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修学旅行、伏見神寶神社でお守りを買い、伏見稲荷大社を去る(皐月物語 140)

 伏見稲荷大社の奥宮の参拝を終えた藤城皐月ふじしろさつきたち6人はお山巡りの参道の入口にいた。ここからは朱塗りの鳥居のトンネルが延々と続く。外国人たちが写真を撮ってはしゃいでいるせいか、人の流れが滞り始めていた。
「この鳥居がなかったら、伏見稲荷はここまでの人気にならなかったんじゃない?」
 栗林真理くりばやしまりは延々と連なる大きな鳥居に目を見張りつつも、人の多さに辟易していた。旅行前の真理はそれほど千本鳥居に興味を示していなかったので、期待をして来なかった真理にとって、この混雑は苦痛なだけだ。
「でも、この風景って神秘的で素敵だよね。人がいない時にここを歩いてみたいな~」
「二橋さん。早朝だったらほとんど人がいないみたいだよ。動画で見たことがある」
 ここを楽しみにしていた二橋絵梨花にはしえりかでも人の多さには戸惑っているようだ。神谷秀真かみやしゅうまの言うように、千本鳥居を堪能したかったら早朝に来るのが一番いい。
 鳥居の中を歩いていると、背後にいた外国人が写真撮影を始めた。皐月たちとの距離が開いたので、いい機会だから写真を撮ろうと、班の最後尾にいた岩原比呂志いわはらひろしが言い出した。比呂志は5人を振り向かせ、鳥居のトンネルを独占したように見える写真を撮ることができた。
「岩原君の写真も撮ってあげる。栗林さんと二橋さん、こっちに来て」
 比呂志の左右に真理と絵梨花を呼び、吉口千由紀よしぐちちゆきが三人の写真を撮った。
「岩原氏、両手に花だな」
「羨ましい。僕も女の子に囲まれた写真を撮ってもらいたい」
 背後にいた外国人が歩き始めたので、千由紀に急かされて皐月たち一同も再び歩き始めた。絵梨花や真理と一緒に撮影できなかった秀真は不満そうな顔をしていた。
 少し進むと道の両脇に狛狐こまぎつねがいて、その奥に石造りの鳥居があった。そこから先は狭い道が二手に分かれていた。ここだけが本来の千本鳥居で、他の鳥居の並びは正確には千本鳥居ではない。千本鳥居では大きな鳥居から小さな鳥居になる。
 千本鳥居の入口にある石造りの鳥居には「右側通行」と書かれた横断幕が張られていた。参拝者たちはその指示に従って、全員右側の参道を歩いていた。英語、中国語、韓国語でも注意喚起をしているためか、この時は誰も逆走をして来なかった。左側を下りてくる参拝者はほとんどいないので、鳥居を背景にした映える写真を撮るのにはいい場所だ。
 千本鳥居は道幅が狭く天井が低い。鳥居の中を歩いていると異世界に通じる穴に潜るような感覚になる。この辺りは日当たりが良く、立ち並ぶ鳥居の笠木の隙間から木漏れ日のように太陽の光が降り注いでいた。光と影のストライプの中を移動するのはちょっとした神秘体験だ。
「ねえ、皐月。鳥居って何?」
「鳥居か……。鳥居は俗なる世界から聖なる世界へ入るための門、みたいなものかな。わかる? 真理」
「うん、それはわかる。でも、伏見稲荷のこの鳥居の意味がわからない。こんなにたくさん鳥居があって、何の意味があるの?」
 皐月は千本鳥居の意味にあまり関心がなかったので、あらかじめ調べては来なかった。この場で自分の知っている鳥居の解釈をもとに考えてみた。
「こんなにたくさん鳥居を建てることに意味なんかあるのかな……」
 皐月には八坂、下鴨、伏見稲荷と続けて神社を参拝した中で、無意識に感じていた不快感があった。千本鳥居の中で真理に鳥居のことを聞かれ、そのことに初めて気が付いた。だが、まだそれを言語化することができない。
「伏見稲荷の公式サイトによるとね、鳥居には願い事が『通る』とか『通った』とかのお礼の意味があるんだって。信者さんはその考えを信じて、鳥居を奉納してきたんだ。だから、ここに鳥居がたくさんあるのは、それだけ感謝がたくさんあるっていうこと。この信仰は江戸時代以降に広がったらしいよ」
