二人の秘密(皐月物語 124)
満の運転するホンダ・ビートは大津通を進み、大須商店街の万松寺駐車場ビルに入ろうとしていた。駐車の順番待ちで MegaKebab の前で停まっていると、歩道を歩く人々が時折こちらを見てきた。だが藤城皐月には見世物になっているという感覚はなかった。目立ってもおかしくない自分たちに好奇の目を向けてこない無関心さが皐月には心地よかった。これが都会なのかと、皐月はすっかりこの街を気に入った。
時間は11時を少し回っていた。満は滑らかにビートを操り、立体駐車場のスロープをぐるぐると回りながら上った。8階まで上ると駐車場はガラガラだった。満は一番端の車室に一発で車を入れた。満のドライビング・テクニックは明日美とは雲泥の差だ。
「名古屋って都会だね」
「そうだね。でも大須は商店街だから、大都会って感じじゃないけどね」
「豊川や豊橋に比べたら人が多くて、やっぱり大都会だよ」
皐月は名古屋の繁華街に来るのは初めてだった。名古屋駅のビルや地下街には行ったことがあったが、大須は皐月の知っている名古屋とは全然雰囲気が違っていた。
「これからどこに行くの?」
「そうだね……。大須商店街って古着屋がたくさんあるから、まずは皐月の服を探しに行こうか。全部の店は回り切れないと思うけど、いろんな店に入ってみよう」
「俺、こんな格好で来ちゃったけど大丈夫かな?」
皐月は母の小百合が買ってきたシンプルなカーディガンを地味だと感じていて、このままアパレルショップに行くのを恥ずかしいと思っていた。
「そんなことないって。カッコいいし、似合ってるよ。気にし過ぎ! それに大須はお洒落な人も普段着の人もいろいろいるし。外国人もいっぱいいるし、奇抜なファッションの人や変な服着た人もいるから、すごく気楽な街だよ。私がこんな格好していても、全然目立たないんだから」
満はシートに膝立ちをして畳まれた幌を持ち上げた。伸ばした幌をフロントガラスの上にあるロックフックにかけると簡単に幌が閉まった。リアウィンドーは透明のビニールになっていて、幌を上げた後にファスナーを閉めて張る構造になっていた。
「屋根って簡単に閉まるんだね」
「簡単に開閉できるようにサンバイザーを取ったし、ソフトトップカバーをしないようにしてるよ。あと、幌を止めるホックは壊れたままにしてる。割と適当。ハハハハ」
エレベーターで地上階まで下りると新天地通商店街に出た。そこは全天候型アーケードで、物凄い数の人が行き交っていた。満の言う通り、年齢から国籍まで色々なタイプの人たちがいた。しかもお祭りかというくらい大勢の人がいたので、満のピンクの髪なんて全然目立たない。
「さて……これからどこに行こうかな。メンズのアパレルショップなんて入ったことがないからわかんないな……。とりあえず商店街をぐるっと回ってみよっか」
満と皐月は新天地通を左へ進んだ。右手には白煙の立ち上る中に大きな白龍のオブジェがあった。
「ここってお寺?」
「そう。万松寺っていうお寺。ビルの中にあるし、看板の映像が派手だし、全然お寺っぽくないよね」
「でも中は立派なお寺って感じで、面白いね!」
満と皐月はここで二人並んで自撮りした。その後で満に皐月一人の写真も撮られた。
「後でメッセージに添付して送るね」
万松寺通との交差点で二人は立ち往生した。皐月は真っ先に目に付いた十字路の角にあるメンズ服の店を眺めてみた。派手な服やワイルドな服が売っている店で、少年向きじゃなさそうなので候補から外した。その隣の店は若者向けが多そうなので、後で立ち寄ってみようという気にはなった。
「どうしよう……。マジでわからん。どっちに行こう……」
満が大勢の人が行き交う中で困惑している。みんな上手に満のことを避けて行く。
「じゃあさ、まずはこの商店街を一周しよう。そうすればほとんどの店をみられるんじゃないかな。とりあえず店には入らなくて、外からチェックするみたいな」
