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近現代文化の諸問題 第5回 教養とは何か~唐木順三『現代史への試み』~

 第4回では、自然主義作家・田山花袋の視点から、明治末から大正期の首都を舞台に、江戸~東京への移り変わりの視点を振り返ってきました。
 近代文学の誕生は、これまでの韻文による物語の世界から、散文による新しい〝小説〟という分野を生み出しました。
 「自然主義」というリアリズムの視点があったからこそ、花袋は江戸から東京への都市空間の変遷を客観的に対象化することができたわけです。
 とりわけ大正末期の関東大震災は、明治末まで辛うじて残されていた江戸文化の遺産を焼き払うものでした。

 今では「近代」と「現代」を分ける転換期として、昭和期の戦前・戦後を分岐点とする見方が一般的ですが、それ以前は、関東大震災以前と以後で文学史を分ける視点もありました。
 罹災による焼失によって、世代の交代や建築物の近代化のみならず、江戸以来の膨大な文献を焼き尽くしてしまったからです。
 今でも古書街を歩くと、江戸期以前の和本や古文書を目にすることができます。しかし、その多くは地方に残されていたもので、大部分はこの震災によって失われてしまった…と考えても差し支えないでしょう。

 こうした戦争や大規模災害による時代の断絶を〝グレート・リセット〟という言い方をすることがあります。
 ヨーロッパでは第一次大戦、日本では第二次大戦以前と以後で〝グレート・リセット〟に値する変革はありました。
 江戸時代にも度々大火によって再生が繰り返されてきましたが、十七世紀後半の「明暦の大火」が、いわば近世に於ける〝グレート・リセット〟ともいえる大事件でした。
 この大火によって、これまで江戸に集まった文献や文化が焼失し、戦国時代的な気風をも焼失してしまったからです。
 『本朝通鑑』という歴史書を編纂していた林羅山は蔵書家でもありましたが、この大火で多くの資料を失い、ショックの余り急逝してしまいます。
 そうしたことから資料保存の重要さに目覚めた若き水戸藩主・徳川光圀は、『大日本史』の編纂を開始するわけです。

 さて、今回は、花袋の都市論とは別に、明治から大正期の世代的断絶を象徴する出来事を紹介したいと思います。
 知識人の間でも、明治期までは辛うじて残されていた武士的な精神が、文明開化を通じて、次第に失われていきました。
 とりわけ啓蒙期に明治人の間で唱えられていた「文明」という言葉が、大正期以降、「文化」という言葉に取って代わっていきます。
 転機となったのはどんな事象でしょうか。一つ考えられるのが、日露戦争です。
 黒船来航以来、明治人たちは半世紀にわたって、不平等条約の改正に尽力してきました。
 社会科の時間でも学んだ「領事裁判権の撤廃」「関税自主権の回復」ですが、この二つを取り戻さない限り、日本は半分「植民地」の状態であったという見方ができます。
 日清・日露戦争と多くの犠牲を払って、漸く条約改正に辿り着いたのが、明治44年。つまり二つの戦争に勝利したといっても、それは決して〝圧勝〟というわけではなく、国民の多くの命を犠牲にした上で、漸く辿り着いたものだったのです。
 自然主義作家の徳冨蘆花はそれを「勝利の悲哀」と呼びました。
 明治天皇の崩御と乃木希典将軍の殉死は、そうした大いなる時代の終焉を象徴する出来事だったのです。
 夏目漱石が『こゝろ』の「先生の手紙」を通して、「明治の精神は、天皇に始まり、天皇に終わった」と述べさせたのは、そうした半世紀にわたる明治人の苦悩も反映されていたのかもしれません。
 ところが、時代が変わり、大正以降、これまでの父親世代にあたる明治人の苦労を知らずに、文明開化の時代を前提として生を受けた若い人たちが登場しました。
 それが、夏目漱石の弟子世代あたる、『白樺派』の文学者や「大正教養派」とよばれる知識人たちの登場です。
 これまでこの授業でも紹介してきた夏目漱石や森鴎外、西田幾多郎、島崎藤村、田山花袋…といった人たちは、典型的な明治人です。
 それが大正以降となると、武者小路実篤や志賀直哉、有島武郎といった白樺派の作家たち、そして哲学者では、三木清や和辻哲郎、倉田百三や阿部次郎といった思想家が登場します。
 仮に「明治人」と「大正人」に分けますが、両者の違いはどんなところにあるのでしょうか。
 今回紹介したいのが、そうした世代間の断絶を分析した唐木順三という批評家についてです。

 唐木順三は、日露戦争が起きた明治37年(1904)に長野県で生まれました。
松本高校(現・信州大学)卒業後、昭和2年(1927)に京都帝国大学を卒業しています。その後、教職の傍ら、近代文学や日本仏教をはじめとする中世史について研究を深めていきます。
 画期となったのは、昭和15年(1940)の筑摩書房の設立です。今でも大手老舗として有名な出版社ですが、元々は長野出身の古田晁、臼井吉見らが設立、唐木は批評家の中村光夫とともに顧問となっています。
 この出版社、戦後は『展望』という総合雑誌を創刊するなど、ジャーナリズム・アカデミズムともに権威のある存在でした。
 その後、唐木は明治大学の教授となり、昭和31年(1956)には、その代表作『中世の文学』で、讀賣文学賞を受賞しています。

