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修学旅行、京都駅から鉄道と徒歩で清水寺へ(皐月物語 131)

 午前9時になると、稲荷小学校の修学旅行初日の班別行動が始まった。各班は行き先に別れ、それぞれバス乗り場や地下鉄改札口に散り散りになった。中央口の改札から京都駅に入り、在来線を利用するのは藤城皐月ふじしろさつきたちの班だけのようだ。
「朝一で清水寺に行く子たちっていっぱいいるじゃん。バスだと直接近くまで行けちゃうんでしょ? 電車って効率悪くない?」
 バス停へ向かう同級生たちを見て、神谷秀真かみやしゅうまが疑問を投げかけた。秀真は自分たちだけが違う行動をしていることに不安を覚えているようだ。
「移動だけを考えたら、目的地に近い所まで行けるバスの方が効率がいいかもしれないけど、旅ってそれだけじゃないよ。目的地だけじゃなくて移動も楽しめるから」
「岩原君はオタクだから鉄道の移動が楽しいだけでしょ?」
 栗林真理くりばやしまりの言葉は辛辣だ。だが幼馴染の皐月は真理のこういう言い方に慣れている。初めの頃は怖がっていた岩原比呂志いわはらひろし吉口千由紀よしぐちちゆきも真理に慣れ始めているようで、もうキツい言葉を気にしてはいなかった。
「鉄道は渋滞回避って言ったでしょ。バス停を見てよ。凄い行列になってるよ。バスの定員は70人だし、あれって一度に全員は乗れないよね? 次のバスが来るまで待たなきゃいけないし、乗れたとしてもギュウギュウ詰めだよ?」
 班のみんなで話し合った時はバスの混雑と道路の渋滞を避けるために鉄道での移動に決めた。こうしてバス乗り場の実態を目の当たりにすると、皐月は自分たちの判断に間違いはなかったと思った。
 改札を抜けたところでスナップ写真を何枚か撮影した。皐月たちはエスカレーターで2階に上り、10番線のJR奈良線のプラットホームに向かって跨線橋を歩き始めた。比呂志はホーム側の窓際に寄り、窓から在来線のホームに心を奪われていた。比呂志の様子が鉄ヲタ丸出しで面白かったので、皐月は千由紀からスマホを借りて比呂志の写真を撮った。
 新幹線中央乗換口の手前にあるエスカレーターを下り、奈良線のプラットホームに出た。9・10番線は終着駅らしい風情を感じさせる頭端式で、旅情をそそられた。電車はすでに入線していたので、比呂志が写真を撮りまくっていた。
 10番線には皐月の地元の飯田線では見かけない205系という直流通勤形電車が停まっていた。東福寺駅で乗り換える際、最後尾にいた方がいいと比呂志が言うので、座席には座らずにドア付近で立つことにした。
 発車時間が近付くにつれて車内は混み始めてきた。乗車してくる人の半数以上が外国人だ。こんな人種の坩堝るつぼのような所が日本にもあったのか、と皐月は興奮した。
「みんなどこに行くのかな?」
 真理が皐月に話しかけてきた。豊川駅を出てから真理とはあまり話していないことに気が付いた。
「伏見稲荷か平等院じゃないかな。奈良まで行く人も多いのかな? 俺たちは次の駅の東福寺で降りちゃうけど」
「私たちみたいに電車で清水寺に行く人っているのかな?」
「鉄道だと乗り換えがあったり、駅で降りた後の歩く距離が長かったりするから、外国人にはハードルが高いかもね」
 車内が混み合ってきて、真理との密着度が高くなってきた。混雑にまぎれて、真理が必要以上に体を寄せてきた。真理と体を寄せ合うのは慣れているので、皐月は特に変な気を起こすことはなかったが、背後に背の低い二橋絵梨花にはしえりかがいたので、そっちの方でドキドキした。

