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かわいいウサギ(皐月物語 107)

 2時間目が終わった中休み、藤城皐月は出来上がった修学旅行の栞を印刷するために印刷室へ行った。水野真帆がすでに複合機のセッティングをしていた。
「ごめんごめん。遅れちゃった。もう始めてるの?」
「とりあえず1部だけプリントしてみるね。実物の出来上がりを見てみたい」
「いよいよ栞ができるのか……。なんかワクワクするね」
 皐月は昨日のことを気にしていた。真帆がいるのに、自分と入屋千智の二人で話し込んでいたことで、真帆が気を悪くして先に帰ってしまったんじゃないかと思っていたからだ。今のところ、皐月には真帆が昨日のことを引きずっているようには見えない。
 江嶋華鈴がごついホチキスをいくつか持ってやって来た。皐月と華鈴の目が合った時、華鈴にいつもの親しみを感じられなかった。機嫌が悪いのかもしれないと思った。
「そのホチキス、でかいな。こんなの初めて見た」
「PPC用紙30枚くらいなら小学生の力でも綴じられるよ」
「マジか! すげーな、それ」
 話しかければ華鈴は普通に会話を返す。皐月は華鈴の気を引くために大げさに驚いてみせた。
 真帆が複合機の操作をすると、驚くべき速さで印刷された栞が排出される。あっという間に全て出力し終わり、ページ順になっている紙の束ができた。華鈴が慣れた手つきで紙の束を取り出し、ホチキスで止めた。この間、華鈴は淡々と作業を進めていた。
「出来上がりの確認をします」
 華鈴が椅子に座ると、真帆がその隣に座った。椅子が近くに二脚しかなかったので、皐月は他の椅子を盛ってくるのが面倒で、二人の背後から栞を覗きこむことにした。
「黄木君の描いた表紙、こうして印刷物で見ると綺麗だな。過去の栞と比べても、俺たちの代の栞が一番よくできてると思う」
「ほんと……」
 華鈴を見ると、目に涙が浮かんでいた。真帆は何も言わず、じっと表紙を見つめていた。真帆は黄木昭弘の描いた自分たち修学旅行実行委員のイラストを気に入っていて、可愛い眼鏡っ子に描かれた自分の絵に見入っている。
「中も見てみようぜ」
 皐月が華鈴に促してもページをめくろうとしなかったので、隣に座っている真帆が表紙を開いた。
「江嶋のペースでページをめくっていってくれ」
「あ……うん。悪いけど水野さん、代わりにお願いできるかな? 私、ちょっとこういうのってつい読んじゃうから、遅くなっちゃうかも……」
「いいよ。確認作業は私がやる。会長と委員長は見てて」
 真帆は感慨に耽るわけでもなく、淡々と機械的に各ページの出来上がりをチェックした。真帆に華鈴のような想いがないわけではないだろうが、仕事には感情を持ち込まないタイプのようだ。
「はい、これで終わり。濃度は問題ない。あとは人数分印刷したら栞作りは終わりだね」
 軽くため息をついた真帆の表情がやっと緩んだ。だが、すぐに表情が曇った。
「ねえ会長、これって全部複合機でやっちゃっていいのかな? デジタル印刷機の方が早いし、安くできるよね?」
「それは北川先生から許可をもらってるから大丈夫。デジタル印刷機だと丁合を手作業でやらないといけないでしょ。うちの学校って丁合機ないし。時間がないから複合機で部単位印刷しちゃえばいいって言ってくれた」
「よかった……お金をかけるなって言われたらどうしようかと思った」
「そういうことは話がわかるよね、北川先生って。授業中も機械を動かしっぱなしにしてていいって。用紙切れするから、用紙の補充は休憩時間にしなさいって。そうすれば昼休みには印刷し終えることができるだろうって」
 聞き慣れない言葉が多くて、皐月には華鈴と真帆が何を話しているのかピンとこなかった。華鈴が「藤城君がいたってやることないよ」と言った意味がよくわかった。ここでいちいち言葉の意味を聞いていたら、華鈴や真帆の仕事の邪魔をするだけだ。
「それは助かるね。用紙は1500枚くらいあれば大丈夫かな? もうちょっと多いかな?」
「とりあえず新品のコピー用紙をセットしよう。あれって1セット500枚だから、3時間目、4時間目、給食の時間でだいたいプリントアウトできるね」