 皐月が返答に窮していると、秀真が助け船を出してくれた。だが、皐月は秀真の説明には納得できなかった。
「『とおる』と『とりい』なんて掛け言葉にしては苦しいね。でも、ここの鳥居が私的なものだってことはわかった」
 すっきりした顔になって、真理は絵梨花と千由紀のもとへ行った。
「神谷氏、伏見稲荷の千本鳥居って豊川稲荷の千本幟せんぼんのぼりに似てるね。うちのお婆ちゃんが毎年、願いが叶ったって言って、幟を奉納してるよ」
「へえ、毎年願いが叶ってるんだ。すごいね」
「願いといっても、家内安全なんだけどね」
 皐月は比呂志の話を聞いて、民間信仰の本質がなんとなくわかったような気がした。それは素朴な祈りだ。豊川稲荷の場合は安価に幟を奉納できるが、伏見稲荷の場合は鳥居を奉納するためには高額な初穂料はつほりょうが必要だ。金額の多寡の違いのせいで分かりにくいが、伏見稲荷に鳥居を奉納する人も、豊川稲荷に幟を奉納する人と本質的には何も変わらないのかもしれないと思った。

 千本鳥居を抜けると、命婦谷みょうぶだにと呼ばれている少し開けた所に出た。命婦とはここでは稲荷大神の眷属の狐のことを指すので、命婦谷は神使の白狐が集う谷だ。皐月は歌川広重の名所江戸百景「王子装束ゑの木大晦日の狐火」の浮世絵を思い浮かべた。
 皐月たちの目の前に奥社奉拝所おくしゃほうはいしょが現れた。この社は奥の院や命婦社とも呼ばれていて、その背後にある稲荷山三ヶ峰を信仰の対象としている。だからこの社殿は稲荷山を遥拝する拝殿だ。
 拝殿の両脇には狐の顔の絵馬が掛かっていた。絵馬の表側には最初から狐目の斜めの線が描かれているが、そこに思い思いのデザインをして自分だけの狐の顔ができるようになっている。
「僕はここでちゃんとお参りするね。個人的なことだから、無理に付き合わなくてもいいよ」
 秀真はみんなに余計な気遣いをさせないようとしたが、絵梨花は余計に気になったようだ。
「神谷さん、ここはどういったお社なの?」
 稲荷神社はもともと稲荷山の山頂に祠があった。1438年に後花園天皇のみことのりにより、足利義教が山頂の社を麓に遷座した。それが現在の伏見稲荷大社だ。
 本社の本殿には5柱の神々が祀られているが、それらは全て稲荷山に降臨した神々だ。明治時代に稲荷山での神々の降臨地が確定し、稲荷七神蹟として親塚が建立された。
 命婦社(奥の院)は奥社奉拝所と言われているように、稲荷七神蹟を山に登らず一度に遥拝できる拝殿だ。
「修学旅行では山に登らないから、ここでちゃんとお参りしておきたいって思ってさ。みんなは好きなところを見ていてよ。社殿の後ろに『おもかる石』っていう占いみたいな試し石があるから、やってみるのもいいかもね」
 そう言いながら秀真は手水舎ちょうずやへ行き、石造の鈴から出る水で手と口を清め始めた。皐月と絵梨花も秀真と一緒に参拝することにした。
「私は『おもかる石』ってのをやってみようかな。中学受験を占ってみる。千由紀ちゃんと岩原君はどうする?」
「私もやってみる。せっかくだから何でもやってみたい」
「僕もやる。『おもかる石』のことは神谷氏から話を聞いている。燈籠の上にある石の玉を持ち上げるんだけど、その石が自分の予想よりも軽かったら縁起がいいんだって。ゲームみたいで面白そうだ」
 比呂志たちが命婦社の裏手にまわると、参拝客が数人、銅葺切妻屋根の小さな建物のところに集まっていた。近づいてみると、そこにおもかる石と書かれた立札があり、雨除けされた2基の燈籠があった。その燈籠の頭の上に乗っている丸石が「おもかる石」だ。
 ここには外国人がいなかった。比呂志たちの母親よりも少し年上に見える女性たちが楽しそうにおもかる石を試していた。彼女らの背丈は真理よりも少し低く、千由紀よりは少し高かった。重いと言いながらも持ち上げていたのを見て、真理たちは自分たちでもできそうな気になった。
「まず、僕がやってみる」
 立札には「願い事をしながら石を持ち上げ、自分の思っていたよりも軽ければ願い事がかなう」と書かれている。比呂志は軽々と石を持ち上げた。
「あれっ? 僕ってこんなに力があったのかな?」
