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なんで誰もいないんだよ…… (皐月物語 68)

 筒井美耶つついみやを家まで送って別れた後、藤城皐月ふじしろさつきは学校指定の通学路を戻らずに豊川稲荷の中を抜けて帰ることにした。普通の道を歩いたって何も面白くない。皐月はまだ美耶との余韻に浸っていたかった。
 奥の院への参道は樹々が光を遮り、夕闇に沈みかかっていた。薄暮の中に千本幟せんぼんのぼりが明るく浮かび上がっている。逢魔時おうまがとき境内けいだいを恐れる皐月にはのぼりの生地の白さが救いになっていた。
 皐月にとって美耶と長い時間まともに話をしたのは今日が初めてだった。教室では席が隣同士だったため、放課だけでなく授業中もよく喋っていた。しかし二人でこんなにまとまった時間一緒にいて、多くのことを語り合ったことはなかった。今日の美耶には友達にも話したことのない内面的なことを話せた。そう考えると学校での友達付き合いなんて表面的なものなのかもしれないな、と皐月は学校での人間関係の虚しさを知った。
 子供の頃からさんざん遊んできた豊川稲荷だが、改めて境内を見回してみると自分の知識のなさを思い知った。夏休みの自由研究の時に荼枳尼天だきにてんのことを勉強したが、その程度の知識では付け焼刃にすらなっていない。美耶は生活の中で自然に宗教的な知識を身に付けていた。神谷秀真かみやしゅうまの影響でオカルトの知識に目覚め始めた皐月には美耶の見識が眩しかった。
 だが、皐月は不思議とこれ以上の知的好奇心が刺激されることがなかった。豊川稲荷に対する興味のなさが我ながら不思議に思えた。それは豊川稲荷が自分にとってあまりにも身近な存在だったからなのか、それとも神話と宗教に対する興味の度合いが違うのか。皐月はこれ以上積極的に豊川稲荷について勉強してみようとは思わなかった。
 曇天に薄暗い境内は一人で歩くには寂しかった。平日の夕方だから参拝客などいるはずもない。一人ぽつんと樹々に囲まれていると、自分が今ここにいること自体がどうかしているような気がしてきた。ランドセルを背負った男子小学生が一人、奥の院に向かう参道を歩いている……俯瞰してみてみると明らかにおかしな少年だ。
 霊狐塚れいこづかの入口の前まで来た。鳥居の前に立つと、この仄暗ほのぐらい参道をさらに奥まで歩き、一千体を超える狐と対面したい気持ちにはなれなかった。前は入屋千智いりやちさとと二人だったから霊狐塚の狐たちに見つめられても耐えることができたが、一人ではそんな真似はできそうにない。
 千智のことを思い出すと、千智の手を取ってここまで走ってきた時の高揚感が甦ってきた。皐月にとってフォークダンス以外で女子と手をつないだのはあの時が初めてだった。思えば千智の手を取った瞬間こそが女の子を女性と意識した最初だったのかもしれない。皐月は甘い思い出に引っ張られ、意志に反して恐々と鳥居の奥へと吸い込まれるように入っていった。

 霊狐塚は思ったほど怖くなかった。圧倒的な数の狐に見つめられているが、その視線が皐月には優しく感じられた。狐にかけられた赤い前掛けが木陰の暗がりに浮かんで見えた。
 千智と二人でこの場にいたことを思い出すと涙が滲んできた。ついさっきまで美耶と一緒にいたくせに、今はもう千智に会いたくなっている。暗い霊狐塚に一歩足を踏み入れてみると、千智に会いたいといった気持ち以上に、誰かに触れて、人肌のぬくもりを感じてみたくなった。そう思った瞬間、栗林真理くりばやしまりのことが皐月の頭をよぎった。
 今この世界には皐月の他には一千体を超える狐の石像しかいない。いくら千智や真理のことを考えても、ここには自分一人しかいない。さっきまで美耶と一緒にいたけれど、今は一人ぼっちだ。黄昏の霊狐塚を焦るように見回していると、寂しさがさらに募ってきた。
