今がピークなんじゃないかと思えるほど楽しい (皐月物語 69)
6年4組の朝の会はその日の日直の男女が一人ずつ登壇して始まる。日直はマニュアルに沿って朝の会を進行する。マニュアルは職員室前の集配ボックスから持ってきた学級日誌の表紙の裏面に貼付されているので、それを参照すれば誰でも会を進行できるようになっている。
「これより朝の会を始めます。おはようございます」
「おはようございます!」
「では健康観察をします。浅見寿々歌さん」
「5!」
「岩原比呂志君」
「4」
このクラスでは朝の健康観察の時、一人ひとりに声をかけて自分の体調を5段階の自己評価で答えることになっている。時間短縮のために数字だけを言うのがルールで、語尾に「です」などの丁寧な言葉をつける必要がない。自己評価が「2」以下の児童には保健委員が声をかけ、具体的にどんな風に調子が悪いのかを聞く。二人の日直のうちの一人が一人ひとりの自己評価を学級日誌に書き込む。この評価シートが生徒の変化を読み取るのに役に立っていて、先生は気になる児童に声をかけるようにしている。
健康観察を丁寧に行うのに時間を多く使うため、前島先生のクラスでは今までのクラスで行っていた「学級目標」の唱和や「今日の目当て」の発表が省略されている。「今日の目当て」を考えなくてもいいことは日直にとっては福音で、この方針のお陰で6年4組では日直を嫌がる児童が少ない。
この後、学級委員から今日の予定が発表される。次に委員会や係からの連絡事項があればクラス全員で確認する。今日からは修学旅行の前日までは修学旅行実行委員からの連絡事項が多くなる。
修学旅行実行委員の藤城皐月は自分の席を立った。わざわざ日直の横に登壇はしない。
「修学旅行実行委員から二点連絡事項があります。まず一つ目ですが、昨日決めた班の班長を今日中に決めておいてください。班長が決まったら実行委員の筒井まで報告をお願いします」
筒井美耶が席を立ち、再度クラスに呼びかけた。顔に緊張の色が浮かんでいた。
「今日の放課後に修学旅行の実行委員会に班長の報告をしなければならないので、帰りの会までに報告をお願いします」
美耶がホッとした顔で席に着いた。放課はいつもうるさいくらい声が大きいのに、この時は声が小さく震え気味だった。残りの連絡事項は皐月が伝えることになっている。人前で話すのは皐月が引き受けることを二人の間で決めていた。
「もう一つの連絡事項があります。修学旅行の初日の京都での班行動の行き先を、ざっくりとでいいので考えておいてください。学校側からモデルコースを用意してくれるそうですが、一応、行きたい場所があればどこに行ってもいいことになっています。明日の総合の時間に班ごとの訪問先を決める予定になっているので、その時の話し合いがスムーズになるよう準備をしてもらえると助かります。よろしくお願いします」
話題が今一番ホットな修学旅行ということで教室内が少しざわついた。どこに行ってもいいということが児童たちの期待を膨らませている。
「質問!」
学級委員の月花博紀が手を挙げた。
「はい、どうぞ」
「班長ってどんなことをするんですか?」
「どんなことって……どんなことだっけ?」
皐月は昨日先生からもらった実行委員のマニュアルを見直した。そこには班長の役割について書かれていなかったが、メモで「班長・スマホ」と書かれたのを見て昨日の放課後に前島先生から聞いた話を思い出した。
「班長の仕事は……各班にスマホが支給されるので、そのスマホを使って先生と連絡を取ることです。訪問先に着いた時と訪問先を出る時にメッセージを送ったり、何かあった時に連絡を入れたりすることが主な役割になります」
教室のあちこちで「スマホ使えるのかよ」とざわめいた。学校はスマホ持ち込み禁止なのでみんな驚いているようだ。
「そのスマホって SNS は使えるの?」
4組でインスタのフォロワーが最も多い新倉美優から質問が出た。美優は松井晴香の仲良しグループの一人で、性格が晴香よりも穏やかなので女子の間だけでなく男子からも人気がある。
「ごめん、よくよくわかんない。今日の実行委員会で教えてもらえると思うんだけど、先生何か知ってますか?」
連絡事項を伝達するだけでいいと思っていた皐月はたまらず前島先生に助けを求めた。
「SNS は使えません。学校から支給されるスマホには厳しい機能制限がかけられています。あなたたちが普段使用しているスマホとは別物だと思ってください」
教室中からため息が出た。美優はあからさまに失望した素振りを見せた。
「はい、実行委員の藤城さんと筒井さん、ありがとうございました。日直の二人も御苦労さまでした。席に戻って下さい」
朝の会の最後に先生からの一言がある。日直が席に戻ると前島先生がいつも通りに話し始めた。