 石灯籠が二つ空いたので、千由紀と真理が同時に持ち上げた。
「何これ? 重っ!」
 真理は想像していたよりも重く感じたようだ。
「無理無理無理……」
 千由紀は思っていた通りの重さだった。これでは願いが叶うのかどうかわからないと残念がっていた。
「私は『より一層の努力が必要』なんだって。まあ、わかっていたけどね。まだ合格点に全然届いていないんだから」
 真理たち三人は左に避けて、次の人たちに場所を空けた。

 比呂志と皐月と絵梨花は命婦社で二礼二拍手一礼をして、稲荷山を奉拝した。皐月はいつか稲荷山を巡るお山詣りをしてみたいと思った。その思いは隣にいる秀真も同じだろうと思った。
 皐月たちは命婦社を左に回り、拝殿の背後にある遥拝所へ行った。そこは丸石で組まれた石垣と、朱色に塗られた玉垣で結界を張られたようになっていて、朱塗りの鳥居の鳥居が建てられていた。鳥居に下は玉垣が切れていて、注連縄の巻かれた切り株が見えた。その手前には奉納された小鳥居が所狭しと重ねて並べられていた。
 皐月たちが遥拝所の前に来ると、ちょうど比呂志たちがおもかる石を終えたところだった。
皐月こーげつ、僕たちもやってみる?」
「俺はいい」
「私はやる。神谷さん、一緒に行こう」
 秀真と絵梨花はおもかる石の順番待ちの列へ並びに行った。
「皐月はやらないの?」
「俺はそういうの、いい」
「意外だね。昔は占いとか好きだったのに」
「だって悪い結果が出たら気分が下がるじゃん」
「あんたって、そんなに悲観的だったっけ?」
 皐月は好きな芸妓の明日美あすみの体調を気にしていた。少しでも不吉な占いに触れたら、明日美が死んでしまうのではないかと考えてしまうだろう。明日美の病気が命に関わるものだと知った以上、運命を試すようなことはしたくなかった。
「で、真理はどうだった? おもかる石」
「ダメだった。もっと頑張って受験勉強しなきゃ落ちるって。岩原君は良かったよ」
「まあ、僕の場合は特に願い事なんてないんだけどね。鉄道にたくさん乗れたらいいなってくらいだから」
「吉口さんはどうだったの?」
「私は予想通り、重過ぎて持ち上がらなかった。だから、良いも悪いもないっていう、つまらない結果になった」
 つまらない結果と言いながら、千由紀は笑っていた。占いなんて気にしないタイプだと思っていたので、皐月は意外に思った。
「ねえ、藤城君。さっきの神谷君の話なんだけど、伏見稲荷って昔は山頂にあったんだよね?」
「そうだよ。今の場所に映ったのは室町時代。それまではこの命婦社から上の山の中に祠がいろいろあったんだ」
「そうなんだね。やっとわかった。清少納言が稲荷社にお参りに行ったんだけど、坂を半分くらい上ったところで疲れて泣いちゃったっていう話があったの。私、その話の意味がよくわからなかったんだよね。そっか……平地じゃなくて、山の上に神社があったんだ」
「へぇ~、そんな話があったんだ。清少納言は十二単を着て山登りをしたのかな?」
「さすがにラフな格好だったと思うけど、貴族だから絶対に運動不足だったよね。そっか……清少納言もここに来てたと思うと楽しいな」
 皐月たちは秀真と絵梨花が戻って来るまで、山に入る鳥居の入口の横にある稲荷山の案内板の前で待つことにした。修学旅行ではお山詣りをするつもりがなかったので、地理をあまり頭に入れていなかった。改めて案内板を見てみると、デフォルメされている地図のせいか、位置関係が皐月の脳内マップとだいぶ違い、頭が混乱してきた。そのせいで、この後の経路が思い出せなくなった。
「ねえ、皐月。この後、この地図だとどこに行くの?」
「打ち合わせの時には三ツ辻みつつじまで行きたいって二橋さんが言ってたから、ここまでは行くんじゃない?」
 皐月は案内板の三ツ辻の箇所を指差した。この地図で見ると、かなり遠そうに見えた。
秀真ほつま伏見神寶ふしみかんだから神社に参拝したらすぐに引き返すって言ってたけど、どうするんだろう……」
「最優先すること以外は切った方がいいよ。三ツ辻まで行くのもいいけど、そうすると東寺とうじに行ったり、京都駅でお土産を買う時間がなくなっちゃう。どう思う? 千由紀ちゃん」