 真帆が複合機から使いかけのB5用紙を取り出し、華鈴が新しい用紙をセットした。皐月はそれを茫然と見ているだけだった。
「授業が終わったら、私が用紙の補充に来るね」
「あっ、それくらいなら俺がやろうか?」
「いいよ、藤城君は。もし何かトラブルがあったら困るでしょ? まあ、こういうのは私たちに任せて」
「……じゃあ、江嶋に任せる」
「私は議事録を書きたいから、後は会長にお任せします」
「うん。用紙の補充はやっておくね」
 華鈴が複合機でプリントアウトを始めると、真帆は Chromebook を持って、自分の教室へ戻って行った。
「後は機械に任せて、私たちも教室に戻ろうか」
「なあ、江嶋。用紙の補充、俺も付き合うよ」
「別にいいよ。特にやることないし」
「そんなことないだろ。例えばプリントアウトした分を一人づつ分けるとかさ、何かあるだろ」
「ああ……それはオフセット排出っていって、1部ずつ位置をずらして用紙を排出する機能があるから大丈夫。ほんと、私一人でできるから」
「それなら、やることがなくても付き合うよ」
「いいって。来なくても」
「そんなこと言うなよ。俺だって栞作りに関わりたいんだ」
 華鈴は何も言い返してこなかった。無言の時間がしばらく続いた。皐月は先に口を開いた方が負けのような気がしたので、我慢比べのように目を逸らしている華鈴のことを見つめ続けていた。
「じゃあ、藤城君に手伝ってもらう。でも、来たって本当にやることないからね」
「よかった。栞が刷り上がるところを見たかったんだ」
 華鈴が皐月を見て、弱弱しく微笑んだ。

 3時間目が終わった後の放課は4時間目が体育だったので、皐月は印刷室に行けなかった。4時間目が終わった後も給食当番だから華鈴の手伝いには行けなくて、皐月が印刷室に行けたのは給食を片付けた後だった。
 給食当番を終え、皐月が印刷室に行くと華鈴が複合機の前で何か操作していた。
「まだ印刷終わってないの?」
「児童の分は全部終わった。今は先生方の分と、予備で少し余分に印刷してる」
「へぇ……。じゃあ、すぐに終わっちゃうね」
 華鈴が複合機のボタンを押し、印刷が始まった。
「うん。刷り上がった栞をクラス毎に分ける作業も終わったから、あとは残りを印刷して終わり。せっかく来てもらって悪いけど、藤城君はもうやることないよ」
 この部屋に入ってから華鈴は一度も皐月と目を合わせていない。5年生の時、皐月はよく華鈴に落ち着きのない行動を窘められていたが、こんな冷たい対応はされたことはなかった。
「じゃあ印刷している間に、今日の委員会の打ち合わせでもしておく?」
「いつもそんなことしないのに……。今日の委員会は栞の製本して、それで終わりでしょ?」
「まあ、そうだけど」
「刷り上がった栞は委員会をする理科室にまだ持って行けないから、この部屋に置いておくよ。私は印刷が終わったら教室に戻るから」
「ああ……そうか」
「だからここは私だけで大丈夫。藤城君はみんなのところに遊びに行けばいいよ」
 口調は険しくないが、ここまで華鈴は皐月の顔を全く見ようとしなかった。皐月はやんわりと避けられていることに少し腹が立ってきた。皐月が今日、華鈴に怒られる理由はない。華鈴が怒っているとすれば、昨日の千智と二人で帰ったことくらいしか考えられない。あの時の華鈴はイライラしているように感じたからだ。
「江嶋さぁ、なんで話す時、俺の顔を見ないの?」
「……」
「まあいいや。今日の委員会は理科室から印刷室に移動してやるからな。その方が面倒がなくていいだろ。2組と3組の委員には俺から伝えておくから。黄木君には江嶋から伝えておいてくれ」
「うん」
「じゃあ、俺、行くわ」
 皐月は言葉を発して、すぐに印刷室を出た。皐月の背中越しに華鈴が何かを言ったのはわかったが、何を言っていたのかは聞き取れなかった。何を言ったのかを確認する気もなかったので、聞こえないふりをした。

 校庭では6年4組と3組がサッカーの試合をしていた。皐月はあまりサッカーが得意ではないので、積極的に加わりに行こうという気にはなれなかった。教室に戻る気にもなれず、図書室で時間を潰す気にもなれない。皐月は昼休みが終わるまで、校庭の片隅の飼育小屋でぼ~っと過ごすことにした。
