めて、何かにすがりたくもなる時もあります。
しかし、結局自分を助けるのは自分自身でしかない、と私は思うのです。
ましてや、勧誘ならまずは自分の言葉でどういった宗教なのか、どのように救われるのか諭して欲しいものです。
日本は八百万の神がいるといわれるほどの国です。
日本人は無宗教といわれることも多々ありますが、そんなことはありません。
無意識のうちに何かしらの宗教で説かれた文句を口にしています。
その意識がないために宗教観を得られていないだけです。
田舎の家には仏壇があるし、前に座れば自然と手を合わせる。
ごはんを食べる前には「いただきます」、食べ終われば「ごちそうさま」といいます。
「いただきます」「ごちそうさま」もれっきとした宗教のような気がします。
食物を作ってくれた人々、それを生成してくれた自然、そして自分の肉体になってくれる生命に対して祈っているわけです。
誰に悟られることなく自然にそれらを行う日本人はもはや無宗教とはいえないのです。
翻って、勧誘に来た二人組は自分の言葉で伝えることはありませんでした。
誰かの言うことをオウム返しに話す人と自分の言葉で伝える人、どちらに心を掴まれるか。
私は後者です。
やはり、第一声は自分自身の言葉で宗教について語っていただきたかった。
自分自身がどのような恩恵を授かったのか、どのように救われたのか、私のどうしようもない悩みを如何に和らげてくれるのか。
話の中にそれらが含まれていたのかも知れません。
しかし、単に聖書のお言葉やらを永遠に話されてはたまりません。
話は変わりますが、時に自分の事は棚に上げて他人の事ばかりに顔を突っ込んでくる人いますよね。
自分の話ばかりして、他人の話を聞かない人もいますが、どちらも客観性に欠けるところがあります。
他人のことを知りたかったら自分を語る必要があるし、逆もまた然り。
本件における女性たちは客観性に重きを置いて主観性を疎かにしています。
救いの重度に足を突っ込むほど私は無関心ではありませんが、客観性を与えてくれる救いに対して主観の確立は何よりも大切です。
でないと、洗脳が待ってますからね。
私は昼下がり、その女性たちとの対峙を終え、「自分の言葉で話す」について少し考え、何においても他人の受け売りでは薄い人生にしかならないと感じたのです。
自分の言葉で語ることは、他人の言葉を飲み込んで理解したことによる産物だと思います。
しかし、その女性たちに感謝したことも同時にありました。
強制的に起床出来たこととで、やるべき事ができたという事実です。
冷蔵庫を占拠していた4kgの鶏肉の下処理とトレーニングをする時間を私に与えてくれました。
この感謝は如何に。
2018/06/13 まだ暮れぬ午後五時半頃
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