「う~ん。三ツ辻って飲食店があるところだよね。そこで何かを食べなければ行かなくてもいいかも」
 比呂志がマップで三ツ辻を見た。千由紀の言う飲食店は三玉亭みたまていのことだ。レトロな雰囲気の魅力的な店だ。
「マップで見ると、相当距離があるよ。経路から時間を算出できないみたいだな……。これは行ったら時間が足りなくなると思うよ」
 この旅の行程を司る比呂志は、三ツ辻に行かない方がいいと判断した。
「絵梨花ちゃん、悲しむかな……。また東寺に行かなくてもいいって言い出すかな」
 秀真が担任の前島先生に「伏見神寶神社に参拝したら、引き返すつもりでいます」と言った時に、絵梨花が珍しく感情的になり、「え~っ、三ツ辻までは行こうよ!」と言った経緯がある。その時は三ツ辻まで行っても大丈夫だと思い、絵梨花の希望通りにしようと決めた。
 秀真と絵梨花が皐月たちを見つけて小走りでやって来た。二人とも急いでいる雰囲気を出していた。
「ごめんね。順番待ちで遅くなっちゃった」
「いいよ。それより、おもかる石はどうだった?」
「私は軽かったから、願いが叶いそう」
「僕も軽かった。重くてびくともしないって思いながら持ち上げたから、余裕だった」
「うわぁ~。秀真ほつま、セコいな~」
 皐月と秀真が笑い終わる前に、絵梨花が話し始めた。
「さっきおもかる石の順番待ちをしていた時に神谷さんと話してたんだけど、この後、伏見神寶神社に参拝してすぐに帰ろうってことになったの」
 皐月たち4人は思わず顔を見合わせた。自分たちが話していたことが聞こえたんじゃないか、と思うくらい驚いた。
「時間がないから、三ツ辻はやめる。修学旅行の前は私が三ツ辻に行きたいって言ったのに、自分からやめるなんて言ってごめんね」
「いいの? 絵梨花ちゃん」
「うん。やっぱり東寺に行きたいから」
「私も東寺に行きたかったから、よかった」
「私も」
 真理と千由紀も東寺に行きたいと思っていたのを、皐月と比呂志はこの時初めて知った。
「でもね、神谷さんが伏見神寶神社に行くのをやめるって言い出しちゃったから、困っちゃったんだよ」
「マジか! 秀真ほつま
「まあ、また来ればいいかなって思ってさ……」
「秀真がガチで行きたいって言ったのって、伏見神寶神社だけじゃん。欲しい御守があるだろ?」
「結局、神寶しんぽうさんに行くことになったんだから、その話はいいじゃん。早く行こうぜ」
 顔を見られたくないのか、秀真は自分から先に山へ入ろうとした。秀真を追って絵梨花が続き、皐月たちはその後に続いて鳥居の中に入って行った。

 奥社奉拝所から稲荷大神と書かれた扁額へんがくの掛かった赤い鳥居をくぐり、再び鳥居のトンネルの中を歩いた。少し進むと、左手に「根上がりの松」という人気スポットがあり、右手には伏見神寶神社へ行く枝道があった。伏見神寶神社へ行く道は舗装されておらず、参道に連なる鳥居もなかった。
「じゃあ、神寶さんに寄らせてもらうね。小さい神社だから、参拝はすぐに終わるよ」
 参道は勾配の急な坂道で、足元は丸太階段になり、歩きにくくなってきた。稲荷山の参道に並行しているので、高度が上がると眼下に鳥居の黒い笠木が連なっているのが見えた。笠木の高さは不揃いで、その奥に朱色の柱と、その中を歩いている人の頭が見えた。参道を出なければ見られない光景に、皐月たちは興奮した。
 皐月は久しぶりに自然の中を歩いたような気がした。稲荷山は下鴨神社のただすの森とは違い、自然の山だ。そして、ここは神奈備かんなびと呼ばれる、伏見稲荷大社で祀られている神々が降臨した山だだ。しかし、歩いている限りでは皐月には普通の山にしか思えなかった。
「二橋さん。本当は御塚おつかが見たかったんじゃないの?」
 皐月の前を歩く千由紀が御塚という言葉を口にした。御塚のことは事前学習で触れなかったので、皐月と秀真以外は誰も知らないと思っていた。
「御塚はちょっと独特な雰囲気があるよね。一度は見てみたいと思ったけど、今日じゃなくてもいいかなって思った。でも時間がある時にまたゆっくりと見てまわりたいかな」
