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少し大人になったかな? (皐月物語 50)

 藤城皐月ふじしろさつき栗林真理くりばやしまりの部屋から家に戻ってきた。及川祐希おいかわゆうきは二階にいるはずだが、皐月が帰ってきても何の反応もなかった。今の皐月は誰にも会いたくない気分だったので、一人でいられることにほっとしている。
 祐希が気を利かせてくれたのか、エアコンで部屋の湿度が取れている。冷え過ぎていないのが心地が良い。居間で横になり、ぼんやりと天井を眺めた。皐月はいつしか目を閉じていた。だが、眠りに落ちてはいなかった。ただただ深く回想に沈んでいた。

 あの事の始まりは、幼かった真理と二人で皐月の家のテレビを見ながら留守番をしていた時のことだった。
 祖母の就寝後に子供が二人だけになってしまうと、眠りにつくまでの間に母のいない寂しさに耐えられなくなる。少しでも賑やかにするために、誰でもいいから人の声の聞こえる状態にしておきたかったので、皐月と真理はテレビをつけっぱなしにして布団に入っていた。遅い時間の番組は子どもには全く面白くなかったが、音楽番組でもない限り、二人はテレビをまともに見てはいなかった。
 ある時、たまたま流れていたドラマの中で男と女のキスシーンが流れた。皐月と真理はそのシーンに目が釘付けになった。頬にキスなら母からよくされていた。こういうキスなら真理ともしたことがあった。だが、口から口にはされたことも、したこともなかった。なんとなく好奇心からテレビの真似をしてみたいと思い、この時二人で試してみたのが初めてのキスだった。
 この日以降、二人で母を待っていても取り残されたような気持ちになることはなくなった。時間を埋める人の声や映像は、皐月と真理の二人には邪魔でしかなかった。もう寝るからと祖母を安心させ、照明を落としてもらい、部屋を出て行ってもらう知恵を覚えた。
 二人が寄り添って寝ているところを、お座敷から帰って来た母たちに見られることが多くなった。仲がいいことにほほ笑んでいた母たちだが、いつしか仲が良過ぎることを心配するようになった。凛子りんこがマンションを買うと、真理が皐月の家に泊りに来ることがなくなった。

 真理に泊っていってほしいと言われた時、甘い思い出が一瞬で甦った。泊るための方策を見つけるため頭脳をフル回転させたが、皐月には現実的な回答を見出すことができなかった。今の皐月には冷たく突き放すことしかできなかったが、結果的にそれが真理の刺激的な見返りの要求を引き出すことになった。
 最初は幼かった頃のように軽くキスしていたが、いつまでも気持ちが鎮まらなかった。それは真理も同じで、二人ともだんだん変な気分になってきた。
 皐月はさとしと一緒に見た、ネットのアダルト動画の真似をしてみようと思った。子供の頃ははキスの時に舌を入れたことなんてなかったので真理はひどく驚いたが、実は仕掛けた皐月自身も驚いていた。気持ち悪いかもしれないと思っていたのが実際は全くその逆で、今までに感じたことのないくらい気持ち良かった。真理は最初こそ軽く抵抗したが、すぐに皐月の行為に応えてくれた。
 痺れるようなひと時だった。こんな狂おしい体験は二人にとって初めてだった。皐月にとって意外だったのは、自分よりも真理の方が興奮していたことだ。
「お母さんもこんなことしているんだ……」
 真理のこの一言が哀しくもあり愛しくもあった。皐月はもうどうにでもなれという気持ちになり、二人は快楽に身を任せ、甘美な世界へと溺れていった。