「皐月は変なことこと言うね。外からチェックするだけって、良さそうな店なら入っちゃえばいいじゃん」
皐月は人の多さに圧倒されて委縮していた。田舎者の自分が都会のアパレルショップに入ることが恥ずかしかったので、つい見るだけでいいと言ってしまった。
満と皐月は万松寺通を右に曲がった。スギ薬局の隣の店から焼きそばを焼くソースの匂いがしてきた。右手にある台湾名物屋台には大勢の人がいて、その隣の階段のところには行列ができていた。2階にあるジェラシーという喫茶店の客だ。
「ねえ、ここってなんかメッチャ面白いね。全部の店に入ってみたい」
「そんなこと言ったら大須に住まなきゃいけなくなっちゃうよ」
「スーパーもあるし、生活できるじゃん。いいな……マジでここに住みたい」
「じゃあ一緒に住む? 私も大須に住んでみたいって思ってるんだよね。このサノヤっていうスーパーはテレビ愛知の夕方の5時スタっていう番組によく出ているよ」
サノヤの前には地元民の自転車がずらりと並んでいた。駐輪場はなくて、商店街の道の真ん中に自転車が止められている。そこには店の人がついていて、客の出入りの手伝って通行人の妨げにならないようにしていた。
大須は少し歩いただけでも服を売っている店がたくさん見つかる。明日美と豊橋に服を買いに行った時はどの店で買おうかと探すのに苦労したが、大須には選ぶのに苦労するほど多くの店がある。さすがは古着の聖地と呼ばれるだけのことはある。
衣料品店だけではなく、商店街の中は何カ国かわからないくらい世界各国のエスニック料理店がある。外国人観光客以外にも留学生や労働者が多く住んでいるので、ハラルの食材の店もある。
食べ歩きのできる流行最先端の飲食店もたくさんある。唐揚げやスイーツなど、今流行っている店には長い行列ができるほどだ。店の入れ換わりも激しいので、流行が終われば消え、新しい流行の店が現れる。
そうかと思えば昔ながらの飲食店や純喫茶も残っている。秋葉原のような電気街やコンカフェがあり、池袋のような漫画やアニメのショップもある。大須にはアイドルだっている。浅草のような演芸場もあれば、小さな映画館もある。生活に根差した八百屋や乾物屋などもある。
それら雑多な店が区画で別れておらず、ごった煮のように入り混じっている。お酒の飲める店はあまりないので、夜でも治安が良い。大須商店街とはそんな素敵な場所だ。
「色々な店があって面白いな。でも、ここってなんか雰囲気が他の町と違う気がするんだけど……」
「大須商店街の中にはね、全国チェーンの店があまりないんだよね。地元発のチェーン店はあるよ。スギ薬局とか寿がきやとかコメダ珈琲店とか。そういうところが名古屋っぽくていいんだよね」
満と皐月は通り沿いにあるアパレルショップに入り、皐月に似合いそうな服を探した。ざっと店の傾向を掴んで、合いそうになかったらすぐに次の店に移った。そんなことを繰り返しているうちに、皐月はお腹が空いてきた。時間も正午を回っていた。
「ねえ、腹減った。お昼っていつ食べる?」
「そうだね……もう食べようか。ランチなんだけどね、私の行きたい店に付き合ってもらってもいいかな? 食事代は出すから」
「もちろんいいけど、食事代はもらってるから満姉ちゃんに出してもらわなくてもいいよ。食事を奢ってもらったらママに怒られる」
「いいよいいよ。こっちが付き合わせちゃうんだから。預かってる食事代は服にまわそうよ。これは百合姐さんに了解をもらってるんだから、皐月は心配しなくてもいいよ。それにせっかく欲しい服が見つかっても、お金が足りないとかだったらイヤでしょ?」
「そりゃそうだけどさ……そんなに高い服じゃなくてもいいんだよ?」
「別に服は一着じゃなくて、欲しい服があったら何着も買えばいいじゃない。いろんな店を見てたら絶対にお金が足りないって思うから。ここはお姉さんの言うことを聞いておきなさい」