 9時10分発の奈良行き普通列車は大勢の人を詰め込み、ゆっくりと京都駅を発車した。バスの混雑を避けたはずなのに、電車でもひどい混雑だった。だが一区間しか乗らないので、この混雑からは3分で解放される。バスならもっと長い時間拘束されると思うと、皐月は鉄道での移動は間違ってなかったと確信した。
 東福寺駅にはすぐに着いた。2番線を下りた皐月たちは左手すぐにある乗り換え口へ向かった。ここで京阪電車に接続するが、駅の外に出ることはない。乗り換え口の改札を通ると、隣の京阪のホームに移動できる。接続時間が2分あるので、慌てずにゆっくりと歩いても余裕で間に合う。
 JR線の改札を出て右に曲がると京阪線のホームと改札が見えた。改札の右手に券売機があるが、manaca があるので切符を購入する必要がない。
「manaca って便利だね」
「だろ? 切符を買わないのは楽だよな」
「それに早いよね」
 シームレスな移動という利便性は圧倒的だ。千由紀が嬉しそうに話すのを聞き、皐月と比呂志はみんなで交通系ICカードを持とうと提案して良かったとホッとした。
 皐月はこのJRと京阪の改札口の間のわずかな区間を大いに気に入っていた。この外部から直接入れないラッチ外の一画はエアポケットのようだ。改札を出ても外に抜けられない場所ということで地獄と呼ぶ人もいるらしい。比呂志を見ると京阪のホームの方に関心が向いているようなので、このマニアックな歓びは比呂志と共有できそうにない。皐月は一人で東福寺駅を堪能した。
 東福寺駅は特殊な駅といっていい。京阪のホームに出た皐月と比呂志は実際に駅の中を歩いてみて、感動を口にし合った。
「岩原氏、東福寺駅ってトリッキーだよな。JRも京阪も2面2線なのに、本当は島式ホーム1面を相対式ホーム2面で挟む配線じゃん」
「島式ホームを塀で仕切って相対式ホーム2面2線のように見せかけているだけなんだよね」
「昔はこの仕切りもなかったんだって。キセルし放題だよな」
「京阪は地上に改札があるのに、JRだけが橋上駅舎っていうのも芸術点が高いよね」
「いや~。こんな面白い駅に来られて、もうこれだけで鉄道移動にした甲斐があったよ」
「何言ってんの、藤城氏。お楽しみはこれからなのに」
 皐月と比呂志が鉄道話で盛り上がっていると、緑の頭をした黒い顔で口元が白い7000系がやって来た。9時15分発、出町柳行きの準急だ。この電車に乗って、二つ先の祇園四条駅で降りる。
 東福寺駅を出ると、1分もたたずに七条駅の手前で地下に潜った。ここから終点の出町柳駅までは地下区間になる。
「地下鉄みたいだね」
 真理のつぶやきに比呂志が反応して解説を加えた。
「昔は地上駅だったんだよ。でも車社会になって国道1号線が渋滞するようになったから地下化したんだって」
 七条駅を出て清水寺の最寄り駅の清水五条駅には9時18分に到着した。モーター音が低くなりながら電車が止まった。

 清水五条駅の構内の柱には美しい宣伝写真が巻かれていた。壁は白い正方形のタイルが敷き詰められていて、目地の色は黒かった。皐月はこの碁盤を思わせる装飾を平安京をイメージしたものだと解釈した。
 改札を出て、皐月たちは4番出口へ向かった。この出口にはエスカレーターが設置されていたので、みんなで体力の温存のためにエスカレーターを利用した。
 外に出ると目の前は五条通と呼ばれている国道1号線だ。この日は晴れていて、青い空が広がっていた。国道1号線の歩道は電線が地下に埋設されていて、景観がすっきりとしている。見通しが良く、空気が澄んでいたので、遠くの東山がよく見えた。皐月らが住む豊川稲荷周辺からは山が見えないので、山が見られるだけですでに嬉しかった。
「ねえ、ちょっとコンビニで食べ物買ってくるから待ってて。すぐに戻るから」
