最悪を基準にするのってどうなの? (皐月物語 73)
藤城皐月は稲荷小学校の修学旅行実行委員の委員長になった。皐月はこれまで委員会の委員長のような学校を代表する大役を担った経験がなかった。だから委員長が委員会でどんなことをすればいいのかわからなかったが、担当の北川先生によって会は進められたので、とりあえず今日のところは皐月がすることは何もなかった。
各クラスの修学旅行実行委員は旅行初日の班行動の班編成表を北川先生に提出し、引き換えに『修学旅行のしおり 京都・奈良編』を渡された。教育文化振興会から刊行された栞はクラス全員分あり、手に取ると34冊の栞の束はズシっと重かった。
「『修学旅行のしおり』は修学旅行のガイドブックだ。京都・奈良の地理や歴史の資料集にもなっている。これを一日目の京都での班行動の旅行計画を立てる時の参考にしてもらいたい。君たちに手渡した『修学旅行のしおり』を明日の朝の会でクラス全員に配布しておいてくれ」
実行委員たちは自分のクラスの人数分の冊子があるのを確認し終えると、北川から冊子の中をざっと目を通すように指示された。
この冊子は修学旅行で観るべき神社仏閣がよくまとめられている。欄外にある「わんぽいんと」の欄に交通情報や拝観料などが記載されていて、班行動の計画を立てるのに役立ちそうだ。だが皐月には図書室で先に『るるぶ』を見ているので、華やかな写真やグルメ情報などが載っていない『修学旅行のしおり』は全く物足りなく感じてしまう。
「今君たちが読んでいる栞とは別に、稲荷小学校でもオリジナルの栞を毎年実行委員に作ってもらっている。栞作りは修学旅行実行委員会の重要な仕事の一つだ。栞の出来がいいと修学旅行が楽しくなるからな。今から君たちの先輩が作った栞をみんなに配るから見ておいてくれ」
北川先生が実行委員一人に一冊ずつ、稲荷小学校の児童たちの手作りの栞を配った。配られた栞はそれぞれ年度がばらばらで、最も古いのは8年前のものだった。どの年度のものも表紙には力の入った手書きのイラストが描かれていて、旅行前の栞作りに実行委員たちの修学旅行への期待が込められているのが伝わってくる。
「みんなによく見てもらいたいのは表紙に書かれているスローガンだ。各年度のスローガンを参考にして、今年のスローガンを考えてもらいたい。明日の委員会で今年のスローガンを決定したいので、スローガンを考えておいてくれ。今配った栞は家に持ち帰ってもいいぞ。君たちが作る栞作りの参考にして欲しいから、隅々までよく読んでおいてくれ。栞は1週間後の委員会で回収する。じゃあ今日はこれで解散。お疲れ」
北川先生が急ぎ足で理科室を出ていった。皐月はもう少し何かあるのかと思っていたが、思ったよりもあっさりと委員会が終わってしまったことにぼんやりとした不安を覚えた。
稲荷小学校の最終下校時刻は夏期が16時30分、冬季が16時に決められている。北川先生が理科室を出ていったのは16時なので、最終下校時間まではまだ30分ある。皐月はもうすこし委員会を進めてもいいのにと思った。
北川先生がいなくなり、実行委員の面々は配られた栞を教室に持ち帰ろうとしていた。
「ちょっと帰るの待って!」
皐月が声を挙げると、帰り支度をしていた委員たちが動きを止めて皐月の方に顔を向けた。
「さっき先生から渡されたこの栞、みんなで見せ合いっこしよう。今年の栞作りの参考になるから、自分が持っているのと違う年の栞も見ておいた方がいいと思うんだ。俺はスローガンを決める際の参考にしたい」
「え~っ、早く帰りたいんだけど……」
大人しそうだと思っていた3組の田中優史から不満が出た。
「長くは時間を取らせない。急いでいるなら2分でもいい。田中君の栞のスローガンだけでもメモさせてくれないか?」
「だりぃな~」
先生がいなくなると、真面目そうにしていた優史は態度を豹変させた。気の短い皐月に優史の言動が許せるはずがなかった。
「じゃあいいよ。もう帰れ。委員会は田中抜きでやる。みんなの栞出して」
皐月は優史を突き放すように視線を外し、自分の栞を乱暴に叩きつけたい衝動を抑え、ゆっくりと栞を教師用実験台の上に出した。努めて平静を装いながら美耶に栞を出すように促すと、美耶と花桜里も栞を出した。優史は無言で理科室を出ていった。
「ちょっと待ってよ、田中君」
「ほっとけ」
副委員長の江嶋華鈴が優史を引き止めようとしたのを皐月は制止した。
「なんで止めるの?」
「非協力的な奴にこっちからお願いすることはない」