「あれ? 帰ってたの?」
 祐希の言葉で皐月は現実の世界へ呼び戻された。
「ん……ただいま」
「遅くまでいたんだね」
「そうかな……」
「小学生がこんなに遅くまで遊んでいたらダメでしょ」
「心配かけてごめんね。これからは気をつけるよ」
 からかうように言えば子供っぽく返してくると期待していたような祐希だが、皐月が素直に謝るので肩を透かされたみたいな顔をしていた。
「皐月、なんか女の人の匂いがするね」
「真理ん家の匂いが移ったかな。友達ん家って仄かに臭いよね」
「別に臭くないよ。いい匂いだなって。さっきパピヨンで真理ちゃんに会った時と同じ香りがする」
「祐希って鼻が利くんだな。犬みたい」
「うわ~っ、犬とかひどくない?」
「おれ、猫より犬が好きなんだ」
「私は猫派なの」
「祐希は性格が猫っぽいもんな」
「適当なこと言って……さっき私のこと犬みたいだって言ったくせに」
 祐希は皐月との掛け合いを好んでいる。皐月の当意即妙な返しを聞きたくて、最近はやたらと話しかけてくるようになった。祐希の高校生の恋人は皐月とはタイプが違うようだ。
 皐月のスマホに小百合さゆりからビデオ通話がかかってきた。ようやく仕事が終わったが、もう11時をとっくに過ぎていた。
「ごめんね~。遅くなっちゃった」
「お仕事お疲れさま。大変だったね」
「今日はみんながいたからそんなに疲れなかったよ。明日美あすみは人気があるからお客の相手が大変だったみたいね。私は全然だったけどね」
 明日美と同じお座敷に呼ばれると、他の芸妓げいこは明日美のヘルプのようになるらしい。そういうのを嫌がるのは若い芸妓で、百合や凛は楽でいいと明日美と同じお座敷になった日はサポートに徹することにしている。
 百合が皐月の背後に写った祐希を見つけたようで、頼子よりこに声をかけている。それにならって皐月も祐希を呼んで通話を代わった。頼子と祐希が遠慮がちに喋っているのを見て、百合も皐月もそっとその場を離れた。
 二人が話し終わり、スマホを返してもらった。百合と皐月が話をしていると明日美が画面を覗き込んできた。いつもの明日美はこんなことをしてこないのに、今日は珍しいなと思っていると、百合が明日美と通話を代わった。
「皐月、髪切ったんだ。似合ってるじゃん。また検番けんばんに顔見せにおいでよ」
 母の前で明日美が皐月を誘ったことに驚いた。皐月は明日美と会うことに後ろめたさを感じていたからだ。自分だけが明日美のことを気にしていたことが恥ずかしくなった。
「わかった。また学校帰りにでも検番に寄るよ」
「あれ? もしかしてカラーしてる?」
「うん。ちょっとだけ紫にね」
「格好いいじゃない。もっとちゃんと見てみたいな」
「ありがとう。明日美にそう言ってもらえたら、俺、自惚れちゃうよ。バカだから」
「いいんだよ、それくらいで。いい男はみんな自分に自信を持ってるんだ」
「明日美は小さな画面でもきれいだね」
「ありがとう。なんだか今日は照れるな……」
 祐希が背後から画面を覗き込んできた。明日美にも祐希の顔が見えているはずだが、何も反応せずに百合にスマホを戻した。今日は帰りが遅くなるので、明日の朝はパピヨンにでも行って、モーニングを食べてから学校に行けと言われて通話を終えた。
「明日美さんって本当に綺麗な人なんだね」
「そうだろ。でも実物はもっと綺麗だよ。俺は明日美が世界で一番いい女だと思ってる」
「千智ちゃんも美人だし、真理ちゃんは格好いいし、皐月のまわりってレベルの高い人ばかりだね」
「そして祐希が俺の前に現れた。祐希も明日美や千智に全然負けていないよ」
「ちょっ……何言ってんの……」
「俺、風呂入ってくるね」
 祐希の相手をしないで皐月は部屋を出た。真理と会い、明日美と話すと、高校生の祐希がやけに幼く見えた。自分は少し大人になったのかもしれないな、と皐月は思った。さっきまでは消したくないと思っていた真理の残り香を、今はもう洗い流してもいいかなと思い始めていた。


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