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八幡神社は国防の神社だった!姶良市の小さな神社が教えてくれたこと…

姶良市山田にある黒島神社は、とても歴史のある神社だった。

少彦名命(スクナビコナノミコト)。仲良くしてくださる姶良市内の企業の社長さんの守護神。これを祀る神社を探し始めたのが物語の始まり。

「一緒に少彦名命を祀っている神社にお参りしよう!」ということになって、ネットで検索したら出てきた神社。それが黒島神社(姶良市山田)でした。

行ってみたら少彦名命は祀られていなくて、代わりに大穴牟遅命(オオナムヂノミコト)と宗像三女神のうちの2柱の神様、それから、神功皇后応神天皇が祀られていました。

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大穴牟遅命は、大国主命の若いころの名前。少彦名命は、大国主命の右腕の神様だったから、創建当時は一緒に祀られていたのかもしれません。

でも、宗像三女神、神功皇后と応神天皇が、姶良市山田という山間部の農村に祀られているのが不思議でした。

宗像三女神は玄界灘の海運を守る神様。神功皇后、応神天皇と合わせて八幡三神とも呼ばれます。八幡三神は、ご存じ戦さの神様。源氏をはじめとして多くの武家が信仰したことで知られていますよね。

でも、海もない、武士もいない山村の小さな神社になぜ八幡三神が祀られているんだろう???

そんな疑問を持ったのが事の始まり。由来を調べていったら、伝承から神話までいろいろなことが数珠つなぎになってわかってきた…

そして導き出された結論は、八幡神社は国防の神社だ、ということ。


黒島神社は、宇佐神宮よりも古い!

八幡神社の総本山は、大分県宇佐市にある宇佐神宮。明治以前は、宇佐八幡宮とよばれていました。御祭神は、応神天皇比売大神(=宗像三女神)、神功皇后。

黒島神社のご祭神とほぼ同じ。違いは、三女神のひとり市杵島姫命(イチキシマヒメノミコト)の代わりに大穴牟遅命が祀られていることだけ。

応神天皇と神功皇后だけをお祀りしている八幡神社もあるので、黒島神社も八幡神社の性質を持っていると言えますね。

では、なぜ黒島八幡とは呼ばれないのか?

宇佐神宮の創建は、725年。黒島神社は、708年。つまり、黒島神社が建てられたときは、まだ、八幡神という言葉が世間に広まる前のことでした。

さらに、708年は今から1312年も前の飛鳥時代。まだ、武士が現れていない時代です。武運長久を祈願する風習はまだなかったはず。そんな時代に戦さの神を祀る必要があったのでしょうか?

その謎を解くカギは、神功皇后にありました。

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神功皇后の新羅征伐は国防の戦いだった

神功皇后は、夫の仲哀天皇亡き後、住吉明神のお告げを受けて新羅征伐に行ったことで有名です。戦の後、産まれたのが応神天皇。そのため、神功皇后と応神天皇は戦の神と崇められているのですね。

古事記には、海中の魚たちが神功皇后軍の船団を背中に乗せて猛スピードで進んで来たので、新羅の王は恐れおののいて戦わずして降伏したと書かれています。

当時、朝鮮半島は新羅高句麗百済の三国がしのぎを削っている状態でした。そのうち最も小さな百済が、新羅の攻撃に苦しんで日本に助けを求めてきたので、神功皇后軍は百済に援軍を送ったのです。

教科書では、三韓征伐といってあたかも日本が朝鮮半島を侵略しようとしたかのように書かれていました。

でも、朝鮮半島が、中国と近い新羅に統一されれば、中国と一緒になって大軍で日本を征服に来る恐れがある。それを防ぐ目的で百済を助けに行ったのが事の真相のようです。

そう、新羅征伐は、朝鮮半島と中国大陸からの脅威に備えての戦い。つまり、国防の戦いだったのです。


神功皇后軍の兵士の末裔が黒島神社を建立した

神功皇后は新羅征伐の折、宗像三女神をお参りして航海の安全を祈っています。そして、立ち寄った福岡県の志賀島で兵を集めます。志賀島と言えば歴史の教科書にも載っていた漢委奴国王の金印が発見された島。

この島を治めていた豪族安曇一族は有力な海人族で、当時から朝鮮半島の国々と貿易をしていて玄界灘の航路を熟知していました。船の操縦技術も非常に優れたものを持っていたので、神功皇后は、新羅征伐に不可欠だとして安曇一族に水先案内を依頼します。

安曇一族の祖は、海神である豊玉彦命(トヨタマヒコノミコト)と言われています。強い水軍力を誇る一族は、神功皇后軍に数多く参加し、大きな功績を上げました。

その後、安曇氏の一人には、功績が認められて鈴木姓が贈られました。
黒島神社を建立した人物こそが、その鈴木家の末裔、鈴木四郎政良なのです。

また、彼には鈴木三郎政氏という兄がいました。三郎は、同じく姶良に住吉神社を建立しています。

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鈴木三郎四郎兄弟が神社を建てた本当の理由

姶良郷土誌によると、兄弟は住吉神社を勧請するために姶良にやってきたと書かれています。このとき、708年。黒島神社と同じ年に住吉神社は建てられました。

住吉神社もまた、神功皇后と深い関わりのある神社です。新羅征伐の後、神功皇后は、戦勝の御礼に摂津の国に住吉三神を祀っています。これが大阪の住吉大社です。

神功皇后は、新羅征伐の折、宗像三女神をお参りし、住吉三神をお祀りした。新羅征伐の成功は宗像三女神と住吉三神のご加護によると考えていたのでしょう。「お陰で国が守られた」と。