 飼育小屋には兎が2匹が飼われている。以前はチャボが4羽飼育されていたが、鳥インフルエンザの発生で鳥類の飼育が避けられるようになった。鶏舎を取り壊した分、兎の運動場が広くなり、兎が元気になったように見える。
 皐月が飼育小屋に来た時は他に児童が一人もいなかった。2匹の兎の名はミルクとココアという。兎の男の子のココアは日陰で昼寝をしていて、女の子のミルクは巣穴を出たり入ったりして忙しそうだ。飼育係のお世話がしっかりしているので、稲荷小学校の兎は2匹とも健康だ。飼育小屋は清潔に保たれていて、餌はいつも新鮮だ。
 皐月は小屋のネットを掴みながら、蹲踞の姿勢をとる大相撲の力士のようにつま先立ちで深く腰を下ろした。もうこのまま昼休みが終わるまでずっとここにいようと思った。
 雌兎のミルクを見ながら、印刷室でのことを思い返した。皐月としては、せっかく華鈴と二人になれたのだから、もう少し華鈴と話をしたいと思っていた。修学旅行の話でもいいし、とりとめのない雑談でもいい。何なら昨日の千智のことで嫌味を言われてもいいと思っていた。だが、さっきのように距離を置かれるのは面白くない。
 華鈴と二人で下校した時や、華鈴の家に呼ばれて部屋に上げてもらった時、皐月は華鈴を異性として意識し、そして惹かれた。タイミングが合えば、千智ではなく華鈴と付き合っている世界線もあったのかもしれないとさえ思った。形の良い一重瞼で、端正な顔立ちをしている華鈴は皐月の好みの顔立ちだ。華鈴は千智のように男子児童から人気があるわけではないが、皐月は千智と同等に華鈴も魅力的だと思っている。
 華鈴から皐月と距離を置くようになったのなら、それはそれでいいことではないかと考えてみた。今の皐月には恋愛関係になった相手が増え続けている。このままでは友人の花岡聡に言われた「お前にかかわった女、みんな不幸になるじゃないか」が現実になりかねない。実際、皐月は自分自身のことを碌な奴じゃないと思っている。聡の言葉は呪いのように、いつも心を刺し貫いている。
 ならば華鈴とはこれ以上親しくならないで、友人としての関係で留めておくべきなのかもしれない。自分なら華鈴のことを今以上に好きになったとしても、華鈴に依存することなく、気持ちを抑え込むことはできると思う。だが、華鈴が自分のことを好きになったとしたら、どうだろう。皐月はその気持ちに対して誠実に応えることはできないだろうと思った。
 飼育小屋の中で走り回っているミルクを見ていると、これ以上メランコリーに沈まなくてすむ。皐月にとって目の前の兎が救いになっている。
 もの凄い勢いで穴に潜ったミルクが、ひょっこりと別の穴から顔を出した。ミルクが皐月の方を見て、目が合った。ミルクが余りにも可愛くて、皐月は小屋の中に入ってミルクを抱きしめ、もふもふしたくなった。
(可愛いんだから、キュンとなるのは仕方がないよな……)
 皐月には華鈴が何を思っていたのかはよくわからなかったが、負の感情を抑制していたことは伝わっていた。それなのに皐月は自分の感情を抑えきれなかった。好きだという気持ちは抑えられるのに、怒りの感情を抑えられないのは間違っている。正しいのはこの逆だ。
 皐月の背後に児童が集まって来た。低学年の女の子たちが兎を見に来たようだ。上級生がいると彼女たちも気を使うだろうと思い、皐月は飼育小屋を離れることにした。
(華鈴だって兎に負けないくらい可愛いのにな……)
 皐月は少し離れたところで振り返り、遠くから飼育小屋の中の兎を見た。華鈴だけでなく、千智や真理、祐希だって兎のように可愛い。
(こんなの、みんな好きになるに決まってるじゃん)
 皐月は再び飼育小屋にもどって、女の子たちと一緒に兎を見た。ちょうど雄のココアも目を覚まして、ミルクと一緒に小屋の中を走り回っていた。寝ている兎よりも元気に遊んでいる兎の方が可愛い。これは人も同じだと思った。
「ねえ、みんなって兎、好き?」
「好きー!」
 皐月が女の子たちに聞くと、元気よく答えてくれた。この子たちも兎に負けないくらい可愛い。
「どうして兎のこと好きなの?」
「可愛いからー!」
「だよね~。僕も兎って可愛いから大好きだ」
 今度こそ皐月は飼育小屋を離れた。もう後ろ髪を引かれる思いは何もなかった。


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