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暇であることと自由であることと不安と

暇である。

今日はどこにも出かける用事がないので、部屋の中で仕事をしている。仕事と言っても、昨日までに8割型できていたホームページの企画に付け加えることがないかと考えることと、不動産のチラシの修正をすることだけだ。付け加えることが少しあったので、企画としてはランクが上がったと思う。チラシの修正は項目を追加するだけだった。合わせて2時間で終わった。

9時から始めたので、今日の仕事は11時で終了である。

そこから僕は暇になった。今日は何をしてもいい。自由である。しかし、何がしかの不安がよぎる。こんなに仕事をしないで食っていけるのか?ということである。

僕はフリーランスなので、訪問やミーティングの予定がない時は、どこで何をしていてもいい。納期を守りさえすれば、いつ仕事をしてもいい。少々の蓄えはあるし、契約をしていただいている企業様からはコンサルティング費用を振り込んでいただけるし、スポットの仕事を納品すれば、料金をいただくことができる。そんなにお金を使うわけではないので、生活はやっていける。

それでも不安なのは、「1日8時間は仕事をするべきである」という思い込みが原因であることは、自分でもわかっている。

世の中には、何もしないでも印税などで収入がある人が存在することは知っている。親が残した不動産収入で生活ができる人がいることも知っている。僕よりも仕事をしていないで不自由なく生活をしている人がいるのだから、僕が仕事をしなくても不安になる必要なんてないのである。

それでも、こんなに暇だといつかしっぺ返しが来るのではないかという不安が付きまとうのである。


自由からの逃走

哲学の古典的な書物に『自由からの逃走』というものがあるけど、ずいぶんと前に読んだので内容は忘れてしまった。覚えているのはタイトルだけで、「人は自由を求めているはずなのに、なにゆえ自由から逃走するのか?」という疑問を感じたからである。確か、「人は自由を手に入れて、孤独になった。」的なことが書かれていて、記憶を辿ると、自由になると帰属するものがなくなり、孤独になるということだったと思う。そして、人の孤独につけ込んだファシズムを批判するという展開だったと思うのだけど、この記事は、書評ではないので、深堀はやめておく。

僕が孤独か孤独でないかといえば、孤独の方だと思う。離婚をして、家族を捨てた独身で、一人暮らしであり、フリーランスなので、何かの組織に帰属していない。

かと言って、孤独を恐れて、急いで新しい家族を作ろうとは思わないし(以前は思っていたことがあった)、毎月給料をいただけるという理由で、会社員になろうとも思わない。

孤独であることに、僕は不安を感じない。

不安の元凶は僕の思い込みである。「仕事の時間=手に入るお金」の金額が「「仕事の時間<手に入るお金」になっていることに不安を感じるのである。おかしなもので、以前は「これだけ働いているのだから、もっとお金が欲しい」と思っていたのに、いざその通りになると不安になるのである。

まさに、僕は自由から逃走を仕掛けている。


自由を享受するために

以前はサラリーマンをしていた。その時は、1日8時間仕事をすることが義務であったし、担当している仕事をやり遂げるまでは残業も義務になっていた。今から考えれば、仕事そのものに加えて、周囲の評価というものも給料に反映されており、「がんばっている風」を装うことも必要であったように思う。

今は組織に所属していないので、アウトプットする成果物だけが評価の対象であり、仕事の時間が3時間でも30分でも、この点は評価に関係しない。

そう。僕が思い込みを払拭するとは、仕事時間と収入は比例しない。仕事時間が短くて、収入が変わらないとしたら、時給が上がっているのだから、不安ではなく、喜ぶべきことであると思い込むことである。ならば、これから僕がやっていくことは、できるだけ仕事時間を少なくして、収入を維持していくことなのである。

僕と同じような感覚は多くのサラリーマンも感じているのではないかと思う。コロナ禍で、リモートワークが浸透し、「あんなに仕事をしなくてもよかったのではないか」と感じている人もいるのではないか。

しかし、資本家にすれば、この感覚は許しがたい。時間があるなら、もっと仕事をして、会社に貢献せよと思うのが当然である。だからあの手この手で、社員の仕事の評価をして、労働生産性を高めようとする。

今後もリモートワークは継続するだろうけど、監視体制が強化されることは予想できる。

僕のように、「経営者=労働者」となっている場合は、労使間の闘争が起こることはない。一方で、「経営者」か「労働者」のどちらかの立場にある人が自由を享受するためには、自分を取り巻く関係性にセンサーを発動しておかなければならない(と思う)。


自由とは関係性の適度な距離感

人は思い込みに縛られるし、所属している組織の関係性にも影響を受ける。組織というのは、職場に限らない。

リモートワークをしてもいいのに、家に仕事をするスペースがないために出社をする人がいるようだ。また、都会の駅の構内では、電話ボックスのようなスペースで仕事をしている人もいるし、リモートワーク用のオフィスというものもある。これって、出社するのとどう違うのだろうか?と思わないでもないけど、通勤時間の短縮はメリットかもしれない。

『自由からの逃走』にあるように、人が孤独を恐れるとしたら、なんらかの関係性を作ることになる。職場であったり、家庭であり、趣味のサークルかもしれないし、SNSのコミュニティかもしれない。こうした関係性にあっては、相手がいる以上、自分勝手に振舞うことは許されない。

実は、人が求める自由の真髄というのはここにあると思う。

無限の自由に孤独を感じるなら、居心地が悪くない関係性の中で生きればいい。つまり、「制約がない環境」ではなく、「居心地の悪くない(よいではない)環境」で生きることが現代における自由ではないかと思うのである。少なくとも、僕においてはそうだ。

僕の場合は、多くの関係性を結ぶのが苦手なので、関係性が多くなるほど自由ではなくなる。とはいえ、僕が孤独であるかというと、恋人はいるし、定期的に訪問をしているクライアントさんもいる。

例えるなら、時々外に出ることができる引きこもりというイメージだろうか。

ちなみに、今日はLINEとチャットのやりとりを一往復しただけで、誰とも話していない。

僕が自由でいる唯一の方法は、自分の思い込みから逃走することである。ということで、暇を不安に置き換えないように思考をシフトさせている最中なのである。


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