 いてもたってもいられなくなって、皐月は駆け出した。千本幟が視界の端を流れてゆく。背中のランドセルが暴れている。今日はいつもよりも教科書がたくさん入っているので、重いランドセルの肩ひもが両肩に食い込んで痛い。
 霊狐塚を出て左へ曲がり、奥の院を超えて千本幟受付所の前を駆け抜ける。ここなら誰か人がいるかと思ったが、もう受付窓口は閉まっていた。景雲門けいうんもんを走り抜け、三重塔を右手に見た後も走り続けて通天廊つうてんろうをくぐり抜けた。
 右手の妙厳寺みょうごんじ庭園の上方向こうに大本殿が見える。皐月は池にかかった橋で立ち止まって池を覗き込み、放生ほうじょうされている錦鯉を見た。自分以外の生き物を見て皐月は少しほっとした。
 すでに閉まっている御朱印納経所ごしゅいんのうきょうしょまで戻ると、空が開けて少し明るくなった。大本殿への参道の鳥居はくぐらずに瑞祥殿ずいしょうでんの前を右に折れて山門の手前の漱水舎そうすいしゃまで来た。さっき美耶と急接近した時の肩のぬくもりがたなごころに甦ってくる。この辺りで千智や及川祐希おいかわゆうき、そして月花博紀げっかひろきたちと一緒に写真を撮ってはしゃいでいたことが今では懐かしく感じられた。
 この一カ月で楽しかった思い出がたくさんできた豊川稲荷だが、今はこんなに広い境内に自分一人しかいない。
(なんで誰もいないんだよ……)
 大きな声で叫びたかったが、周りに人がいなくてもさすがにそんなことはできない。ここにいてもただただ寂しくなるだけなので、もう家に帰ることにした。少なくとも今日は家に帰れば祐希に会える。
 祐希は皐月の家に住み込み始めてから一月ひとつきくらいしか経っていない。祐希と皐月はまだ家族のように親しくはなっていない。それは祐希が高校生という6歳も年が離れたお姉さんなので、二人ともお互いに同級生の友達のように接することができないからだ。
 そんな祐希がいきなり自分の部屋と襖一枚を隔てた隣の部屋に毎日いる。見た目もかわいい祐希のことを、皐月はやはり異性として意識せざるを得なくなっている。

 早々に店じまいを始めている門前通りを右に曲がると、活気のある八百屋が客をさばいていた。その先を左に曲がって細い路地を進むと皐月の家がある。玄関には小百合寮と書かれた行燈あんどん看板に明かりがともっていた。やっと家に着いた。
 鍵の空いている玄関を開けると三和土たたきに祐希の靴があった。もう家に帰っているようなので、皐月は玄関に鍵をかけた。楽器置場の部屋を抜けて居間に入ると、隣の台所からいい匂いが漂ってきた。台所の中を覗いてみると頼子と一緒に祐希も夕飯の準備をしていた。
「ただいま」
「おかえり。今日は遅かったね」
 皐月はいつも帰りが早いので、及川頼子おいかわよりこは帰りの遅かった皐月のことを心配していたようだ。
「用事があってさ、下校時間まで学校にいたんだ。で、その後友達と遊んでた。俺、修学旅行の実行委員になったんだよ」
「修学旅行か……いいわね。私も行きたいわ」
「皐月たちはどこに行くの?」
 食器の用意をしていた祐希が話に加わった。
「京都・奈良。祐希はもう修学旅行行ったの?」
「私の高校はね、春に修学旅行に行くんだよ。高3になると秋はいろいろと忙しいからね」
「祐希たちはどこに行ったの?」
「広島と神戸と大阪を3日かけてまわったよ」
「俺たちの修学旅行は歴史の勉強をしに行くって感じなんだけど、高校の修学旅行って勉強って感じ? それとも観光?」
「初日の広島は原爆関連のところを見たから勉強っぽかったけど、世界遺産の厳島いつくしま神社は綺麗で良かったよ。2日目の神戸は班行動で観光って感じで、割と自由だった。3日目の大阪はユニバで遊んですっごく楽しかったよ」