 真理がローソンストア100に吸い込まれてしまった。皐月は真理を追いかけて行き、そんな真理と皐月を見て千由紀は顔を曇らせた。
「買い食いしちゃいけないって、班長会議で言われたんだけどな……」
 千由紀の隣に絵梨花が寄り添い、声をかけた。
「吉口さん、そんなに神経質にならなくてもいいと思うよ。別に悪いことをしているわけでもないんだし。それにお店の人に迷惑をかけるわけでもないからね」
「二橋さんって学級委員だから、学校で決められたことは忠実に守るのかと思ってた」
「学級委員の仕事はきちんとこなすけど、理不尽な決まりに従うつもりはないよ」
「へえ~。二橋さんって思ってたよりも自由な人なんだ」
「うん。自由を制限されるのは嫌いなの。担任の前島先生って私たちを拘束するようなことを全く言わないから好き。6年4組では私の悪い性格が今まで表面化しなかっただけなんだよね。嫌な先生には結構反抗的なんだよ」
 楽しそうに笑う絵梨花を見て、千由紀の表情が緩んだ。
「藤城君も『規則なんて、あんなの建前じゃん』って言ってた」
「そういうところ、いいよね。藤城君って」
 真理と皐月が店から出てきた。真理はおにぎりを一つ、皐月は鶏竜田揚げを手にしていた。
「みんなはハラ減らないの?」
「私はしっかり朝食を摂って来たから大丈夫。藤城さん、朝ご飯食べて来なかったの?」
「食べて来たよ。でもお腹が空いちゃった。育ち盛りだからいくらでも食べられるな。二橋さんもお腹がすいたら何か買って食べなよ」
「うん。そうさせてもらう」
 真理はさっそくおにぎりを食べていた。比呂志は清水五条駅の写真を撮り、秀真はタクシー乗り場の電話ボックスや真理たちの写真を撮っていた。神社の写真を撮るのが好きは秀真は風景写真を撮るのも好きみたいだ。
「真理、おにぎり1個で足りるのか?」
「う~ん。ちょっと足りないかも」
「俺の竜田揚げ、一つやるよ」
「ありがとう。コンビニの竜田揚げよりも、この鶏専門店の唐揚げを食べてみたかったね」
「まだ朝早いからな……。これじゃあ清水寺の土産物屋も開いてるかどうかわかんないな」
 袋から竜田揚げを一つ取り出して、直接手で真理に食べさせると、指が真理の唇に当たった。あっと思ったら、真理と目が合った。皐月は思わずキスをしたい衝動に駆られた。
「ちょっと時間が押しちゃってるから、そろそろ行くよ。清水寺をまわる時間が足りなくなっちゃうから」
 千由紀に急かされて、皐月たちはキリキリと歩き始めた。皐月はスケジュールに余裕を持たせなかったことを後悔し始めた。

 皐月たち6人は国道1号五条通を東に進み、まずは県道143号東大路通と交わる東山五条の交差点を目指した。往来には観光客相手の店は少なく、地域に根ざした店が多く立ち並んでいた。
 鮮魚店や信用金庫、コンビニなど生活を支える店や、うどんやラーメン、たこ焼きなど庶民のお腹を満たす店があるかと思えば、お洒落なカフェや洋菓子、和菓子で身も心も気持ち良くなれる癒しの店もある。着物レンタルや旅館、ホテルなどは旅行者をもてなし、数多の陶磁器専門店は好事家を喜ばせる。小学生には縁のない店が多いが、皐月たちは五条通の散策を楽しんだ。
「この通りってほとんど観光客がいないんだな」
 風景写真を撮ることに夢中になっていた秀真がみんなが何となく感じていたことを口にした。
「鉄道を使って清水寺へ行こうと思う人がいないってことだね。いわば穴場というやつだ。もったいない」
「もったいないって何? 岩原君って変なこと言うね」
「だって鉄道に乗らないなんてもったいないでしょ? 栗林さんは電車に乗って塾に通っているんだから、僕のこの気持ちをわかってくれるのかと思ってた」