満はショップのはしごを中断し、皐月を連れて歩きだした。あらゆる店を全て素通りし、東仁王門通から車の通れない細い小径に入った。狭い路地にも古着屋や飲食店が営業していた。満はその中の一軒の、看板も出していない、古びた外観の謎の店に入った。
小さな店だった。中はクラシックな雰囲気に統一されていた。店の中にはシックで清楚なロリィタ服を着た可愛い女性たちがいて、満と皐月を優しく迎え入れてくれた。
「わぁ! 満ちゃん、お帰り~」
「今週もまた来たよ~」
店内はほぼ満席だった。客は全員女性客で、満のようにロリィタの服を着た人が何人もいた。
「今日は可愛い男の子を連れているね。弟君?」
皐月は満よりも華やかな店員を見て茫然としていたが、店員と目が合うと心臓がドキドキした。千智や明日美とは別次元の魅力で、現実離れをした可愛さだ。
「友達だよ~。私の唯一のボーイフレンド。紹介するね。彼は皐月君」
「はじめまして。皐月です」
緊張で少し声が震えたことを誤魔化そうと、小さく咳払いをした。
「どうもはじめまして。私は美来です。よろしくね」
美来が微笑みかけてきたので、皐月も目いっぱい頑張って爽やかな笑顔を作った。ビビっているのをバレたくなかった。
「満ちゃん、今日はどうして皐月君と一緒に来たの?」
「皐月が修学旅行に行くって言うから、大須に服を買いに来たの」
「修学旅行か~。皐月君の中学は私服オッケーなんだ。いいな~」
「違うよ~。皐月は小学生だって」
「嘘! 小学生? じゃあ6年生なんだ。そっか~、中3にしては若いなって思ったんだよね」
皐月は少なくとも中学生に見られたことが嬉しかった。今はまだプラス1~2歳くらいに見られているが、少なくとも高校生には見られるようになって、明日美に似合う年齢に見られたいと思っている。
満と美来の話をしている間、皐月は店内の様子を観察した。美来以外のキャストは他の客と話をしたり、配膳をしたりして忙しそうにしている。キャストの子も女性の客もみんな可愛い。
二人の話が終わって注文を聞かれた。満はカルボナーラと、ノンアルコールの花梨のカクテルを頼んだ。
満の口にした花梨という言葉で、皐月は同じ修学旅行実行委員をしている江嶋華鈴のことを思い出した。いつも飾り気のない服を着ている華鈴でも、満や美来のようなロリィタを着たら可愛くなるんだろうと思った。
「皐月ってオムライス好き?」
「好きだよ。何? オムライスがお薦めなの?」
「ここのオムライスってね、キャストの子がケチャップで絵を描いてくれるんだよ」
「あ~それ知ってる。メイド服着た子がやってるの見たことがある。ここってメイド喫茶なんだ」
「ううん、ここはコンカフェ。ロリィタの世界をコンセプトにしたカフェね」
「だから満姉ちゃんはここに来たかったんだ」
皐月はドリンクにトマトジュースを使ったノンアルコールカクテルを頼んだ。注文を受け取った美来は一度席を離れた。
「ねえ、満姉ちゃん。ここの店の人たちってみんな可愛いね。満姉ちゃんの着てる服が地味に見えてきた」
「地味か……。ロリィタって男の人が嫌うみたいだから、皐月に嫌がられないように大人しめの服にしたんだよね~。そうか~。皐月がこういうの好きだって知ってたら、もっとかわいい服着てきたのにな……」
「いや、満姉ちゃんは今でもぶっちぎりで可愛いよ。俺、好きになっちゃいそう」
「そんなに気を使わなくてもいいんだよ。皐月はホストの才能がありそうだね~。なってほしくないけど」
食事が来るまでの間、満は明日美の話をいろいろと聞いてきた。皐月が明日美の車に乗ったり、一緒に食事をした話をすると、満はとても羨ましそうにしていた。そんな満の様子を見て、皐月は明日美の家に行ったことは隠しておいた方がいいと思った。