「藤城君、委員長になったんでしょ。だったらもう少し委員会をまとめるように努力してよ」
「何言ってんだよ、江嶋。委員会をまとめることに時間を割くよりも作業を進めた方がいいだろ。やる気のない奴の相手なんかするよりも、栞を作る方が優先度が高いじゃん」
皐月は優史のことでイライラするよりも、意識を優史から仕事へと焦点を移す方が気が楽だと考えた。
「そんなこと言って、みんなが田中君みたいに自分勝手な行動を取るようになったらどうするの?」
「もしそうなったら諦めるよ。しょうがないじゃん。それよりさっさと読み比べしようぜ」
皐月たちが揉めている間、1組の黄木昭弘が一番熱心に栞を見ていた。昭弘は各年度の表紙のイラストの出来が気になるようで、栞の中は一切見ずに表紙だけを見ている。皐月は過去のスローガンをメモし終わると、昭弘に話しかけてみた。
「黄木くんって絵が得意って自己紹介で言ってたよね。写生大会とかでよく賞を取ってること、俺知ってるよ。で、もしよかったらさ、栞の表紙のイラストを描いてもらえないかな?」
皐月は昭弘に声をかけた。昭弘はインドア派なのか、男子が大好きな昼休みに行われるクラス対抗のドッジボールに参加しているのを見たことがなかった。一緒に遊んだことがあれば何か話をしたことがあったかもしれないが、皐月にはほぼ初見の昭弘との会話はこれが初めてになる。
「いいよ。実行委員に推薦された時からそのつもりだったし」
「ホント? マジ助かるよ、ありがとう」
「アイデアとか全部任せてもらってもいい? 今までで一番いい表紙にしてみせるから」
「わかった。一切口出ししないから全面的に任せる。俺に協力できることがあったら何でも言ってくれ」
優史が協調しない姿勢を見せたので他の委員も優史に追従するかと思ったが、昭弘が力になってくれそうなので皐月はひとまず安堵した。皐月は最悪一人で全ての仕事をやるしかないと思っていたので、昭弘の助けを得ることで皐月は修学旅行実行委員の委員長をやり抜く自信がついた。
残りの委員たちは思い思いに栞を読み比べていた。栞は手作りということもあって、年度によって出来栄えに差があるのが面白い。手書きのページに異様に力の入った年もあれば、全てをパソコンで作って情報量の多い年もある。栞の表紙がイラストではなく白黒写真になっているものがあるが、やっぱり表紙は手書きの絵がいいなと皐月は思った。文字部分はパソコンで書き、イラストは手書きなのが一番バランスがいい。どの年度も力の入った栞になっていて、皐月は自分たちの作る栞はもっといいものにしたいと思った。
「栞を見終わったら解散にしよう。家に持ち帰ったら、俺たちもこういう栞を作るんだって思いながら読んでおこう。じゃ、そろそろ実験台を元の位置に戻そうか」
時刻は16時15分になった。これなら一度教室に戻っても最終下校時間には余裕で間に合う。優史が委員会に残りたがらなかったのは長時間拘束されたくなかったからだろうか、あるいは委員になったことが不満だったからだろうか。今日は皐月の提案で委員会を延長してしまったが、本当は自分が委員長になったからにはできるだけ作業時間を短くしたいと考えている。
「北川先生がスローガンを考えておけって言ってたけど、俺は過去のスローガンの言葉をちょっと書き換えて応用してもいいと思うんだ。もちろんオリジナルでいいのができれば一番いいんだけどね。スローガンって投票で決めるのかな? まさか先生が選ぶとかないよな?」
「さすがにそれはないんじゃない? 各自一つずつスローガンを考えておけって先生が言ってたんだから」
児童会長の華鈴が言うのなら間違いないだろう。先生と生徒の距離感は華鈴がこの学校の児童の中で最も敏感だ。皐月は北川先生に悪い印象しか持たれていないので、つい発想が悲観的になってしまう。
最終下校の音楽が鳴り始める前に修学旅行実行委員会は終わった。ほんの10分程度早く終えられただけなのだが、皐月は自分の決めた予定に間に合わせられたことに満足した。
美耶が花桜里と一緒に帰ると言い、4組の教室で皐月と別れて3組へ消えた。皐月は優史が委員会を途中退室したことで花桜里に余計な負担がかかることが心配だったので、美耶に花桜里のフォローを頼んでおいた。戸が開け放たれた教室から二人の笑いさざめく声が聞こえてきたので、美耶のお陰で花桜里は優史のようにはならないだろう。