「まあ、全然わからないわけじゃなくなってきたけどね。岩原君と皐月の教育のお陰で」
 朝が早いので店を開けているところはまだ少ないが、なかなかいい道だなと皐月は感じていた。比呂志の言う「もったいない」は皐月も思っていたが、皐月の「もったいない」はこの五条通を歩かないことだと思っていた。
 冨田工藝という仏具店のある大和大路通を超えると、街路灯が瓢箪ひょうたん型になった。この辺りから緩やかな上り坂になり、少しずつ体力が削られていく。
「街灯が瓢箪みたいで可愛いね」
「豊臣秀吉の馬印うまじるしみたい」
 真理の何気ない言葉に絵梨花が歴史の知識で答えた。
「馬印って何?」
 学校の教科では誰よりもできる真理だが、歴史の知識は中学生レベルまでしかない。小学6年生が中学生レベルの知識があるだけでもすごいが、真理の場合はバランスのとれた教科書レベルの知識で、絵梨花や秀真、比呂志のような尖がった知識ではない。
「馬印はね、戦国武将が戦場で自分はここにいるよって知らせる目印のことだよ。秀吉の馬印は金色の瓢箪で、自分はここにいるぞってアピールしていたみたいだね」
「ふ~ん。絵梨花ちゃんは歴史のこと、よく知ってるね。じゃあ、この辺りって秀吉と関係があるのかな? 清水寺を参拝した後、ねねの道を歩くわけだし」
「豊臣秀吉は天下統一を成し遂げた後、京都の都市改造をしたんだよ。今日の京都を形づくったのは秀吉なの。ねえ、神谷さん。この辺りに秀吉を祀っている神社ってあったよね?」
「あるよ。豊国神社がこの近くにあったと思う。豊国神社は豊臣秀吉を祀っているんだ。でも、僕は人を祀っている神社ってあまり詳しくなくて……」
「そんなことないよ。この近くに秀吉を祀っている神社があることがわかっただけでも楽しいから。時間が許せば寄ってみたかったね。さっき通り過ぎた東福寺も」
「修学旅行だからしかたがないよね」
 五条大和大路・東山開睛館前のバス停の先に大きな歩道橋があった。皐月は絵梨花と学校の近くの歩道橋から姫街道を見た時のことを思い出した。
「ここにバス停があるっていうことは、うちの学校の子たちもこの道を通るのかな?」
 真理の疑問に交通担当の比呂志が答えた。
「これは80号系統だから、通らないよ。みんなが乗るバスは恐らく206号系統。それにもし206号系統に乗ったら、清水寺に行く前に三十三間堂に寄ると思う」
「岩原君って鉄道オタクなのに、バスにも詳しいんだね」
「バスはそんなに詳しくないんだけど、路線図は見ていて面白いね」
 真理と比呂志の話が面白くて、皐月も会話に加わった。比呂志と皐月は休憩時間に京都のバスを攻略しようと、よく路線図を見ていた。皐月は路線図を見て双六すごろくゲームを作りたいと思ったくらいだ。
「そうそう。俺も岩原氏も路線図を見てるだけで白米三杯は食えるから」
「そういえば皐月もそっち側の人だったね……」
 絵梨花が皐月の傍に来て話しかけてきた。
「ねえ藤城さん。あの歩道橋の上から景色を見てみたくない?」
「見たい。それ、俺も考えてた。でも時間が押しているから言い出しにくかったんだよね」
「じゃあ、走って見に行こうよ」
「そうだね」
 絵梨花がダッシュで歩道橋の階段を上りはじめたので、皐月も走って後を追った。絵梨花が柵の前でどうやって見ようかいろいろ試していた。
「柵が高くて見にくいな~。柵の向こうに網があるし。でも、いい眺め」
「ちょっと坂を上って来たから、ここって高いよね。遠くまで良く見える」
 皐月と絵梨花を見て、他の4人も続々と歩道橋に上がって来た。
皐月こーげつ、何か面白いものでも見えるのか?」
 秀真が皐月の隣に並んできた。
