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自分の中の昼の彼と夜の彼女

夏休み最終日。明日から仕事だ。昨日は上野にあるROUTE BOOKというカフェに行き、本を読んだ。そこで“書く”という行為に対しての誠実さが書かれた本があった。
絵を描くことと似ていると思った。あの時私ができなかった“描き方”がそこには言語化してあった。その本によれば、“考える”とは“検閲”のことだと言っている。
すごく腑に落ちた。考えずに書く、描く。その本には、考える (検閲する) のが“昼の自分”で、検閲する前の状態の“夜の自分”がいる、とも書いてあった。
絵は、夜の自分の領域だと思った。なのに私は全て昼の自分でやろうとしている。
あの日の四方八方が全て暗闇で、何を描くこともできなかった自分。
昼は太陽があるから昼なのだ。昼とは、地球上で最も光量を持った太陽が我々を照らし、所詮物体は光を受けた反射でしか存在できないのだ。
創作活動とは、恒星であるべきだ。もしくはそれに限りなく近づこうとする行為であるべきだ。反射であっても、その反射を自己内製するべきではないし、ましてやそれを自覚しているなら、それはもう創作ではなく、媚を売るという行為に成り代わってしまう。

同じくROUTE BOOKで読んだ本に、デザイナーのヴァージル・アブローの遺した言葉が書かれていた。
“デザインには必ず指導者(メンター)がいる。ゼロから発明する人はいないわけです。”
これを同日に読んだことは今日の意味かもしれない。メンターとはある意味反射だ。全ての創作者よ、反射しろ、と言っているように私は思った。
しかし、創作は夜の自分が考えずにすることだ。
メンターの話の続きには、“クリエイティブとしてのあなたを定義するのは、一連の作品とその量、そしてその作品群の洗練度、つまりいかに改良できたか”とも書いてある。

私は気づいた。考える、検閲するという行為を行っているのはあくまでも頭の中、自分の中で、そこは昼の自分の居場所ではないのに、何年も、夜の自分の居場所を彼に明け渡してしまっていた。
頭の中で完璧にする前に、書き出して、描き出して、それを改良する。それが昼の自分の“考える”という行為なのだ。
そこが昼の自分の居場所なのだ。


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