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【#2 やりたいことをみつけるまで】生への希望

最近見たNetflixの「パレード」が刺さったのでそれを切り口にして書く。

※詳細を書くつもりはないので、おそらくネタバレはないと思うが、不安な方は以降読まないことを推奨。

公式のあらすじを引用すると以下である。

大災害の混乱で離れ離れになった息子を捜す母親は、自分がすでに死者となっていること、そして今いる世界が、この世に未練を残した者たちが集まる特別な場所だと知り…。

生と死への希望

解釈にはおそらく様々あるが、自分では「生と死への希望」というものがある気がした。現世に未練を残して死者となった人が、未練を解消することで成仏するというのがメインの設定であり、一方で現世に対して何か役割が見つかり、未練ができると生が与えられる展開とも合わせて「生と死への希望」を感じた。
希望が満たされ満足すると死ぬし、希望があれば生きることができる。

自分は希望についてどう振る舞っているだろうか。
振り返ると忙しい時には死ぬ時に後悔するようなことはできてない。作中でもあるように人に感謝するや人に謝る、大事な人と旅行をするなどである。
もちろん0ではないが、死ぬとわかってやるものとは別物としてやっている気がする。

では暇な時にその後悔するようなことをやっているかと考えるとやってない。
むしろ暇な時ほど「自分は必要だろうか?」などと客観的にはどうでも良いと思うようなことを考えている。
蛇足だがこのnoteで書くこともほとんど必要のないことであると思っている。でも大事なことだと思っているので書こうと思う。
自分にとって大事なことをやっている時間はとても少ない。
また「パレード」という作品で面白いと感じたのは死ぬ時に後悔することは人についてばかりであった点である。そして何か役割を与えたのも人であった点である。

人との関わりに折り合いをつける

作品を見ていると人に対して言いたいけど言えなかったことは未練になり、人に言う必要はないが言ったことで役割となったように描かれている。
であればこの問題はとてもシンプルで我慢せずに言いたいことを言えば良いということになる。
ではなぜ言うことができないかを考える。
①人間関係が悪くなることが多いから
②忘れてしまうから
③大事だと認識できてないから
3つ思いついた。

①人間関係が悪くなることが多いから
言わずもがなであるがこれが人が空気を読む必要性を感じる理由と思う。もし言いたいことを全員が言って毎回事態が好転するなら空気を読もうとしない。でも空気を読むということにより利便があるからである。
人間関係を良くすることよりも悪くしないことの方が利便があるのだと思う。迷うのであれば言わなくて良い、逆に言えなくて後悔するのであればそれは後からでも言った方が良い。それくらいで良いのではないか。
逆に後悔することができるタイミングを作ることが大事なのではないかと思う。

②忘れてしまうから
覚えていないものに対処する方法はないと思う。しかし死ぬ瞬間に思い出すということは単に忘れているよりは目の前のことを処理するために切り捨てていると言えると思う。
であるとすると、これは方法がある気がする。1日に振り返りの時間を作るというのが1つの解になるのではないか。考える間もなく日々が過ぎるところに問題がある。忙しいかもしれないが大事なことなら時間を取る必要がある。また日々の時間のない生活の中で15分の時間を取ることは果たして不可能だろうか?おそらく可能であると思う。15分普段のやることから離れて振り返ったとて1日にできることはそこまで変わらないように思う。
今日からでも振り返る時間を取ろうと思う。

③大事だと認識できてないから
なぜ死ぬ間際とそれまでで優先度が違うのだろうか。持続可能性について考える必要があるか否かという話な気がする。死について考えない日常では明日も生きる上で障害がないように振る舞う。しかし死が身近になると明日がないかもしれないので、多少の障害があろうと自分が納得できるものを目指す。もっと言うと死について考えない日常では先に進むために種まきをしている。死が身近になると逆に先に種をまくのではなく収穫をしてたたもうしようとしていると考えられる。そしてこの問題は最適化はかなり難しい気がするが、①の問題は種をまくか収穫をするかの両極端であることにあると思う。バランス感覚には答えは現状ないが時間を取ることで掴めるとすると②の時と同様に振り返りの時間を取ることから始まるのではないかと思う。

