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日本に於ける建築家のブラフ(bluff)

アセット 3(1)

【日本に於ける建築家のブラフ(bluff)】

日本の建築家がブラフを多用する理由は様々あると思うが、日本に於いて建築家の地位が低いという事が大きな原因だと思う。建築家の社会的地位が高いヨーロッパではブラフを用いずとも交渉が成り立つ、皆が同じ方向を向いてくれるだろう。日本建築家のTwitterやインタビュー、雑誌記事に含まれる沸々と感ぜられる違和感を「ブラフ」の所為にすれば、いちいち苛立ちを感じなくて済むのだ___。

ブラフ(bluff)・・・ここでは戦略的な嘘のこと

この文章の目的は、友人達と話す建築の議論をもっと自由にする事である。学生は建築家たちの言葉を聞き逃さずにメモを取り、真剣に自分に取り込もうとすることが裏目に出て、他人の意見を自分のものだと思い込み話す節がある。学生時代の自由な発想・感動をブラフによって妨げたくはない。また、実はこの文章は谷崎潤一郎になりきって書いているので多少の頑固親父感は許して欲しい。「学術的に、秩序立てて検討するのは国学者の任であって、私の柄にないことだから、やはりいつもの随筆風に、思いつくままを次々に述べていくであろう(現代口語文の欠点について/谷崎潤一郎)」。

「コルビジェのサヴォア邸を実際に見に行って感動できなかったらどうしよう」「良い建築、というのが実はまだあんまりわかってないんだよね」このようなネガティヴな(?)言葉を大学でよく耳にする。前段落の「学生時代の自由な発想・感動を妨げたくはない」という言葉は、このように感情や感動でさえ自由に表現できない場面が見られるからであって、今回、その原因が建築家のブラフによるものだという仮説をたてた。

本来、感情や感動を言語化することはナンセンスだと思うけれども、そこを敢えて掘り下げて考えてみたい。感情や感動の中に建築家のブラフが絡まっているとしたらそれを言葉にできたなら、これからはより自由な議論ができるはずだ。

建築を実際に訪れる事が1番の勉強だと言われ、有名建築に足を運ぶ。その時に感じる感動は、大きく分けて2種類に分けられるのではないか?1つ目は「自分の発想にはない設計だ」、2つ目は「なんだかわからないけど感動した」。この2種類だろう。この2種類の感動の中に潜む建築家のブラフは何か、それぞれ考えてみたい。

1つ目の感動は「自分の発想にはない設計だ」。
僕自身で例えると、福岡市にあるネクサスワールドのレム棟や安藤忠雄の住吉の長屋をはじめて知った時の感動はそれに近い。このような感情になった時建築家は、「建築ってもっと自由で良いんだと思えた」と表現する。「やられたなぁ」などと、さぞ悔しそうな表情を見せる(これはブラフでも何でもない)。

この時建築家は、「建築の美」に感動しているというより、「建築の妙」に感動している。この感動を学生が傍からみると、あたかも「建築の美」に感動しているように見えるわけだから厄介だ。このすれ違いがあると、建築家の言動はブラフに感じるのも無理はない。あの建築良かったよ、と言われて行ってみると、ブクブクしていたりゴツゴツしていたり、何が良いのかさっぱりわからないなんて事が起こってしまう。(もっと言うと建築の妙というものは決して単時点的なものではない。素人が雑誌を見たところで、建築の妙は発見し得ない。「建築の妙」はシークエンスなのだ。動線の、論理の、若しくは非常階段の、時には柱のシークエンスだ。)

「建築の妙」とは、本当に変な言い回しだから、説明する気にもなれないので、適当に書く。上の画像を見てほしい。黒い紙に、白い平行な横線をたくさんひく。すると縦の境界線が現れる。白い線の長さを調節して縦の境界線に凹凸を表現した。この凹凸こそが「妙」なのだ(なんかそれ)。