 伏見稲荷大社の本来の参拝は本殿だけでなく、稲荷山を登り、点在する神蹟地を巡ることだ。皐月には絵梨花に稲荷信仰があるとは思ええなかったが、きちんとした参拝をしたいと思っているようだ。だが、御塚巡りは本来の参拝ではない。
「御塚って異世界っぽいっていうか、オカルティックな感じだよね。アニメとかホラー映画に出てきそうで面白そう」
 絵梨花も千由紀も御塚を楽しみにしていたんだな、と思った。秀真も御塚を見てみたいと言っていた。だが、皐月はあまり気が進まなかった。
「私はおどろおどろしくて嫌。みんな、そういう所のこと好きだよね」
 真理は皐月に近い考えをしていた。真理と一緒にいて安らげるのは、こういうところだと思った。
 稲荷山の御塚とは、個人が思い思いの神名をつけて稲荷神を祀った磐境いわさかのことだ。山に岩を持ち込み、その岩に神名を刻んで鳥居を設える。だから御塚は伏見稲荷の関連神社ではなく、個人の神棚を外に持ち出したようなものだ。
 皐月は御塚の外観が怖くて好きになれない。磐境が墓石に似ていて、御塚の土台が墓を連想させる。小鳥居の朱色と石の灰色が背後の山と草木の影に浮かび上がっている。鳥居に奉納者の名がやたらと書かれているところや、風化した狐の石像、雑に重ねられた小鳥居も不気味な雰囲気を醸し出している。湿気の多い所では御塚が苔に覆われている。
 皐月は御利益信仰が好きではない。御塚に込められた信者の念が怖くて敬遠したくなる。信者の一族郎党の繁栄を願う思いを否定するわけではないが、祈りが剥き出しになっている勢いに引いてしまう。自分なら祈りは内に秘めたいと思うので、御塚のように神蹟のまわりを囲むように御塚を建てようと思った人たちの思いが理解できない。稲荷信仰と先祖崇拝が倒錯しているところに違和感を覚える。
 御塚とは稲荷山三峰神蹟標石といい、1877年に伏見稲荷大社から建立が認められたものだ。明治時代から御塚信仰は広まって、大東亜戦争以降、御塚が急増したという。
「皐月は御塚、見たかった?」
「俺はいい。怖いじゃん」
「皐月はさっきから『俺はいい』ばっかりだね」
 真理はクスリと笑ったが、なんとなく自分の心情を察してくれているように思えた。真理はやっぱり自分と同類だと思い、皐月は真理のことがさらに愛おしくなった。

 皐月たちはいつしか竹林の中を歩いていた。そして伏見神寶神社に到着した。
「またでごめんだけど、僕は参拝して御守を買ってくる。みんなは好きなようにしていて」
 秀真は一人で拝殿に急ぎ足で向かって行った。取り残された皐月たちは途方に暮れていた。
「俺も参拝してくるよ。ここの神社には興味があるし」
「僕も一緒に行く。神谷氏は水臭いよ。八坂神社でも下鴨神社でも一緒に参拝したのに」
 皐月と比呂志も拝殿に向かった。女子3人は社号標の前の狛龍の傍らで立ち尽くしていた。
「どうする?」
「ここにいても仕方がないし、中に入って手を合わせようか。伏見稲荷の中の小さな神社の時みたいに」
 絵梨花の提案で3人も境内の中に足を踏み入れた。
 伏見神寶神社は伏見稲荷大社の摂社末社ではなく、独立した神社だ。創建は平安初期で、当初は稲荷山の山頂付近に祀られていた。この場所へは1957年に移設されたので、社殿は特に神さびてはいない。
 主祭神は天照大神あまてらすおおかみ稲荷大神いなりのおおかみ十種神宝とくさのかんだから。本殿が神明造しんめいづくりなので、伊勢神宮の系列だ。
 十種神宝とは物部もののべ氏の祖神の饒速日命にぎはやひのみことが天照大神より授かった十種の神宝のことだ。初代天皇になる神倭伊波礼毘古命かむやまといわれびこのみことが日向国から大和国に侵攻する神武東征の時、饒速日命が神倭伊波礼毘古命に十種神宝を献上したという。
「あれっ? みんなも来たんだ」
「そりゃ来るよ。置き去りにするなんてひどいじゃない。ところで、この人形の折り紙って何だろうね?」
 拝殿の両側に千代紙の人形が掛けられていた。これらは叶雛かなえびなといい、かぐや姫にあやかったデザインで、絵馬のように願い事と名前を書いて奉納する。