「へぇ~いいな。おれたちは初日の京都は班行動で、2日目の奈良は学校全体で東大寺と法隆寺に行くんだ」
「京都・奈良か……懐かしいな。私たちも小学生の時は京都・奈良だったよ。私、歴史にあまり興味がなかったけど、それでも教科書に出てくる実物のお寺とか大仏とか見た時は感動したな……」
「私たちも京都・奈良だったのよ」
「えっ? 頼子さんも? 昔から行き先って変わらないんだね」
「そうみたいね。愛知県の東三河は京都・奈良って決まってるのかな。私たちの時代は班行動みたいなことはさせてもらえなかったけど、それでも楽しかったな。皐月ちゃんもきっと楽しいと思うよ」
 祐希がご飯をよそい始め、頼子がフライパンの回鍋肉ホイコーローをお皿に盛りつけ始めた。皐月は2階の自分の部屋にランドセルを置いて、台所に戻ってきて配膳を手伝った。今日の夕食に母の小百合さゆりはいない。最近は芸妓げいこの仕事が忙しく。お座敷に出ることが多くなった。
 頼子と祐希と三人で食べる夕飯はよその家で食べているような気分になり、皐月はまだこの生活に慣れていない。二人が住み込み始めて最初の頃は食事中に動画を流していたが、最近はお喋りをしながらご飯を食べるようになった。
「実行委員になったからさ、修学旅行のこといろいろ決めたり仕切ったりしなきゃならないんだ。今日は学校でそういう話をしてた。まだどんなことをするのかわからないけど、なんか忙しくなりそう。これからしばらくは帰りが遅くなる日が増えるかもしれない」
「ただ旅行に行くよりも、そうやって行事に深くかかわった方が楽しいんじゃないの? 私たちの高校の実行委員の子たち、みんな楽しそうだったよ。私は面倒でやりたくないなって思ってたけど、実行委員の子たちを見て後悔しちゃった。大学受験をするわけじゃないんだから、実行委員くらいやっておけばよかったって思った」
「そうか……今日はいきなり居残りだったから先が思いやられるなって思ってたけど、楽しいんだね。なんかいろいろ気が軽くなった。結構プレッシャー感じてたんだ」
「そんな風に思わなくたっていいよ。何でもいいから修学旅行が楽しくなることだけを考えていればいいんだから。それに自分も楽しまなきゃ損だよ」
「……そうだね」
 祐希の話が聞けたことは皐月には有難かった。祐希は3回も修学旅行を体験している。これからもいろいろ話を聞いてみようと思った。
「私が高校生のときはね、小百合と同じ班だったのよ」
「ホント? その話は聞いたことがないなぁ」
「皐月ちゃんがもうすぐ修学旅行に行くから、最近小百合と昔の思い出話をしたところなのよ」
「小百合さん、男子にモテてたって言ってたよね」
「そうなの。小百合は可愛かったから、男子に一緒に写真を撮ろうってよく誘われてたわ。あの子はあまり嫌な顔をしないで、ホイホイみんなに付き合ってあげてたのよ」
「ママって当時付き合っていた人とかいなかったの?」
「高3の時にはもう芸妓になるって決めてたから、彼氏なんか作ろうと思わなかったみたいよ。恋人がいたら仕事に支障が出るって言ってたわ」
「へぇ……ママってそんなこと考えてたんだ。もっといろいろママの若い頃の話を聞きたいな」
「あまりベラベラ喋ると小百合に叱られちゃいそうだから、ちょっとずつ話してあげるね」
 頼子が楽しそうにしているのを見て皐月は幸せな気持ちになった。頼子がこんなに幸せそうにしているのなら、母もきっと同じ気持ちに違いない。友達同士で一緒に暮らすという生活形態を皐月は想像したこともなかったが、こういうのもいいものだなと皐月は認識を新たにした。


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