少し一人教室でぼ~っとした後、皐月は1階の下駄箱に下りていった。するとすでに靴に履き替えた華鈴が玄関の出入口に立っていた。皐月のことをじっと見ていた華鈴の様子が思いつめているようだったので、皐月は良くない展開を警戒した。
「藤城君、ちょっと話があるんだけど」
「何?」
「さっきの田中君への態度はないと思う。『もう帰れ』だとか『田中抜きでやる』とか、言い過ぎなんじゃないの? あんなことみんなの前で言われたら田中君のプライドが傷つくでしょ?」
「……最初から話し合うつもりなんてなかったからな。ナメられてたまるかって思ったし」
「そういう態度っ! さっきも言ったけど、委員長ならもっと少し委員会をまとめる努力したらどう?」
「別にまとめなくたっていいだろ、委員会なんて」
「いいわけないでしょっ!」
温厚な華鈴が怒るのは珍しい。皐月は5年生の時にさんざん華鈴に迷惑をかけていたが、叱られたことはあっても今日のように怒られたことはなかった。
「江嶋だって栞見ただろ。修学旅行までにやることいっぱいあるじゃん。委員会で活動できる時間は限られてるから人間関係なんかに時間を使いたくねーよ」
「でも委員会がそんな態度だったら誰も藤城君についてこなくなるよ。そうしたら実行委員の仕事だって間に合わなくなっちゃうけど、それでいいの?」
「誰もついてきてくれなかったら俺が一人でやるよ。最初からそのつもりだったし」
「またそういうこと言う……さっきも北川先生に怒られたでしょ。生意気なこと言うなって」
「生意気なんかじゃねえよ。一人ぼっちになってもやる覚悟があって言ったんだから。でも黄木君がイラスト描くの手伝ってくれるって言ってくれから、もう俺は一人じゃねーし。最悪、俺と黄木君の二人ぼっちで頑張るわ」
内心では美耶も手伝ってくれると思っていたし、陽向だってきっと手伝ってくれるだろうと当てにしていた。美耶がやれば花桜里もやるだろう。離反する可能性があるのは優史と華鈴、そして真帆の3人だけだと皐月は考えていた。
「その最悪を基準にするのってどうなの? ……先生に頼まれたから私も手伝うけどさ」
華鈴が手伝ってくれるなら同じ児童会の真帆もついてきてくれるだろう。昔からくそ真面目な華鈴だが、優しいところは変わっていなかった。
「北川に頼まれたから手伝うってのは気に入らないな。でも手伝ってくれるのは嬉しいよ。ありがとう」
「でも口の利き方に気を付けないと、みんな離れてっちゃうよ?」
「うん、わかった。気をつける」
皐月と華鈴が玄関を出ると校内に「遠き山に日は落ちて」が流れ始めた。最終下校の時間の5分前になった合図だ。校庭で遊んでいた下級生が道具を片付け始め、クラブ活動をしていた児童たちが体育館から出てくるのが見えた。
「江嶋ん家って俺と同じ方角だったよな。何町だったっけ?」
「仲町だけど……」
「俺ん家は栄町途中まで一緒に帰ろうか?」
「……別にいいけど」
稲荷小学校の児童が男子と女子の二人で下校することはまずない。そんなことをすればすぐにみんなに知られて揶揄われてしまうからだ。実際皐月は昨日の帰り際に美耶と一緒に帰るところを同じクラスの村中茂之に見られてしまった。その場では茂之は話のわかる友達みたいに振舞っていたが、今日になると早速二人で帰ったことをみんなに言いふらされていた。華鈴が返事に躊躇したのはこういうことになるのを警戒したからなのだろう。噂話が好きなのは、どこのクラスもみな同じだ。
「栄町なんて近くていいね。仲町ってちょっと遠いから嫌」
「じゃあ家まで付き合うよ。喋りながら歩いていればいつの間にか家に着いちゃうから」
「いいよ、そんなことしてくれなくても。それに家までついてこられたら、住んでるとこバレちゃうじゃない」
「なんだ、そんなに嫌がらなくてもいいだろ?」
「家が古くてボロいから恥ずかしいのっ」
「俺ん家も築何十年かわからんくらい古いぞ」
皐月は華鈴と二人で下校するのはこれが初めてだ。華鈴とは席が隣同士になったのがきっかけで仲良くなったが、学校以外の華鈴のことを皐月は全く知らない。華鈴は優等生だが、同じクラスの優等生の二橋絵梨花とはタイプが全然違う。絵梨花は天然の優等生だが、華鈴は必死で優等生になろうとしている。
皐月は昼休みに図書室で久しぶりに華鈴と話をし、すっかり懐かしくなっていた。そしてもっと二人で話をしたいと思った。委員会では華鈴に叱られてばかりだったのでうんざりされたかと思ったが、よく考えると皐月は昔から華鈴には叱られてばかりいたので、これは通常運転だ。とりあえず華鈴と一緒に下校できそうなので、もう少し二人で話ができそうだ。