「ここって竹取物語と関係があるの?」
 千由紀は叶雛に反応していた。
「この神社は竹林に囲まれているから、そういう話になったのかな。でも、神社が創建した時は山頂付近に祀られていたわけだから、ここじゃないよね。竹取物語は平安時代に書かれた小説だし、なんだか後付けっぽいね」
 皐月が醒めた顔で言うと、千由紀は感心していたが、絵梨花は皐月の言葉が気に入らなかったようだ。
「でも、こうして信仰されているんだから、藤城さんみたいにバッサリと切り捨てるような言い方はどうかな」
 温厚な絵梨花にしては語気が険しかった。皐月はいつもどこかで絵梨花に甘えていたので、この時はきつく責められたような気持ちになった。真理が絵梨花の顔をまじまじと見ていた。
「そうだね。俺のこういうところがダメなところだよね。ごめん……。でも、人がどんな形であれ、祈る姿は尊いと思ってるよ。それに、竹取物語の聖地としてこの神社を楽しむのはアリだと思う」
 皐月は表情を管理した完璧な笑顔を絵梨花に向けた。御塚を建てて祈る人の気持ちを怖いと思っておきながら、こうして絵梨花に日和ることを言う自分が嫌になった。うっかり人に本心を漏らすものじゃないと後悔した。
「お待たせ。もう買い物が済んだから行こう」
「後で買った御守、見せてよ」
「いいよ。すっごくいい買い物ができた。一生の宝物になりそう」
 ご機嫌になった秀真を先頭に、皐月たちは伏見神寶神社を後にした。

 6人は来た道に戻るため鳥居を出て右へ進んだが、左へも道が続いている。その道は竹の下道といい、稲荷山の裏ルートとして知られている。竹林を抜け、苔生こけむした御塚の間を抜けていくと、山頂にある一ノ峰に行くことができる。
「いつかこっちのルートも歩いてみたいんだよね」
 秀真は後ろを振り返り、名残惜しそうにしていた。皐月は御塚の集まる所は通りたくないが、竹林の中は歩いてみたいと思った。
 みんな疲れているのか、道が悪く勾配のきつい下り坂を無言で歩いていた。稲荷山参道の鳥居が見えてくると、皐月は観光客の喧騒に懐かしさを覚えた。
 鳥居のトンネルに入ると根上がりの松には目もくれず、秀真を先頭に先を急いだ。再び鳥居をくぐっていると、皐月は意外にもこの光景に飽き始めているのを感じた。伏見神寶神社への往来で森の中を歩いたせいか、鳥居の中を歩いているとケージの中のペットのような気持ちになった。
 少し下ると鳥居に切れ目があり、左右へ細い道が延びていた。その脇道には鳥居のトンネルはなく、森の中を歩く遊歩道のような穏やかな雰囲気を出していた。
「ここを曲がるよ。これで相当ショートカットできるから」
 秀真は左へ下り、鳥居のトンネルから抜け出した。こっちの道はほとんど人がいなく、伸び伸びと歩くことができた。木漏れ日を浴びながら、樹々の隙間の向こうに見える朱色の鳥居の並ぶ参道を視た。今思えば、どうしてあんな所を喜んで歩いていたんだろうと、皐月は不思議な気持ちになった。きっと千本鳥居に陶酔していたのだろう。
「皐月、顔が穏やかになったね」
「そう? 真理にはそう言う風に見えるんだ」
「うん」
「俺、人が多い所って苦手だからさ、ちょっとホッとしているのかも」
 相手が真理とはいえ、本心は言わないでおこうと思った。こういう時、優しい笑顔になるのがいいということを、皐月は修学旅行の中で覚えた。
 少し歩くと分岐点があった。真っ直ぐ進むと千本鳥居に合流するので、逆行するようで行きにくいが、少し戻るような右の道に進んで森の中を歩き続けた。
「ねえ、神谷さん。さっきお参りした神社の御守っていうのは特別なものなの?」
 時間に追われて秀真は誰にも御守について説明しなかった。秀真は御守を後で見せると言ったが、好奇心の旺盛な絵梨花はそれを待ちきれなくて、話だけでも聞こうとした。
「伏見神寶神社で買った御守は『神寶御守かんだからのおまもり』といって、神社で祀られている『十種神宝』をデザインした銅のペンダント型の御守なんだ」
「その『十種神宝』って、どういうもの?」