お笑いで言うところのフリが平行線、オチが凹凸なのだ。ゼロから笑いを取らないといけないので、ルールを分からせてから(フリ)、その後に変化をつける(オチ)。

建築もだいたい同じだろう、規則性を与えて変化をつけ感動させる。ここで勘違いしてほしくないのは、これは「建築の妙」のたった1つの例でしかない。人によって視点が異なるから「建築の妙」は無数に存在するはずだ。この類の感動に出会った時は言語化しやすいので比較的伝わりやすい。次は言語化しづらいほうの感動について書いてみたいと思う。

2つ目の感動は「なんだか分からないけど感動した」である。これは1つ目とは逆で、「建築の美」に対する感動である。これについても建築家のブラフが存在する。

まず、この感動を無理やり納得させようとするとこうなる。この現実世界でないどこかに、完全な美しいイデアという世界があって、それを無意識に想起することによって人は感動するのだ。そう考えた建築家は、「訪れた人々に何かしら美しいものを想起させるのだ、それによって感動を生み、結果として地域の人々に愛される建築になるはずだ」と結論付ける。

何か美しいものを探した建築家は、コルビジェやライトやミースの建築を美しいと思いながらもそれを引用することはない。それらの美しいと言われる建築群を想起させる対象には選ばない。それは建築家のオリジナリティを担保するためか見栄かは分からないけれど、そうして「自然(nature)」というものを持ち出すのだ。具体的には、森や波、木陰などをメタファー(?)として用いる。これを想起させたなら誰かのパクリとは言われないだろうという、ついに再び現れるひたすらネガティヴなテーゼ「自然に帰れ」

自然に帰れとは元々は哲学者ルソーの言葉であるが(ルソーのテーゼはポジティブであろう)、ギリシャ建築やアールヌーボーなど、建築を学んでいると度々出てくる考え方である。建築関係の人以外もかなり興味深いブラフだと思うので少し解説する(隈研吾の本で読んだままの事を自分なりの言葉で解説する)。遥か昔、大自然から人間を守るシェルターとして建築は現れた(初めは洞窟かな?)。その時点で建築は明らかに構築物であったが、建築が増え自然が減っていくと構築物らしさが無くなった(構築物を構築物たらしめるものは外部であった)。この構築の挫折が自然をカモフラージュとして用いる理由であった。簡単にいうと、建築は自然を破壊する行為だからそのカモフラージュとして自然をモチーフにした。このような論理は、現代の日本ではかなり違和感がありブラフの1つに数えられよう。

さらに乱暴に考えを進めると、実は「〇〇のような美」というものは「建築の美」に先行しない。建築家が良い!と思った直後に○○みたいで、となるわけだ。想起するから美しいのではない。美しい理由を後から探しているのだ。この逆転こそが違和感となり、たちまち建築家のブラフに陥ってしまう

ここまで建築家のブラフについて文章にしてみたが、最後に、ブラフでない部分を明らかにして終わりにしたいと思う。まず、建築家が生み出した建築そのものは、必ず真実だ。目の前にある、あなたが今いるその建築は、紛れもなく、多くの人々が携わり作りだしたものである。(大袈裟に言えば)人類の叡智がそこに詰まっている。そして最後に、建築に感動する事、それは絶対に真実だ。その感受性が次の、良い建築を生み出すはずだ。「自分が感動してないものを他人に見せても感動しないよ」とよく言われるので、自分の感動を1番に大切にしたいと思っている。

建築家たちもその感動を伝えようと必死になるわけだが、残念ながら現在の日本ではそれがブラフに見えるのかもしれない

よってこの文章は建築家批判ではない。この文章の目的は(はじめにも書いたが)、友人達と話す建築の議論をもっと自由にする事である。みんなの感動体験を聞かせて下さい。「若者たちよ、恐れてはならない。大志を抱き、際限なく広がる学問の世界に踏み出してほしい、その勇気が人々に幸せをもたらすにちがいない(新・相対性理論/仲座栄三)」。

もう18時だ。さあ、束の間のエイプリル・フールを楽しもうではないか。
※この文章はフィクションです

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