「ここからの眺めってどんな感じかなって思って来たんだ。秀真ほつまは面白いって思う?」
「まあ、いい景色だなって思うけど。ただの広い道だし、そこまで面白くはないかな」
「岩原氏はどう?」
「神谷氏と同じく普通にいい眺めって感想だね」
 皐月には豊川の姫街道にかかる古宿歩道橋からの眺望に二橋絵梨花や入屋千智いりやちさととの思い出がある。だからこの六波羅横断歩道橋から眺める景色もただの景色には見えなかった。絵梨花も自分と同じ想いなんだと思った。歩道橋を喜ぶ絵梨花を見て、千由紀や真理が不思議そうにしていた。皐月はこの景色の感動を絵梨花と二人の秘密にしておこうと思った。
「さて、先を急ごうぜ。道草しちゃって悪かったな」
 皐月たちは歩道橋を下りて、東山五条交差点まで来た。ここからは親鸞聖人しんらんしょうにんを奉祀する大谷本廟おおたにほんびょうの総門が見える。ここを抜けて大谷墓地の中を歩いて行くと清水寺に出られると秀真が提案したが、修学旅行でいきなり墓地に行くのはどうかということで却下された。
 親鸞は鎌倉仏教の一つ、浄土真宗の宗祖だ。皐月にはその知識だけはあるが、親鸞の教えが何なのかはわからない。皐月も真理と似たようなもので、知識が広い割に浅い。仏教に詳しい、同じ修学旅行実行委員の筒井美耶つついみやなら解説をしてくれたかもしれない。そう思うと美耶に会いたくなってきた。
 交差点を左に曲がってすぐの横断歩道で県道143号大和大路を渡ると、五条坂になる。いよいよここからが清水寺への参道だ。

 五条坂はぱっと見、民家が並ぶ普通の坂道だ。清水寺の参道だが、坂の入口は観光地然としていない。だが、生八ツ橋やレンタル着物の店があるので、やはり京都の観光地だ。
 少し進むと古民家を改装したアクセサリーの店があった。飾り窓にはピアスやネックレスが陳列されていて、女子たちの足を止めた。皐月も付き合って見ていると可愛いピアスを見つけた。
「ちょっとここで買い物してもいいかな?」
 皐月は誰とはなしに班の子に声をかけた。店の様子では開店しているのかどうかがわからない。観光の順路を考えると、ここで買わなければもう二度と手に入らないものだ。
「どうする? 時間的にはギリギリだけど」
「みんなどこかで買い物をしなければならないんだから、いいんじゃない?」
 時間を気にする千由紀を絵梨花が諭した。ちょうど開店準備の時間なのか、美しい女性の店主が店の奥から出てきた。
「おはようございます。お店はもう開いていますか?」
 皐月が快活に声をかけると、子供に声を掛けられたからなのか、店主は少し戸惑っているような顔をしていた。
「ちょうど今開けるところですよ」
「僕は小学生ですけど、この店の商品を売ってもらえますか?」
 店主は皐月の全身をさっと見た。皐月は店主に値踏みされような気がした。皐月の少し離れた背後には真理たちが待っていた。
「修学旅行ですか? 売るのはええですけど、お小遣いは大丈夫ですか?」
「はい、大丈夫です。店頭に出ているフリージアのピアスがほしいんです」
 皐月の選んだピアスはガラスのフリージアだった。花弁の奥が黄色く、外のふちが紫色で、その間は透明だった。彩色は淡く、グラデーションの付き方がとても美しかった。この透明なフリージアは明日美そのものだと思った。
「こちらは新進気鋭の作家さんが作られた新作です。ええ出来やなと思ってましたが、すぐに見つかってまいましたな」
 どうやらガラスのフリージアのピアスはこの店にとって自慢の逸品だったようだ。
「紫のフリージアの花言葉は『憧れ』です。僕の憧れの女性にどうしてもプレゼントしたいんです」