プライベートの満は芸妓姿の時や検番で稽古をしている時と違って子供っぽく見えた。明日美の方がずっと年上に見え、同じ年だとは思えないほどだ。
皐月はもともと満のことを素敵なお姉さんだと思っていた。だが明日美のことが好き過ぎて、満のことをよく見てこなかった。こうして満と二人でいると、満が可愛いってことがよくわかった。今は満と一緒にいられることに幸せを感じている。
だが皐月は満は恋愛対象にはならないと感じていた。それは満からは自分に対して異性として好意があるように感じないからだ。皐月は自分のことを恋愛に対して受け身だと思っている。相手から好きだと思ってもらえないと自分からは心を開けない。だが、相手が自分に好意があるとわかると自分も好きになってしまう悪い癖がある。
皐月はだんだん気が楽になってきた。これ以上女性関係が複雑になるのは嫌だったので、今からは男の友達の遊んでいる時のようにしようと思った。
ロリィタのコンセプトカフェを出た満と皐月は再び街へ出た。皐月がロリィタファッションを好きだと言ったので、満が皐月にくっついてくるようになった。腕を組んだり手を繋いだりしてくるわけではないが、さっきまでは微妙に距離を取っていただけに、満の態度の変化に戸惑った。
「恥ずかしい?」
「別に。満姉ちゃんこそ俺みたいな子供と一緒に歩いていて恥ずかしくない?」
「全然だよ~。私、一度でいいから可愛い男の子と街を歩いてみたかったんだ。だから今日は皐月に付き合ってくれたから嬉しいんだよね~」
「別に俺なんか大して可愛くねえだろ。それに可愛いって言われても嬉しくねーし」
「な~に拗てんのよ。褒めてんだから、素直に喜びなさいよ」
満と皐月はアーケードを歩きながら、ところどころで写真を撮った。満はやたらと皐月の写真を撮りたがる。皐月も満の写真を何枚か撮ってみた。満の髪がピンクでロリィタの服を着ているので、モデルの撮影をしているカメラマンのような気分になった。
商店街のアーケードを全て歩き尽した後、商店街の外周の幹線道路沿いを歩いた。大津通沿いには皐月でも知っている全国チェーンの店が並んでいた。大資本の飲食チェーン店は地方都市でもよく見かける。むしろ地方都市には飲食チェーン店しか見かけないので、田舎から出て来た皐月には大津通には少し安心感を覚えた。
「アパレルショップって、アーケードじゃないところにもたくさんあるんだよね。いろんな道、歩いてみようか」
今度は商店街の中の枝道を虱潰しに歩いた。裏通りには個性的な古着屋が多くあった。衣料品店だけでなく、カフェなどの飲食店、映画館や銭湯もある。神社や仏閣、キリスト教の教会、古墳までもある。
皐月はその中で一軒の気になる古着屋を見つけた。その店のファサードはプロヴァンス風で、白い壁は経年経過を感じさせるよう丁寧に作り込まれていた。
店内に入ると木製のディスプレイ棚が目に入った。店内の什器は全て自然素材を生かしていて、田舎風の素朴な味わいがあった。陳列された古着の中に時折見られる鮮やかな色の服が、ぬくもりの中に華やかさを表していた。
「いらっしゃいませ」
ユーロヴィンテージを纏った女性の店員は皐月には母の小百合くらいの年齢に見えた。店内の9割はレディースで、メンズは少ししか置かれていなかった。皐月にはロリィタを着た満には場違いの店のような気がして気恥ずかしかった。
「今の皐月にはメンズよりもレディースの方が似合うと思うんだよね~」
満が選んだ服はネイビーのチルデンニットベストだった。そのベストはやや深めの白のVネックに小豆色のストライプが特徴的だ。皐月は試しにそのベストを身体に当ててみた。レディースなのに似合っていて、自分の顔がより小顔に見えるような気がした。
「皐月はまだ男っぽくないから、レディースでもいけるね。でも、そのうちウホッってなっちゃうのかな」
「なんだよ、そのウホッって?」