「十種神宝は神璽しんじといって、皇位の象徴としての宝のことなんだ。神倭伊波礼毘古命かむやまといわれびこのみことが初代天皇になれたのは、天照大御神から十種神宝を授けられたからだって言われている」
「じゃあ、その御守って古代史好きの人にはたまらないんだろうね」
「そうなんだよ。この御守が欲しくて、ここに来たようなものだから。そんな自分の都合にみんなを付き合わせちゃって悪いなって思ってるけど」
「悪くないよ。面白い話だなって思った。そんな話を聞いたら、私も神寶御守だったっけ、欲しくなっちゃった」
皐月こーげつも欲しがっていたんだよな。お金がなくなって買えねーって泣いていたけど」
 秀真と皐月は距離が離れていたので、皐月には秀真の話が聞こえなかった。秀真の話を絵梨花と千由紀と比呂志が聞いていて、真理と皐月は少し離れたところで樹々を眺めながら歩いていた。
「お~い、皐月こーげつ! 十種神宝って全部言える?」
「なんだ、クイズかよ」
「藤城氏は京阪の駅名を覚えていたよね。十種神宝も覚えているんでしょ?」
 比呂志にも煽られた。皐月はなんだか秀真と比呂志に遊ぼうと言われているみたいで、楽しくなってきた。
「そんなの言えるに決まってるじゃん。沖津鏡おきつかがみ辺津鏡へつかがみ八握剣やつかのつるぎ生玉いくたま足玉たるたま死返玉まかるかへしのたま道返玉ちかへしのたま蛇比礼おろちのひれ蜂比礼はちのひれ品々物之比礼くさぐさのもののひれ。どうだ!」
「正解……だと思う。よく全部憶えてるね。僕は皐月みたいにスラスラとは言えないな……」
「暗記には自信があるんだ。一度書けば大抵は憶えられる」
 皐月は暗記力に自信があるが、その気にならない限り全く憶えられないという欠点がある。そして困ったことに、なかなかその気にならない。
「嘘! あんたってそこまで記憶力良かったっけ?」
「そうだけど?」
「うわ~っ、もったいない。それだけの頭があれば中学受験なんて楽々突破できるのに」
「いや、この暗記力は興味のあること限定だから。たぶん受験勉強には何の役にも立たないと思う」
「それなら受験勉強を好きになればいいのに。無双できるよ、ホント」
 道の右手にある朱色の欄干の十石橋の橋詰を通り過ぎ、狛狐の間を抜けると啼鳥菴ていちょうあんという休憩所がある。そこは山を巡って疲れた人で賑わっていた。稲荷茶寮というカフェが併設されていて、修学旅行生向けに100円引きのドリンクが売っていた。皐月は宇治抹茶が飲みたくなった。
「真理、喉乾かん?」
「乾いているけど」
「じゃあ、宇治抹茶買ってよ」
「ダメ。急いでいるから先を急ぐよ」
「鬼軍曹かよ……」
 さらに進むと社務所の白壁の塀に突き当たった。右に曲がれば大八嶋社おおやしましゃという、社殿のない摂社がある。
 御祭神は大八嶋大神おおやしまのおおかみといい、伊邪那岐神いざなぎのかみ伊邪那美神いざなみのかみによる、国生みの儀式によって生まれた八つの島々のことで、日本列島を意味している。
 当初はかつて田中社神蹟のある荒神峰山上にあったが、中世に入り当地に遷された。伏見稲荷大社を創建した秦伊侶巨はたのいろこが稲荷山に神を祀る際に、最初に地主神の大己貴神おおなむちを鎮めたとされている。
 出発前に秀真は皐月に大八嶋社のことを熱く語った。社殿がなく山そのものが御神体であることと、地主神が大己貴神ということが、日本最古の神社とされる奈良県の大神おおみわ神社と同じだという。秀真は稲荷山を隈なくまわりたいと言っていた。
 皐月たちは丁字路ていじろを左に曲がり、山に入る前に参拝した玉山稲荷社に戻って来た。これから山に入る観光客が続々と玉山稲荷社の前の階段を上って来る。
「岩原氏、JR稲荷駅の時刻表ってわかる?」
 秀真が京都市内の移動を任せている比呂志にスケジュールの確認をした。
「わかるよ。今からだと14時38分の電車がある。これに乗れたら遅延を15分短縮できる」
「お~。15分は大きい」
「神谷氏と二橋氏が頑張ったからだよ。二人とも意思が強い」
 遅れを気にしていた班長の千由紀が嬉しそうな顔で微笑んだ。千由紀につられて皐月たち他のメンバーも心が軽くなった。