 子供には売ってもらえないかもしれないと思い、皐月は真摯な目で女店主を見つめた。商売人の彼女の目が優しくなった。
「わかりました。ほな、6300円と消費税で6930円いただきます。ほんまにお小遣い、大丈夫ですか?」
「はい。修学旅行のお小遣いは7000円なんです。ギリギリ足りました」
「7000円って、あと70円しか残らへんやないですか!」
「少し余分にお小遣いを隠しているんです。僕は悪い子ですから」
 皐月が微笑んでお金を渡すと、女店主も微笑み返してお釣りを渡した。ピアスの箱にリボンを結びながら店主が話しかけてきた。
「修学旅行の小学生の男の子がうちでお土産を買わはるのは初めてやわ。憧れの女性にプレゼントしたいって言うてましたなぁ。よかったらどないな人か教えてもらえますか?」
「はい。その人は芸妓なんです」
「芸妓はん! 小学生やのに芸妓はんにプレゼントするんですか?」
「はい。僕の母も芸妓をやってまして、僕の家は置屋なんです。憧れの人は僕が小さい頃から可愛がってくれてたんで、そのお礼をしたいんです」
「あら、そうなん? そら素敵な話ですなぁ。こないな綺麗な男の子にプレゼントをもろうたら、その芸妓はんはさぞかし喜ぶやろうな」
 変な褒め方をされた皐月は照れながらギフトバッグに入れられたピアスを受け取った。真理たちは店内で遠慮がちにアクセサリーを見ていた。
「買い物、終わったよ。行く?」
 真理と絵梨花は心残りがありそうだったが、千由紀に促されて店の外に出た。店主が店の外まで見送りに出てきた。
「素敵なピアス、ありがとうございました。自分でお金を稼げるようになったら、また来ます」
「えらい先の話ですなぁ。そやけど必ず来とぉくれやす。それまでお待ちしてます。お気ぃつけて」
 頭を下げた後、皐月だけは手を振って店主と別れた。先頭を歩く皐月の横に真理が追いついてきた。
「ねえ、誰にあげるの?」
「明日美。この服買ってもらったお返し」
「私にも何か買ってよ」
「金ねーよ」
 皐月が明日美を好きなことを真理は知っている。だがそれが色恋に発展していることは知らない。

 着物レンタルや抹茶スイーツの店が並ぶ坂を上ると、左手に築50年は超えていそうな昭和のレトロでお洒落なマンションがあり、右手に清水焼を売る店がある。ここが分かれ道になっていて、真っ直ぐ進めば五条坂から清水坂へと連絡する。右へ逸れると茶わん坂と呼ばれるゆるい坂道だ。「清水ちかみち」と道標石に彫られているのでありがたい。皐月たちは人通りの少ない茶わん坂を歩いた。
 茶わん坂というのは京焼、清水焼の発祥の地ということに由来している。そのため現在でも活躍されている陶芸作家たちがここを活動拠点にしている。清水焼の店がたくさん並んでいて、カフェやギャラリー、お土産物屋などもあるが、数は少ない。多くの観光客は土産物店が並ぶ五条坂や清水坂の方を選ぶので、茶わん坂は穏やかで歩きやすい。
「昭和っぽい街並みだね。民家の中にお店があるって感じで、あまり観光地っぽくない」
 皐月は土産物屋の多い豊川稲荷の参道をよく歩くので、茶わん坂の景観に少し物足りなさを感じていた。
「正面に東山が見えて、素敵ね。山の中に清水寺の朱色の三重塔を見ると、京都に来たなって嬉しくなる」
 絵梨花は感動を素直に口にした。
「良さそうなお店があるけど、まだ閉まっているところが多いね。来る時間、間違えたかな?」
「人がいない時間だからのんびりと歩けるんだよ。混んでいなくてよかったじゃん」
 残念がる真理を秀真がフォローした。
「店が開いてても、どうせ小学生には縁のないようなところばかりだから、開いていなくてもいいよ」