満はゴリラみたいな変な顔をして、ボディービルダーのポーズを真似た。せっかくかわいい格好をしているのにバカみたいだ。あまりにも満が可笑しくて笑ってしまった。
「これ買おう。まずは一着だね」
お勘定を済ませた満は店主に頼んで、今買った服に着替えさせてもらうことにした。皐月は着ていたカーディガンを脱いでベストを着た。自分の姿を鏡で見ると中学生くらいには見えたが、ちょっと女の子っぽい気がしないでもなかった。
「皐月、よく似合ってるね。やっぱり若い子にはチルデンニットがよく似合う。いいとこのお坊ちゃんみたい」
「それ、褒めてんの?」
「当たり前でしょ。私好みの服を選んだんだから」
満と皐月は店主にお礼を言って店を後にした。
渡された資金の残高を考えると、皐月はもう少し服を買いたいと思った。ベストは5000円もしなかったので、お金がまだたくさん残っている。
「ねえ、満姉ちゃん。これからどうする? 俺、もう少し服を買いたいんだけど付き合ってもらえる?」
「いいよ、まだ門限までたっぷり時間があるし。どんな服が欲しいか決めてんの?」
「うん。古着じゃないんだけど、ストリート系の服が欲しい。俺、そういうのって持っていないから」
「へ~。皐月ってそういう趣味なんだね~」
「趣味ってわけじゃないけど、友達にストリート系の服が好きな奴がいてね、最近ちょっと影響されちゃってるんだ」
皐月はこの時、千智のことを想っていた。満のことを異性として意識していないので、遠慮なく千智のことを考えられた。
「どの店で買うとか決めてるの?」
「うん。さっき商店街を歩いた時にいい店見つけた。店頭に出ている服でいいのがあってさ、格好いいなって思うのがあったんだよね。お金が余ったら学校用に買おうって決めてたんだ」
「じゃあ皐月の好みの服がわかるね。楽しみだな~」
皐月は一度歩いた道は忘れないので、お目当ての店はすぐに見つかった。幸い欲しい服は売れずに残っていた。トップスは白いシャツと黒のベストの組み合わせで、ボトムスは黒のひざ下丈のハーフパンツだ。皐月はサイズが合うかどうかが心配だった。
「このベストとハーフパンツが欲しいんだ」
「皐月はモノトーンが好きなんだね」
明日美の影響で皐月はモノトーンのコーデが好きになった。母の選ぶシックな色合いよりも、モノトーンの方が色にメリハリがあるところがいい。両極端な色の組み合わせが自分の性格に会っていると思っている。
「でもウエストのサイズが絶対に大きいな、これ……」
満がサイズを確認するとMサイズだった。身体の成長しきっていない皐月には大き過ぎる。Sサイズがあればいいが、この店の雰囲気からは店頭にあるだけしかないように思える。
「今穿いているテーパードパンツはウエストを詰めたんだ。とりあえずこれ買って、ウエストは自分で詰めようかな」
「皐月、そんなことできるの?」
「自分ではやったことはないけど、このパンツを買った時に店の人にサイズ直しをしているところを見せてもらったんだ。要所要所で写真を撮ったから、たぶんできると思うけど……」
失敗しても糸をほどいてやり直せるので、皐月は自分でも寸法直しができそうな気がしていた。
「皐月は意欲的で偉いね~。じゃあ買っちゃえば? オーバーサイズだったら身体が大きくなっても穿けるじゃん」
「そうだね……買っちゃおうかな。裁縫は家庭科でしかやったことがないけど、裁縫ができるようになったらいいよね。もしかしたら服だって作れるようになるかもしれないし」
店で精算を済ませた後、皐月は満にある提案をされた。
「ねえ、皐月に少しメイクしたいんだけど、いい?」
「メイク? 俺、男だけど」
「メイクっていっても、目元だけ少しなんだけど、ダメ?」
皐月は同居している高校生の及川祐希が毎日メイクしているところを見るようになり、少し興味を持ち始めていた。祐希のようなナチュラルメイクなら自分でもやってみたいと思ったが、男がメイクするのにはまだ抵抗がある。