「スマホの件で少しお話をしたいと思います。あなたちがそんなにガッカリするほどのこともないと思いますよ。SNS は使えないけれど、写真は撮り放題なのでみんなが楽しんでいる写真をたくさん撮ってくださいね。あとマップも使えるから京都で迷子になることはないと思います。普通にネットで検索もできます。わからないことや興味を持ったことは積極的に調べてくださいね。とても勉強になると思いますよ」
児童たちの表情に生気が戻ってきた。写真が撮り放題ということが子どもたちの心に刺さっているようだ。「写真100枚撮るぞ~」という声も上がっていた。
「スマホの使用に制限はありますが、できることもたくさんあります。昔の修学旅行を思えば今は随分自由になりました。私が小学生の時は班行動もなかったし、好きに写真を撮ることもできなかったんですよ。あなたたちの修学旅行はきっと楽しいものになると思います。あと修学旅行の詳細については実行委員会が作る栞を配布しますから、栞ができるまでちょっと待っていてくださいね。はい、これで朝の会は終わります。では今から読書タイムです」
児童たちは机の中から本を取り出して静かに読み始めた。最近の皐月は芥川龍之介の『歯車』を読んでいる。今日は修学旅行のことで頭がいっぱいになり、本の内容になかなか集中できなかった。
給食の時間になっても皐月たちの3班はまだ修学旅行の班長を決めていなかった。すでに班長を決めた班もあり、美耶のところに何人か報告に来ていた。皐月は昼休みになる前に班長を決めたいと考えていた。昼休みはみんなと外で遊びたいからだ。
今日の献立はメインディッシュが鯵の唐揚げで、副菜がほうれん草ともやしの胡麻和え。汁物は茄子と冬瓜の味噌汁で、デザートに巨峰が2粒ついている。主食は麦ごはんで牛乳もついてくる。味噌汁に入っている茄子を嫌う児童が多く、茄子を入れないでほしいという子がたくさんいたので茄子が多く余っていた。皐月は冬瓜の方が苦手だったので、茄子を多く入れてもらった。
「ねえ、誰か修学旅行の班長やりたい子いる?」
給食を食べ始める前に皐月が班のみんなに聞いてみた。やりたいと即答する子は誰もいなかった。
「俺、実行委員の仕事があるから班長できないんだよな。でも誰もやらないんだったら俺がやってもいいんだけど……。たぶん班長の仕事ってそんなにないと思うし」
「実行委員と兼任だと大変だよね。藤城さんにそこまで負担をかけたくないから、私やろうか?」
学級委員の二橋絵梨花が消極的ながらも立候補した。絵梨花は学級委員を決める時も女子が誰も立候補しなかったので自分でよければと立候補した。
「学級委員の仕事は大丈夫?」
「ん~よくわからないけど、実行委員が頑張ってくれるんだったら学級委員の出番はないかもしれないね」
「そうだな……前島先生は俺たち実行委員が修学旅行を仕切れって言ってたから、たぶん修学旅行で学級委員は特にやることはないと思うよ」
こうなることを予想して、皐月は先生にあらかじめ学級委員が班長をやってもいいか確認を取っていた。皐月は最初から絵梨花が班長に立候補してくれることを当てにしていた。絵梨花は有能だから少しくらい負担が増えても涼しい顔をしてこなしてくれるだろうと考えていた。
鯵の唐揚げを前にした皐月は食欲を我慢できなくなっていた。取りあえず食べようと言い、みんなで給食を食べ始めた。しばらく無言で食べていると、吉口千由紀が意を決したように言葉を発した。
「私、班長やってみたいんだけど……いいかな?」
普段の千由紀は積極的に人と関わろうとする子ではないので、みんな驚いていた。皐月も千由紀が班長をやりたがるとは思っていなかった。
「吉口さん、班長やってみたいんだ。まだ二橋さんで決定ってわけじゃないから、吉口さんに班長引き受けてもらえるんだったら、やってもらってもいいかな?」
絵梨花に甘えて班長の決定を曖昧にしたまま給食を食べ始めたことを皐月は恥ずかしく思った。だが皐月の優柔不断が結果として千由紀の積極性を引き出せたことになった。皐月は千由紀の気持ちを尊重したいと思い、やや強引気味に絵梨花に班長を代わってもらえるよう頼んだ。
「私もやりたい人にやってもらうのが一番いいと思うよ。私も班長やってみたいって気持ちはあるんだけど、学級委員の仕事があるかもしれないし、班長は吉口さんにお願いしたいな」
「二橋さん、ありがとう。じゃあ吉口さん、班長お願いっ!」
「謹んでお引き受けいたします」
「なんで恭しい言い方してんだよ。でも助かった。誰もなり手がいなかったら俺、岩原氏に頼もうって思ってたんだ」
「ゴホッ……どうして私が?」
牛乳を飲んでいた比呂志がむせながら答えた。
「だって岩原氏、鉄道に強いから移動ルートとか完璧に組んでくれそうじゃん」
「鉄道なら得意だけど、バスは守備範囲じゃないのであまり自信はないよ」
「大丈夫だよ、岩原氏なら。時刻表を見ることは鉄道と変わらないじゃん。班長じゃなくても、移動のプランは岩原氏に頼っちゃうからな。俺、バスもちょっと興味あるから一緒に調べようぜ」