「藤城氏みたいに思い切って高い物でも買っちゃえばいいんじゃない? それに修学旅行は普通の旅じゃないんだから、観光旅行のつもりでいてもつまらないよ。見聞を広めることだけに全振りしよう」
 千由紀が寂しいことを言ったので、比呂志が修学旅行の意義を説いた。鉄道旅行が好きな比呂志は修学旅行のコンセプトが良くわかっている。比呂志は鉄道に乗ること以外に遊び感覚を持ち込んでいない。

 左手にある西陣織の店を超えてすぐのところに細い石段の脇道がある。その入口の所に案内板があり、そこがあさひ坂だと記されていた。あさひ坂は茶わん坂と清水坂を繋ぐ小径こみちで、食事処やショップ、アートギャラリーなどが立ち並んでいる。
「ねえ、予定変更してこっちから行ってみない?」
 真理が班長の千由紀に進路変更を提案した。清水寺は目と鼻の先なので、もう迷うことはない。
「うん。そうしよう。雰囲気があって面白そう」
 皐月たちは柵の開いたところから階段を上った。今までの坂がゆるやかで楽だった分、ここに来て一気に取り返すような急勾配だ。手摺を握りながら階段を上ると、よく手入れされた庭に四季折々を楽しめるようにいろいろな木が植えられていた。
「これって躑躅つつじかな? それとも皐月かな?」
「皐月かなって何だよ、真理」
「皐月は花のことだよ。で、どっちの花だと思う?」
「そんなの同じだろ?」
「花の大きさが違うよ」
「細かいことはいいじゃん。俺はそういうのわかんないから」
 こういうところが自分のダサいところだな、と皐月は自分のことが嫌になった。いい男になりたいなら、もっと女子が喜びそうな教養を身につけなければならない。
 あさひ坂の階段は急だが、趣がある。清水焼のさとらしく、道端の所々に狸や蛙、ふくろうの焼き物が置かれていた。どこからか磯鵯いそひよどりの鳴く声が聞こえてきた。
 朝日陶庵という清水焼を売る店の横に露台テラスがあった。寺のような欄干と藤棚があり、六角形の木の卓子テーブルが用意されていた。この急な階段を上ると、ちょうど一休みしたくなるところだ。できることならこの露台ではなく、音羽茶寮でお茶と甘味をいただきたい。
「ちょっとだけ休みたい」
 息を切らした千由紀がみんなにお願いした。景色が良さそうなので誰も反対しなかった。
「いい眺めだな……」
 人に言ったつもりはなかったが、隣にいた絵梨花が皐月に答えた。
「高いところから見る景色っていいよね。いつかゆっくりと京都をまわってみたいな」
「京都の大学に行けばいいじゃん」
「そうかもね。もしそうなったら藤城さん、遊びに来てくれる?」
「もちろん。その時は案内よろしくね」
 ここから洛中を望んでいると、東山をのぼって来たことがわかる。石灯籠をよぎり、簡素な門をくぐり抜けると音羽茶寮というレストランの玄関に出る。店はまだ開いていなかったが、修学旅行の小学生が入れる店ではない。
 先に進んだところにある漆喰の白壁が美しいギャラリーには様々な作品が展示されていた。皐月は芸妓のみちるにもいいお土産を買いたいと思っていたが、さすがに小学生の小遣いで買えるものではなかった。先を急ぐ修学旅行なので、ここに見学で立ち寄ることもできなかった。
 門を出るとあさひ坂は終わる。この小径には桜や梅、紅葉や百日紅さるすべり馬酔木あせびや水仙、紫陽花あじさい沙羅双樹さらそうじゅ山茶花さざんかなど季節によって様々な花が見られるようになっていた。京都らしい小粋な路地裏だった。
 あさひ坂の入口の門の外には清水坂を行き交う大勢の観光客が見えた。清水寺はもうすぐそこにある。いよいよアンケートの人気ナンバーワンだった清水寺に到着だ。


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