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男子小学生の特性 (皐月物語 32)

「手遅れだったってどういうこと?」
「逃げ遅れた……」
 ある日の授業の合間の休憩時間のことだった。入屋千智いりやちさとが御手洗いから出ようとしたところ、同じクラスの女子たちに出くわした。そのグループは日頃から千智にあからさまな敵意のこもった視線を送っていた女子たちだ。この日の千智は彼女らの反感をかわすため、月花直紀げっかなおきたち男子に話し掛けられる前にトイレに逃げていたのだ。
 千智は彼女たちに御手洗いの中に押し戻されて取り囲まれ、教室で男子とばかり話していることについて詰め寄られた。事情を説明してもまともに聞いてもらえず、千智が何かを話そうとすると喧嘩腰に言葉をかぶせて罵倒してくる。彼女たちはだんだんヒートアップし、詰問が一方的な罵詈雑言に変わってきた。
 鈴木彩羽すずきあやはという背の高い女子が感極まり、大きな目に涙を浮かべながら暴力的な威嚇をし始めた。だらしなく口元を歪めながら拳を振り上げた瞬間、このグループの中にいなかった一人の少女が千智を殴ろうとした女の腕を掴んだ。
 彩羽が振り向き、千智と他の少女たち全員が彩羽の視線の方を見ると、怜悧な顔をした少女が冷ややかな目をして立っていた。威厳を感じさせるたたずまいに、あれだけ熱くなっていた女子たちが気圧されたようで、すっかり沈黙してしまった。腕をつかまれた彩羽は怯えているようにさえ見えた。
 その少女の名は月映冴子つくばえさえこ。千智がクラスの中で最初に名前を覚えた女の子だった。教室の中で一人だけまとう空気が違っていたので印象的だった。
「もうそのくらいでいいでしょ」
 冴子が言葉を発し、掴んでいた彩羽の腕を離して御手洗いから出ると、彩羽たちも慌てて後を追ってついて行った。

 突然の出来事で呆然としていた千智はしばらくその場を動けなかった。気が付くとすでに授業の始まるチャイムは鳴り終わっていた。千智は授業が行われている教室に遅れて戻ることになった。
 先生に遅刻の理由と問われると、気が動転していたせいで頭が回らなかったのか、うっかりトイレにいたと本当のことを話してしまった。すると、クラスの女子の誰かが「うんこ?」と聞えよがしに言い、教室が大爆笑に包まれた。今まで千智に好意を示していた男子や、始めて千智に声をかけてくれた直紀までも笑っていた。この瞬間、千智はこのクラスでの楽しい学校生活を諦めた。
「……辛かったな」
「……うん」
「直紀の奴、何てことしやがったんだ」
「月花君に笑われたのはショックだったよ。私が避けるようになったのが悪かったのかな……」
「千智が悪いわけないじゃん。全面的に直紀が悪いよ。直紀の幼馴染として、直紀の先輩として代わりに俺が謝るよ。ごめんっ!」
「いいよ、先輩が謝らなくたって。それに月花君のことなんかもうどうでもいいから」
 本当にどうでもいいのか、千智の顔が妙に清々しい。なんか呼ばわりされる直紀が可哀想になってきた。
「直紀を弁護するつもりじゃないんだけど、千智に男子の特性を知っておいてもらいたいんだ」
「男子の特性?」
「そう。男子の、特に子供の特性だ。これはもしかしたら自己弁護になっちゃうかもしれないから、俺まで千智に嫌われちゃうかもしれないけど、聞いてくれるか?」
「う~ん、先輩のこと嫌いになっちゃうなんて言われるとあまり聞きたくないな……。でも、聞いておいた方がいいんだったら聞くよ」
「ありがとう。じゃあ話すね」
「うん」
 皐月と千智の間に緊張が走る。
「男子ってね」
「男子って?」
「男子って……『うんこ』って言葉を聞くと反射的に笑っちゃうんだ」
「はぁっ?」
「俺も含めて男子ってバカだからさ、シリアスな場面で『うんこ』なんて言われるとつい笑っちゃうんだよね」
「そんな……私、そんなくだらないことで傷ついていたの?」
「たぶん……。直紀たちも千智のことを馬鹿にして笑っていたわけじゃないと思うんだ。直紀はバカだから『うんこ』に秒で反応しちゃっただけだって俺は信じたいな」
 千智は黙りこくっていた。皐月はその場に自分がいたら笑わずにいられるか自信がなかった。そこを千智に見透かされると嫌われてしまうかもしれない。でもこれ以上言葉を重ねると本当に自己弁護になりかねない。
「ん~。そう言われてもなんか納得できないんだけど……。でもそんなのって女子にはない発想だし、先輩がそんなに一所懸命になって月花君のこと庇おうとするんだったら少しは信じてみようかな」
「ありがとう。これで直紀も成仏できるよ」
「いや、まだ生きてるよ」
 皐月の滑り気味の冗談で千智が少し落ち着いたようだ。このエピソードを聞いた皐月は、千智が本当にいい子だということが改めてわかった。
「ただ問題なのは『うんこ』って言った女だ。その一言が計算されたもので、男子を巻き込むために意図的に発せられた言葉だったら、そいつ相当頭が切れるね。誰が言ったかわかってた? もしかしてさっき話した冴子って子じゃなかった?」
「いや、月映さんじゃないのは確か。だって声が全然違っていたから。それに月映さんからは私に対する敵意を感じたことはない。たぶんだけど、彼女は私の味方の側だと思う。月映さんとは仲がいいって程じゃないんだけど、普通に話せるから」
「そっか……。じゃあ彩羽って子?」
「たぶん違うと思う。あの子そんなに悪賢くないから、取り巻きの誰かかな? でも今となっては誰が言ったとかどうでもよくなっちゃった。もうだいぶ時間がたったし、あれから絡んでこなくなったから」
「じゃあ彩羽って子たちの行為やうんこって言った子のことはもうゆるしたの?」
「まさか……赦すわけないじゃない。鈴木さんたちは謝って来なかったし、誰がうんこって言ったのかはわからないし。でも先輩の話を聞いたから私を笑った男子たちのことはもう赦してもいいかなって思い始めたよ」
「千智は心が広い!」
「それより先輩もうんこって言われたら笑っちゃう側の人?」
「状況によってはかなり高確率で笑っちゃうかも」
「じゃあ好きな子がうんこ呼ばわりされたらどう?」
「そんなの怒るに決まってるじゃん」
「じゃあ先輩が月花君の代わりに私のクラスにいたら、あのとき笑った?」
「そんなの笑うわけないじゃん! 絶対に言った奴のこと怒るよっ」
 本当はその場にいたら自分もバカだから笑っていたかもしれないな、と皐月は思っていた。でもここでそんなことは口が裂けても言えない。千智が皐月にとって特別な存在になった今だからこそ、絶対に怒るって言える話だ。
「ありがとう。私も先輩がうんこって言われたらきっと怒るよ」
「千智はうんこじゃ笑わない側の子なんだね」
「ところでうんこの何がそんなに面白いの? 私には全然わからない」


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