 今回、紹介するのは、その唐木が、敗戦後の昭和24年に筑摩書房から刊行した『現代史への試み』という著作です。(ここでいう〝現代〟が今から75年前の視点で書かれていることも注意が必要です。)
 この本では、冒頭から大正7年(1918)のロシア革命の衝撃から書き起こしています。
 当時、マルクスの『資本論』の存在は知られてきましたが、その一人の思想家の考えから、本当に革命が実行され、世界初の社会主義国家が成立したためです。
 日本における社会主義の影響は急速に広まっていき、昭和初年代には、知識人の間でマルクス主義が、まるで新興宗教のように流行していきます。
 唐木はそんな大正から昭和期の世界を呼吸して育った世代です。
 とりわけ、昭和期以降、マルクス主義によって、知識人の様相は様変わりします。
 大正期まで、読書を中心に「個性の伸長」を旨としてきた教養人の陰が薄くなってしまったのです。
 明治と昭和の時代に挟まれた「大正人」とは何か。彼らは旧世代の明治人と新世代の昭和人と、何が違うのか。
 唐木は次のように述べます。

※以下、引用(唐木順三著『現代史への試み』筑摩書房、昭和24年)

>明治維新前後に生れ、幼時に四書五経〔論語や孟子、書経などの中国の古典〕の素読をうけたジェネレイション、即ち今日〔昭和二十年代〕に在世すれば七八十歳の思想家、文筆家、即ち鷗外、漱石、露伴、二葉亭、内村鑑三、西田幾多郎、さうしてその最後の型としての永井荷風と、明治二十年前後に生れた右の先達の門下との間に明確な一線を劃(画)せるのではないかと僕はかねがね考へてゐた。


>さうしていま僕が教養派と呼んでゐるのは、年齢からいへば大正六・七年に三十歳前後、或はそれ以下であったもの、現存すれば六十歳前後、或はそれ以下で大正六・七年に青少年期をもつたものでを指してゐる。さうして主として右の先達の門下であつたものを指してゐる。
前者を仮に素読世代と呼ぶならば、その世代はどこかに四書五経的な骨格をもつてゐた。儒教的、武士的な、凡そ卑屈を嫌ふ高潔なものをもつてゐた。たとへそれが四書五経とは全く反対な表現をとつてゐたにしても。さうしてその上で西洋を存分に吸収した。和魂洋才から汚い連想を洗ひさつていへば、和魂洋才的な、いな、東洋西洋的なものがあつた。(中略)


>鷗外のあきらめ、漱石の神経衰弱、二葉亭の文学か政治かの悩み、露伴の小説放棄、鑑三の退官、西田哲学の悪戦苦闘、荷風の絶望等は、右のことを考慮しなければ理解しがたいものであらう。それらは東洋と西洋、日本と外国との間の如何ともしがたき相違、或は日本の後進性に由来する封建遺制と西洋近代との間隙を統一綜合しようとする苦悩のあらはれであつた。彼等には、苦悩を真に苦悩たらしめ、矛盾を真に矛盾たらしめ、その内心に於ける相剋から創造へ転じ出るエネルギイの基礎をなす形、型、人格、性格があつた。<

 唐木における明治の「素読世代」、大正以降の「教養派」との相違、かなり明確になっているのでないかと思います。
 確かに我々も、その時代を知るものではありませんが、漱石や鷗外、西田らには、どこか江戸時代と地続きというべき、骨太な、武士的な骨格を感じます。
 それに対して、知識や教養においては、前の世代を圧倒する大正以降の世代、〝文明開化ネイティブ〟ともいうべき武者小路実篤や芥川龍之介、三木清らの世代は、確かに西洋思想への吸収においても洗練されたものでした。しかしながらその一方で、どこか明治世代のような〝頑固さ〟、何事にも動じないような〝骨格〟が感じられないのも否定できません。もちろん、どちらが良い、悪いの問題ではないと思います。

 読書量においては、遥かに明治世代を上回る大正以降の世代が、人格的な「尊敬」という点において、どうしても明治人に及ばない…と見られてしまうのは、どうしてなのか。
唐木は更に、大正時代に学生たちの間でベストセラーとなった『三太郎の日記』の著者・阿部次郎の思想を分析します。

>この書〔『三太郎の日記』〕は「凡そ六年間に亘る自己の内面生活の最も直接な記録である」といひ、「自分は自分の悲哀から、憂愁から、希望から、失望から、自信から、羞恥から、憤激から、愛から、寂寥から、苦痛から促されて此等の文章を書いた」といふ。(中略)
即ちこの著者は、明治から大正期へかけての社会的大変動の時期に於て、自分のふところ具合や、雑誌記者の催促以外は、外の社会に目をつぶつて、専ら自分の内面生活の悲哀や希望を書き綴つてゐたといふことになる。<

