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読書日記『このゲームにはゴールがない ひとの心の哲学』(古田徹也,2022)

私には、自分の心も、ましてや他人の心はもっとわからない。けれども、自分を含めてたくさんの人たちのことを知りたい、わかりたいと思う。あわよくば「私のことをわかってほしい」「わかりあいたい」とさえ思っている。

わかりあうためには、(言語であれ、非言語であれ)コミュニケーションが必要だと思っている。コミュニケーションは、どれだけ気をつけていても暴力的で、全てを伝えるには不十分だ。そう考えているのに、「わかりあうこと」を諦められないのは、なぜなんだろう。

常日頃から、こんなことをうだうだと考えている。この答えを見つけられるかもしれない、と希望を抱いて、この本を買った。




一文一文を追うように読み進めていたので、読了までにかなり時間がかかった。ページを開いてから約2ヶ月くらいかな。

この本を読んで学んだことをメモしておく。

・「他者の心中がわからない」という懐疑論は理論というより悲劇である。

・懐疑論は私たちが自明視しているものの不確かさ、さらには自分自身の理解不能性をも露呈させる。

・「振りをするかもしれない」という揺らぎも含めての言語ゲームであり、その揺らぎのなかにこそ心のようなものがある。

・揺らぎには有用性があるかもしれないし、無いかもしれないが、少なくとも私たちはそのゲームをすること自体を求める。我々は寂しいのであり、寂しさに耐えられないから。

・懐疑論者は他者の心中を確実に知ることをゲームのゴールとするが、そもそも「このゲームにはゴールがない」。あえてゴールないし目的を挙げるならば、ゲームを終わらせないこと。

・他者が半透明だからこそ孤独を感じるが、同時に孤独から救われる。これが悲劇の端緒であり、時間によって癒されうる。


この本から、冒頭の私の疑問に答えをあげるならば、人間として社会を生きているから、そして寂しさに耐えられないから、となるだろう。

感想として、寂しさというのは厄介だなぁと思った。上手く付き合う方法を見つけたい。


読了日:2022/12/13

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