「変な風にしないんだったらいいけど……」
「ホント! じゃあ決まりね」
満に手を引かれて、皐月たちは近くのカラオケに行った。メイクが目的だったので1時間で入った。
「うわ~っ、カラオケなんて久しぶりだな~。俺、小学生だからさ、カラオケ行きたくても保護者がいないと行けないんだよな~」
「メイクして時間が余ったら、少し歌おうか」
部屋の照明を明るくして、満はバッグからメイク道具を取り出した。今日は簡単なメイク道具しか持っていないそうだ。
「じゃあメイクするね。皐月は顔立ちが整ってるから、絶対に綺麗になるよ」
「お手柔らかにお願いします」
満はいちいち説明を入れながらメイクを始めた。目元だけのメイクでも、ベースメイクは必要らしい。ノーファンデで化粧下地とフェイスパウダーを使うと言う。化粧下地はBBクリームを使うらしいが、皐月にはなんのことだかさっぱりわからなかった。
満はメイクの段階ごとに鏡で仕上がりを見せてくれた。アイシャドウやアイラインを入れると印象ががらっと変わった。ビューラーでまつ毛を上げて、少しだけマスカラを塗ると目が大きくパッチリとしてきた。アイブロウパウダーでナチュラルに眉毛の形を整えたら結構格好良くなった。
「ねえ、リップも塗っていい?」
「えっ? 話が違うじゃん」
「でも少しはリップも塗らないと、バランスが変だよ?」
皐月は内心、満の言うことに納得していた。たしかに目だけメイクすると、いくらナチュラルメイクでも違和感がある。
「大丈夫。女の子みたいにはしないから」
満は楽しそうな顔をして皐月にリップを塗り始めた。皐月は幼馴染の栗林真理がリップを塗って色っぽくなったのを思い出した。あの時、皐月は理性の箍が外れて真理のメイクを滅茶苦茶にしてしまった。
満の顔がすぐ近くまで寄ってきた。ピンクの髪にしてロリィタの服を着た満はメイクもいつもと違って人形のように美しかった。皐月は現実離れをした満に今まで女を感じていなかったが、満の吐息を浴びているうちに男の本能が目覚めそうになった。
皐月は目を閉じて視界からの情報を遮断し、瞑想に入って邪念を振り払おうとした。だが、目を瞑ったことでかえって妄想が膨らんだ。
「できた。皐月、綺麗になったね」
もう終わったと思って目を開けると、満の顔が近付いてきた。慌てて眼を閉じ直すと、唇に唇が触れた。
息の乱れない静かなキスだった。満は落ち着いていたが、皐月は心が乱れそうになってきた。ドキドキして呼吸が乱れてきたので、皐月は満の肩を軽く押して唇を離した。
「皐月は百合姐さんに似て、綺麗な顔をしているんだね」
「……だからキスしたってこと?」
「ごめんね。あまりにも可愛かったから、つい」
「ついじゃねーよ。びっくりしたじゃん」
「百合姐さんや明日美姐さんには内緒だからね」
「こんなこと言えるかよ……」
皐月は満に鏡を見せてもらった。ナチュラルで軽いメイクだったが、スッピンの時の顔とは明らかにイケメンランクが上がっていた。満に言われた通り、確かに母に似ているような気がした。皐月は自分の顔が化粧映えすることをこの時初めて知った。
「ああ~、女子がメイクしたがる気持ち、わかるような気がするわ」
「皐月、目覚めちゃった? メイクって違う自分になれるからいいよね」
ドールのような満は確かに芸妓姿や練習着の時とは違っていた。見た目だけではなく振舞いも変わっていた。メイクをすると性格も変わるのかもしれない。
「ねえ、俺とキスしたことって薫姉ちゃんに言うの?」
「そんなの言えるわけないでしょ!」
満が今日一番の真剣な顔になった。薫は満と仲が良く、いつも二人でいる印象だったので、今日のことは全て薫に筒抜けなのかと思っていた。
「そうか……。薫姉ちゃんにも言わないってことは、二人だけの秘密ってこと?」
「そう。絶対の秘密」
「秘密だったらさ、もっとキスしようよ。どうせ誰にも知られないんだし」