「了解。バスの路線図を頭に入れておかないといけないね」
「路線図か……萌えるな!」
「オタクが二人もいると助かるわ」
栗林真理が巨峰の皮をむきながらシニカルに言い放った。皐月は慣れているけれど比呂志は少しビビっていた。真理が皐月をオタク呼ばわりする時はいつも敬意があることを皐月はわかっている。
「行き先も決まっていないのに何二人で盛り上がってんだよ。京都なんて行きたいところがたくさんあるんだからさ、絞り込むのが大変だぞ。ちょっと考えただけでも10カ所くらいすぐに頭に浮かんできたわ」
オカルト好きの神谷秀真が憤慨気味に話題を変えた。確かにその通りで、班行動の時間はそんなに長くはない。仮に3班の6人が一か所ずつ行きたいところを主張しても全てを回り切れるかどうかわからない。
「そうだよな……給食食べ終わったら京都どこ回るか少し考えた方がいいかもな。みんな昼休みって何か予定ある?」
「私はいつも通り勉強するつもりだけど、男子は外で遊ぶんでしょ? 皐月なんか一番遊びたいくせに」
「そりゃ遊びたいけどさ……」
皐月はちょっとした時間にも受験勉強を頑張っている真理を邪魔したくなかった。きっと絵梨花も真理のように勉強をするだろう。千由紀はいつも通り読書をするに違いない。
「今日みんなどうすんだろうな? なあ皐月、訪問先決めるのなんて総合の時間でやればいいんじゃないのか? バーッってアイデア出して、ガーッって決めちゃえばいいじゃん」
「僕が行きたいのは京都鉄道博物館だけど、さすがにこれは個人的な趣味だから、修学旅行でみんなを連れて行くわけにはいかないよね。まあ藤城氏なら行きたいって言ってくれると思うけど、今回は遠慮した方がいいかな」
秀真は行きたいところがあり過ぎるだろうし、比呂志は何もかもが明快で自己完結している。
「敢えて話し合わなくても各自がどこに行きたいか妄想しておけば十分だと思う。それに総合は明日だから、それまでは家でゆっくり考えたっていいんだし。だから藤城君たち、今日は外で遊んでくればいいんじゃない?」
千由紀らしい考え方で、やっぱり千由紀っていいなと皐月は思った。皐月は実行委員だからということで少し気張っていたけれど、千由紀が班長らしく仕切ってくれて助かった。
「じゃあ私は図書館で京都のガイドブックでも見てこようかな。歴史の勉強にもなるし」
「あっ、私も行く。絵梨花は相変わらず抜け目がないね」
「ちょっとテンションが上がっちゃって。でも受験勉強とあまり関係ないんだけどね」
「いいのよ。周辺知識が記憶を強固にするんだから」
ずっと一人で勉強していた真理が絵梨花と楽しそうにしているのを見て皐月は嬉しかった。1学期の真理は誰も寄せ付けないような空気を纏っていた。
「二橋さんや真理が考えてることなんて他のクラスの奴ら同じことを考えているに決まってる。早く食べないと先を越されちゃうぞ。俺、もう食べ終わるから先に図書館行って本を何冊かキープしといてやるよ」
「ホント? ありがとう。こういう時、皐月は頼りになるね~」
「借りる本は一冊だけにしないと、他に調べたい人に迷惑がかかるよ」
真理には褒められ、絵梨花には叱られた。皐月は叱られたことで絵梨花との距離が縮まったと思った。
「藤城君、みんなと外で遊ばないの?」
「そうだな……遊ぶのもいいけど、図書室もいいかなって思って。家でネットで調べるよりも、図書室でみんなと調べ物をするのも楽しそうだし。それに吉口さんが読んでいる『雪国』が置いてあるかどうか確かめてみたい。もしあったら『雪国』借りようかな」
皐月は最後に残った巨峰の皮をむいて、二つまとめて口に放り込んだ。皮をむいた時に手に付いた果汁を服で拭くと「汚い」と真理に怒られた。絵梨花が机の中からポシェットを取り出して、ウェットティッシュを1枚分けてくれた。
「二橋さん、なんでウェッティー持ってんの?」
「トイレタリーはいつも持つようにしてるの。なくて困ることもあるし」
「私そんなの持ってないよ」
「私も……」
「お前ら女子力低いな! じゃあ俺、先に図書室に行ってくるわ。ゆっくりメシ食ってていいぞ」
皐月が席を立つと隣に座っている真理から左の横っ腹に軽くストレートを入れられた。その後、服を指でつまんで擦り合わせ、果汁でべたついた指を拭いている。真理のがさつで抜けているところが愛おしかった。
皐月はこの班で修学旅行に行けることが本当に嬉しかった。小学校生活で今がピークなんじゃないかと思えるほど楽しい。趣味の合う友達、可愛くて賢い女の子たち……これ以上の幸せな組み合わせはない。
他のクラスの教室の中を見ると、まだみんな給食を食べている。皐月は自分の行動が正しかったと確信した。誰にも図書室に先着されないように皐月は歩く足を速めた。
最後まで読んでくれてありがとう。この記事を気に入ってもらえたら嬉しい。