 ここでは、明治人には、少なからずもっていた国家意識や社会意識が薄れ、外の世界を遮断して、自分の内にこもって思索三昧にふける、三太郎(=阿部次郎)に象徴される大正期の知識人が指弾されます。
 これは丁度、前々回に登場した漱石の『それから』に登場する主人公の長井代助を髣髴させる人物像でもあります。
 これはそのまま昭和時代でいうと、高度成長に邁進した戦中派会社員に対して、そうした苦労をつゆ知らず、親のすねを囓りながら自分のひたすら趣味に没頭することができた新人類世代(=初期のオタク世代)の登場を想起させるものです。
 多大な読書を重ねた上で、広く深い知識をもつことは素晴らしいことです。
 しかし、唐木はそこも突いてきます。
 例えば、三太郎は、「自分はトルストイもニイチェも理解できる」と述べています。
すなわち明治人が「あれかこれか」の選択を迫られたのに対して、大正人は「あれもこれも」です。しかし、トルストイもニイチェも全く別のタイプの思想家です。果たして、自分の身体が一つしかない以上、トルストイとニイチェといった両極端な思想家たちを同時に理解することなど、あり得るのだろうか、と。

 そんな大正人の「教養」に対して、明治人はどういう言葉を使っていたか。それは「修業」や「修養」といった言葉でした。
「修業」と「修養」…今耳にしても、何とも封建時代の古くさい匂いがしませんか?
 その意味で「教養」という言葉は、二十世紀初頭の日本においては、大変新鮮で、魅力的に映ったのです。
 しかし、唐木は、大正以降の「教養」には、幕末から明治の「修養」や「修業」にはない、決定的な何かが欠けていると感じ取ります。

>教養派は内面的生活、内生に閉ぢこもる。それは二重の意味に於て外面的なもの、外面生活を主問題としない。一つは我々の身体的・行住坐臥的(座禅などの修業)な型、かつて修養がその規範とした形式を問題にしない。その意味で書生的、インテリゲンティア的である。その二つには、社会的政治的な外面生活を問題にしない。それは手に負へない俗物共の、即ちブルジュワ〔富裕層〕の、或は叡智のない藩閥者流の、或は判断力なき大衆の関心事ではあつても、インテリゲンティアの、自己優越を自認する教養派の関心すべきことではない。問題は、個性と普遍、自我と神にある。さうしてその中心問題の究明は、今日の如き師弟関係の稀薄な、人と人との間に信用のない時代にあつては、古人の書物に頼る外にないといふのである。<

 今でも沢山の読書によって、「教養」を身につけた人は尊敬されます。そうしたインテリ層の登場が、大正期以降だということが理解できたと思います。
 明治の頃にも「素読」による読書は尊重はされていました。大正世代になくて、明治世代にあったもの、唐木はそれを〝行(ぎょう)〟と呼んでいます。

>そこには万巻の読書とともに、晨起(朝起き)打坐、夜打坐があつた。教養とともに行があつた。いな、行第一であつた。兵式体操を嫌つて行状不良と宣せられた金沢四高〔西田の母校・第四高校〕の生徒の豪放不羈な形式嫌ひの内には、自ら行を求めてやまないものがあつた。
教養が教養として独立するにいたつた、大正期に於てはこの行が失はれてゐた。寧ろ行のない修養が教養といふものであつた。教養の甘さ、魅惑と新鮮さはそこに兆してゐる。<

 唐木順三の「修養」と「教養」の相違については、以上の文章で明確になったと思われます。
 確かに幕末から明治に活躍した志士たちは、素読とともに剣術などの鍛錬を怠らず、むしろ今の我々よりも、圧倒的に知識や情報量が少ないにもかかわらず、「明治維新」という大業を成し遂げています。
 漱石や西田までは、まだ禅寺での「参禅体験」というものがありました。彼等は小説の執筆や哲学的な思索の傍ら、必ず座禅や瞑想にふけったりする〝行〟を怠ることはありませんでした。

 実はこれを論じている唐木自身が「大正世代」に当たることにも注目できればと思います。
 唐木は、昭和初期に登場したマルクス主義者は、知識人に「社会」への覚醒を促し、新しい〝型〟となった…とも述べております。
 昭和世代の革命への実践、挺身は、読書だけで教養を身につけていた大正世代の存在を圧倒するものでした。(例えば、小説家から革命の実践家に投じて、命を投げ出した小林多喜二などが典型的な例として挙げられます。)
 そして、マルクス主義者は弾圧され、昭和十年代以降、戦争の時代へ。
あの戦争を引き起こしたのは、〝型〟のない大正世代ではなかったか。そして、戦場という現実、特攻隊のような新しい昭和世代の若者たちは、大正世代に比べて遥かに読書量が少なかったにも拘わらず、限られた時間の中で、修養を深め、短い生涯を閉じることになります。
『現代史への試み』は、そうした大正世代にあたる唐木自身の反省の書物でもあったと考えられます。
 以降、唐木は、『中世の文学』などの古典論を著し、日本が高度成長に向かう時代に反する形で、近代以前の「型」ともいうべき、中世の仏教思想に研鑽を深めていくのでした。

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