生の期待に対する不満足

今回この「パレード」という映画を面白く感じたのは、社会としてもこういった映画が刺さると思われて作られているし、実際自分には刺さっている点である。
「人との関わりに折り合い」をつけるによって「生と死への希望」が満たされるとして、なぜそれが必要なのかをもう少し考えてみたいと思う。
必要であるとすると、自分自身はそれがないことになる。
希望がないを言い換えると極端な言葉だが絶望になる。
1つ1つ見ていいこうと思う。

死に対する絶望

死ぬことが悪いことで生きることが良いことであるとすると、これを現代の科学では克服することができていないため、確かにいつか悪いことである死に直面する。これからは逃れることはできない。
また死へ近づくものとして年齢や体感としてある老化がある。統計的な寿命はデータとしてあるわけで刻一刻とその年齢に近づいていることはわかっている。いつか体が動かなくなるかもしれない。頭はいつか回らなくなるかもしれない。純粋な気持ちで喜べないかもしれない。そういったことが絶望につながるのではないか。

生に対する絶望

死ぬことが悪いことで生きることが良いことであるとすると、生きているのに絶望するのはおかしい。ではなぜ絶望するのだろうか。死に対する絶望に示唆がある気がする。いつか体が動かなくなり、頭が回らなくなり、純粋さはなくなり、死ぬ。今はそれらがないので希望に満ち溢れているはずであるが、期待するほどできていないと感じる。それがおかしいと思うから絶望になるのではないか。ここに問題がある気がする。

できないことに抗うのが人生

死に対する絶望と生に対する絶望について考えた。すると現在に対して自分が期待をしていて、それが満たされていないことがわかった。
自分の考えていた未来はかなり漠然としていて漠然と楽しくなるだろうと考えている。そんなことは無理である。
ではどんな期待をしているのかを考えたいと思う。

できるようになったこと≧できなくなったこと

期待している何かにより「生に対する絶望」を克服することができる。何に期待しているのかを考えたいと思う。
「死に対する絶望」は死ぬ瞬間は不可能である。まさに望みが絶たれると同時に生が絶たれるのである。これは受け入れるしかない。
死ぬ一歩手前まで「生に対する絶望」を克服することは期待が満たされればできそうである。
「生に対する絶望」では何かができなくなることが書かれている。すると絶望しないためには常に
できること≧できないことが続ければ良いことになる。昨日よりもできることが増えているということに期待があるのではないか。
昨日までにできたことと今日できることを全て検証することはできないので、増えていることを実感をすることに期待があると考えられる。

いつかは死ぬしいつかはできたこともできなくなる、その方向に向かいながらも日々できるようになったことに目を向け、楽しむこれが一番なのではないだろうか。
そして実感するためにはこれも振り返ることが重要に思う。
では何ができるようになりたいか。これが自分が「やりたいことをみつけるまで」というテーマにつながる気がする。
1回目で本来やりたいことはあるが自信がないのが問題。自信がないがためにやりたいことを打ち消している。自信を得るには日々実行をするしかないという結論に行き着いた。
日々実行をして自信をつけやりたいことを継続する。できることを日々増やしていく。これに尽きるようである。

人との折り合いについて

今回分かったのは、日々できることが増えていると実感することが重要ということ。では映画で描かれていた人との折り合いとどう関連するだろうか。
完全に独立とも言えるし、かなり密接に結びついているとも言える。
日々できることが増えていると実感するために人は必ずしも必要ではない。しかし人を介在させることでできることがさらに増えたり、1人よりもさらに実感することができることを直感的にわかっている気がする。それが人がテーマになる理由でもあると思う。
ここについては「人との関わりに折り合いをつける」でも書いた通り、無理して何かを言う必要もない。でも必要だと思ったらその時にしっかり言ったほうが良い。しかし忙しいと人についての優先度がどうしても下がってしまうため、意識的に時間を取り振り返ることが必要である。

振り返りの項目

今回やるべきことは振り返りであることがわかった。
項目をさらうと
①人に言えてないことはどんなことか?(やりたいも可)
②今日は何ができるようになったか?(知ったも可)

まずはやってみようと思う。2項目なら15分もかからない。


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