「あれ~。皐月、そっちの方に目覚めちゃった?」
「なんだ、いけないのかよ。男子だからしょーがないじゃん」
「あのね、カラオケの部屋って防犯カメラがあってね、全部録画されてるよ」
「嘘っ!?」
「本当。だからダメ~。店員さんに見られたら怒られちゃう」
満が端末を操作し始めて、曲を入れた。部屋が大音量で満たされて、満が歌い始めた。満が歌っているのは皐月の知らない曲だった。カラオケに慣れているのか、満は歌が上手かった。皐月は満とキスができなかったことにどこかホッとしていた。
少し早めにカラオケを切り上げて店を出た。まだ4時前だったので、満にデザートを食べに行こうとコンカフェに誘われた。
満に連れて行かれたのは男装カフェだった。満はここにも通っているのか、男装の麗人たちに厚くもてなされた。キャストの子たちは男っぽく振舞っていたが、やはり女を隠し切れていなかった。あえてそういうところを楽しむ店なのかと思った。
メイクの効果なのか、皐月はこの店でキャストたちから異様にチヤホヤされた。そんな皐月を見て、満は満足気な顔をして微笑んでいた。皐月には満がまるで自分のことを自慢しているように見えた。だが皐月は男のような女の人と話をしていても、ロリィタの人たちと話をしていた時ほど楽しくはなかった。
店を出て立体駐車場に戻った。帰りはビートをオープンにしないつもりなのか、満はいつまでも幌を開けようとはしなかった。
「どうして屋根を開けないの?」
「うん……。帰りはいつも幌を閉じて走ってる。そうするとビートって小さいから、密室って感じになって落ち着くんだよね」
「確かに狭いね。でも、心地いい」
「だよね。……ねえ、皐月。さっきはカラオケで拒んじゃってごめんね。今してあげる」
満の右手が左頬に添えられ、皐月は引き寄せられてキスをされた。軽い口づけだったが、満はさっきより顔を押し付けてきた。唇が柔らかくて、気持ち良かった。
「皐月は明日美姐さんが好きなんだよね?」
「まあね」
「私とこんなことしてもいいの?」
満は自分からキスをしてきておいて妙なことを言う。皐月は満に祐希と同じ魔性を感じた。皐月はこういう背徳行為に慣れ始めていたので、満と少し遊んでみたくなってきた。
「あれっ? 二人の秘密じゃなかったっけ?」
「秘密だよ」
「じゃあ、いいじゃん」
今度は皐月からそっと唇を重ねた。薄目を開けて満を見ると、満は目を閉じていた。皐月は人とキスをしているような気がしなかった。
「満姉ちゃんは俺なんかとキスしてもいいの?」
「ん……本当は良くない」
「じゃあ恋人がいるんだ」
満は男嫌いだと明日美から聞いていたので、満に恋人がいることが意外だった。皐月は本当に良くないことをしている気がしてきた。
「私ね……薫と付き合ってるの」
「えっ!」
明日美から話を聞いた時、満がレズビアンかもしれないということを考えたことはあった。まさか本当にレズだとは思わなかった。
「まあ、そういうことで。……皐月、私って気持ち悪い?」
「全然」
「本当?」
「うん」
今度は満からキスをしてきた。今までの唇を重ねるだけのキスではなく、皐月の知らないレズビアンのキスだった。
「でも、どうして? 俺って男なんだけど……」
「それはまだ皐月が男になっていないからかな。それに皐月って私の好みなんだよね。ごめんね、いやらしくて」
「いいよ。俺だってそういうことしたいって思ってるから。でも、いいの? 薫姉ちゃんがいるのに、こんなことして」
「二人だけの秘密なんでしょ?」
「……そうだね。秘密だったね」
皐月は家に電話をして、満と夕食を食べてくることを母に伝えた。小百合は予想していたのか、なんの疑いも持たずに了承した。皐月は家に出た時と同じ服に着替え、メイクを落として9時前に家に帰った。
最後まで読んでくれてありがとう。この記事を気に入ってもらえたら嬉しい。