 玉山稲荷社の前の階段を下りて、講務本庁と授与所の間を抜けた。右手には神具店や陶器の店が並んでいる。伏見稲荷に来る時はこちらの道を通らなかったが、神具を買うわけでもなさそうな観光客が大勢いた。半分以上は外国人だ。
 参道を左に曲がると手水舎の前に出た。丁字路を右に曲がれば、来た時に通った裏参道(神幸道)だ。皐月たちはこれからJR稲荷駅へ行くので、左に曲がって楼門前の表参道を進んだ。表参道を進んだ先にJR奈良線の稲荷駅がある。
 表参道は広々としていた。参道は石畳が美しく敷かれていて、二の鳥居を抜けると参道の両側に白壁が建てられている。左側の壁は駐車場を隠していて、日常を忘れさせてくれる。
 右手には三宇の祠があり、左から熊野社、藤尾社、霊魂社という。真ん中の藤尾社は伏見稲荷大社にとっては大切な社で、小さな社殿だが桧皮葺ひわだぶき一間社流見世棚造いっけんしゃながれみせだなづくりの立派な祠だ。皐月は絵梨花と以前のように話したいと思い、藤尾社の知識を披露した。
「伏見稲荷大社ってさ、元は山の上にあったって言ったじゃん。じゃあここに何があったかっていうと、あの真ん中にある藤尾社があったんだ。創建は203年だから、弥生時代の神社だね」
 絵梨花だけに聞こえればいいと思い小声で話したが、他のみんなも皐月の話に耳を傾けていた。
「山頂の稲荷社をここに移すために、藤尾社を他の場所に移動させたんだ。ここに藤尾社があった証として、小さな祠を残しておいたんだんだと思う」
「じゃあ、今の伏見稲荷大社は藤尾社があった所に建てたのね」
「そう。移動させた藤尾社は別の場所で藤森神社っていう立派な神社として崇敬されている」
 皐月と秀真は伏見稲荷の起源を調べる時、藤森神社の社伝を参考にした。
「藤尾社って何の神様が祀られてるの?」
舎人親王とねりしんのうっていう『日本書紀』を編纂した人。でも舎人親王は後の時代の人だから、創建当初は別の神が祀られていたはずだ。神功皇后じんぐうこうごう新羅しらぎから凱旋した後に造った神社だから素盞鳴命すさのおのみことかな」
 話したいことがまだあったが、一の鳥居に着いてしまった。目の前には稲荷駅がある。どうやら発車時間には間に合いそうだ。御手洗に行く余裕も残っていた。

 稲荷駅は小じんまりとした和風建築の駅舎だ。切妻瓦葺の屋根に、白壁と朱塗りの柱といった伏見稲荷大社の関連施設かと思わせる造りになっている。
 稲荷駅の改札は宇治・奈良方面の側にある。京都方面の1番のりばへは跨線橋こせんきょうを越えなければならない。改札を入ってすぐ左側にエレベータがあったが、皐月たちは疲れていても階段で跨線橋を渡った。
「結構、人いるね……」
 プラットホームには観光客が大勢いて、そのほとんどが外国人だった。皐月は自分が今どこの国にいるのかわからくなりそうになった。
「絵梨花ちゃん、次はいよいよ東寺とうじだね。なんとか普通にまわれそうでよかった」
「うん。今から楽しみ」
 絵梨花と真理が話をしていたのを千由紀が聞いていたので、皐月は千由紀に話しかけた。
「吉口さん、疲れた?」
「うん、ちょっとだけ」
「足とか痛くない?」
「大丈夫だよ。心配してくれてありがとう」
「羅城門って東寺の近くにあったんだよね。それなのに芥川の小説みたいに平安京が荒廃していたとしたら、東寺も大した力がなかったのかな?」
「宗教じゃお腹は膨らまないからね。藤城君って連想力があるよね。私、『羅生門』を読んでても、東寺の力が弱かったなんて思わなかったな」
「俺って発想が暗いから、そういう風に考えちゃうんだよ」
 皐月は力なく笑って、話を打ち切った。
 踏切が鳴り始めたので、もうすぐ京都行き普通列車がやって来る。気が付くと電車を待つ人が増えていた。行きもJRは混んでいたな、と皐月は朝の京都駅の奈良線の車内を思い出していたが、なんだか遠い昔のような記憶になっていた。


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