三郎四郎兄弟が姶良にやって来る少し前、中国ではが全土を統一して強大な国力を誇っていました。朝鮮半島では、百済、高句麗が滅ぼされ新羅が勢力を拡大しました。

663年、百済に援軍を送った日本は唐・新羅の連合軍と戦いましたが大敗し百済は滅亡しました。これが、白村江の戦いです。

このとき、百済から日本に亡命した人が数万人いたといわれています。唐と新羅の恐ろしさ、彼らに国を奪われるという恐怖も同時に伝わってきたのではないでしょうか。

新羅は唐の属国のような国でしたから、2国の連合軍がいつ日本に攻め込んでくるかわからない。そのため、日本は北九州地域に、水城(みずき)を築き、防人を配置しています。

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この唐・新羅連合軍に対する防衛策として、南九州の鹿児島に、宗像三女神、神功皇后、応神天皇、住吉三神を祀ること。これが、三郎四郎に与えられた使命だった。

新羅征伐で神功皇后を支えた功績によって与えられた鈴木姓。鈴木とは、祭礼の時に神に捧げる神木のこと。そして、その儀式を担当する役職名が、鈴木姓の由来とされています。

その末裔である鈴木兄弟に、「防衛のため、南に神々を祀れ!」そんな指令が下ったのだとすると、遠路はるばる山田にやって来た必然性が見えてきます。

姶良に志賀島の原風景を見つけた鈴木兄弟

住吉三神は、底筒之男命(ソコツツノオノミコト)、中筒之男命(ナカツツノオノミコト)、表筒之男命(ウワツツノオノミコト)という三兄弟の海の神様です。

志賀島からやってきた鈴木兄弟は大きな池を発見します。海人族の子孫でもある兄弟には、その池が志賀島を囲む海に見えたのでしょう。この場所こそ住吉三神を祀るには最適な地だと。そして、住吉神社を建立し、池を住吉池と名付けた。

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住吉神社を建てた後、弟の四郎はさらに山あいを上がっていきます。宗像三女神と神功皇后、応神天皇を祀る場所を探して。

四郎はある山の頂上に神々を祀ります。それこそが、黒島神社。四郎がその場所を選んだ理由は何か?

黒島神社は、測ったように真南を向いています。そして、その先にあるのは桜島。四郎の故郷、志賀島にも南の方向に能古島という島がありました。原風景を見つけた四郎は、さぞかし喜んだのではないでしょうか。だから、この場所に黒島神社を建てた。

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鈴木兄弟のその後

姶良郷土史によると鈴木三郎政良は、その子に吉元太郎政家と名乗らせています。自らが開拓した住吉の地を守らせる想いがあったのでしょう。

吉元姓が最も多いのは鹿児島県というデータがあります。今から1300年前に生まれた吉元太郎政家が、その祖だと考えると面白いですね。

ちなみに、鈴木三郎政良のご子孫は、今でも住吉地区に住んでおられます。

弟の四郎は、宮牟礼四郎政氏と苗字を変えます。宮牟礼という姓は、全国的にも非常に珍しく今ではほとんど残っていません。ただ、島津家の家臣になったということがわかっています。

あの有名な島津義弘の敵中突破の後、義弘は関ヶ原から摂津の国住吉に妻を迎えに行っていますが、その時、義弘についていた家臣団の中に宮牟礼十郎という人がいました。島津家に残る感状という古文書に、その名が書かれています。

宮牟礼十郎が、宮牟礼四郎の子孫であるとみて間違いないでしょう。義弘軍300人の軍勢のうち、住吉までたどり着いたのはたったの80人。その中に四郎の子孫がいたというのは、国防に尽力した四郎のご加護があったからでしょうか。

それにしても四郎が宮牟礼を名乗ったのが、708年。関ヶ原の合戦は1600年ですから、ここまでで900年もの時が経っているのですね。これだけでも日本の歴史は長いのだなぁ、と実感できます。

国防の想いは、山田村に脈々と受け継がれた

鈴木兄弟が建立した住吉神社と黒島神社のほぼ中間に位置するところに、山田の凱旋門があります。国の有形重要文化財に指定されている、この凱旋門。日露戦争に出兵した、山田村出身の兵士たちの帰還を記念して建てられました。

海外では、凱旋門は戦勝祝いの記念として建てられますが、山田村では違いました。門のすぐそばに、招魂社も建てているのです。日露戦争だけでなく、西南の役、日清戦争、大東亜戦争の眠れる勇士たち1200柱を祀っています。

この凱旋門を建てたのは、山田村兵事会。戦いの勝利を祝うよりも、兵士たちの無事の帰還を喜び、帰還することができなかった魂たちの追悼と感謝の想いを大切にしたのではないでしょうか。

凱旋門が建てられたのは、1906年。国防のために志賀島から姶良まではるばるとやってきた鈴木兄弟の想いは、1200年もの長きに亘って、山田村に脈々と受け継がれてきた。そう感じずにはいられません。

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最も歴史が古く、国防の精神的な柱としての役割を果たしてきた山田地区。地形的にもこの地区は、姶良市の中心に位置しています。

明治維新から150年。島津義弘公没後400年。そのいずれよりもはるかに遠い1300年という歴史を誇る鈴木兄弟の物語。

彼らは住吉神社、黒島神社の御祭神とともに子孫を見守っているのかもしれません。

古事記は、意外と史実だと思えてくる

姶良市の小さな二つの神社の由来から、古事記の神功皇后の新羅征伐のいきさつが、山田の始まりに繋がっていることが分かった。そう考えると、古事記には歴史上の事実も多分に含まれているのではないかと感じます。

いかがだったでしょうか?あなたも身近なところにある名も知らない神社から、歴史的物語をつむぎとれるかもしれない。自分だけの神社妄想ストーリーを作ると面白いですよ。

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