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紀元前660年が日本建国の年になったのはなぜ?~その①~

日本の建国は、紀元前660年2月11日。
初代天皇神武天皇が即位した日が日本の始まり、と言われています。

ちなみに、即位の日は旧暦の1月1日。
現在の暦に直すと2月11日なので、2月11日が建国記念の日となっています。

でも、本当にその日に神武天皇は即位したのか?
いいえ、事実ではありません。計算されて、その日になったのです。


推古天皇の時代に計算された

ときは、推古天皇の御代。7世紀の初めです。
推古天皇は、日本の古代史を整理して天皇記國記などの歴史書を作らせました。

推古天皇は、日本の歴史が口伝によって伝えられているので、物語としては面白いものの、年月がわからないことに困られたのでした。

そこで、上記の歴史書を編纂させて年代ごとに順序だてて、日本の歴史を整理したのです。この二つ、残念ながら現物が残っていない…ただ、編纂された事実のみが古事記、日本書記にしるされているだけ。いつか発見されたとしたら、歴史的大発見に違いない!

【余談】筆者が小学校5年生の時、大ニュースが全国に駆け巡りました。
太安万侶の墓が発見されて、その実在が確認されたのです。

太安万侶は、古事記の編纂にかかわった人。ところが、お墓が発見されるまでは、実在を疑問視されていたのですね。

11歳の少年には、その歴史的意義が全く理解できませんでした…「なんで、こんなことで大騒ぎしてるんだろう…?」みたいな…

お話し戻って、天皇記、國史の編纂を命じられたのが、ご存じ、聖徳太子。

太子は、ほかにも推古天皇の名を受けてさまざまな制度の制定に尽力しています。冠位十二階、十七条憲法、律令制度も取り入れて新しい国家建設に大きな貢献をしていますね。

では、なぜ日本の歴史書を編纂したり、国の大改革が行われたのか?

【理由①】国家としての素性を明らかにする必要があった。
このころ、新羅、百済をはじめ朝鮮半島の国々との交流が盛んにおこなわれていました。
さらに、中国大陸の隋との外交も開始されました。遣隋使です。歴史で習いましたよね。

外国との交流に当たって、日本がどんな国かを明らかにする意図があったのだと思うのです。それは、信頼関係を構築するために。

どの会社のホームページも、会社概要の中で、創業した年・創業者・創業の想いが書いてあります。会社の素性を明らかにして、信頼に値する会社だと表明するためです。

個人でも、就職転職するときは、履歴書を提出しますよね。会社も個人も、その歴史を見るとある程度は信頼できるかどうかが見えてくる。

国家も同じ。推古天皇は、海外に対して日本の履歴書を作る意図があったのでしょう。

【理由②】国を平定させるために仕切り直しをする必要があった

推古天皇が即位する前の日本は、天然痘が大流行して多くの犠牲者が出ていました。

さらに、物部氏と蘇我氏の権力争いが激化し、巻き込まれる形で皇族同士での争いにも発展していったのです。

皇子が天皇になると、継承問題で争いが起きやすくなる。女性ならば、皇位継承の争いを一旦は鎮められるのでは、という動きが、このときあったのかもしれません。

このことが、十七条憲法、官位十二階などの制度導入につながっていったのでしょう…

そして、日本の歴史を整理することで、お国柄を思い起こさせる…という意図もあったのだと思います。


ここまでで結構長くなってしまったので、続きは、次回の記事で…
いよいよ紀元前660年の謎が明らかになります…

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