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ゴールデンカムイで明治時代の馬を考える(6巻編‐馬の大型化/第七師団と馬)

こんにちは。馬のことを調べたり取材したりしているライター、やりゆきこです。『ゴールデンカムイで明治時代の馬を考える』シリーズ、だいぶ間が空いてしまいましたが6巻編です。

※5巻は馬に関する特筆事項がなかったのでスキップしました。
※本シリーズは個人の趣味の範囲で書いているものです。
※漫画のコマ画像の使用については集英社公式サイトを確認の上、著作権法の範囲内と考えられる形で引用しておりますが、指摘等あれば削除いたします。

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軍馬増強のための大型化。ト書きにも説明が!

さて。6巻では「のっぺらぼうは本当にアシリパの父親なのか?!」その真偽を確かめるためにアシリパ、杉元、白石がキロランケとともに網走監獄へと向うことになりました。その際、一行は馬を使って旅をするのですが、そこで下図のシーンが登場します。

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ゴールデンカムイ6巻 49話(野田サトル)より引用
ゴールデンカムイ6巻 49話(野田サトル)より引用

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キロランケが所有する馬を借りられることになった3人。アシリパと杉元は大きな馬に乗せてもらうことができました。しかし白石だけは小さなドサンコ(道産子)をあてがわれる...というくだりです笑。

2つ目の白石の画像のコマには、以下のト書きも入っており、私の記憶が確かならば、これは作中で初めて馬について「解説」がされた場面と認識しています。

当時の北海道は農耕馬や軍馬の増強のため洋種馬との交配が進み大きな馬が見られたが
日本固有の馬である道産子はそもそも胴長短足の小型な品種であった

ゴールデンカムイ6巻 49話(野田サトル)より引用

4巻編まで、「野田サトル先生は多分馬のこともめちゃくちゃ調べてこの漫画を描いてると思うよ!」というスタンスでやってきたんですが、このト書きによって、それがより確信に近づきました。

馬の大型化については『ゴールデンカムイで明治時代の馬を考える(1~2巻編-軍馬)』でも触れましたが、明治初期の日本の馬というのはポニーサイズの小型馬でした。それでは西洋の軍馬に太刀打ちできないと、日露戦争の少し前くらいから国策として馬の大型化(=在来馬と洋種馬を交配する)が進められるようになりました。

上のト書きには「北海道は」とありますが、これは一部の地域をのぞき全国的に行われた政策です。農耕馬についても結局は軍馬に結び付いていて、平時は農耕馬として使用されている馬も、戦時には軍馬として送らなければならないために大型化が促進されました。『農馬即軍馬』というスローガンまであったといいます。

ただ、北海道の農耕馬の大型化ついては、この理由以外に北海道の農業が軌道に乗りはじめ、ドサンコ(道産子)よりもパワーのある馬が必要になったためと書かれている資料も見たことがあります。このト書きが北海道に限定して書かれており、農耕馬と軍馬の大型化を別物のように扱っているのは、そういった北海道独自の理由があったためかもしれません。

ドサンコ(道産子)とはどんな馬だったのか?

また、白石が乗ることになったドサンコ(道産子)についても少し書いておきたいと思います。

ドサンコという名前は愛称であり、彼らの正式な名前は北海道和種といいます。丈夫な身体を持ち、蹄鉄いらず。現在は自動車などによるの輸送機関の発達により、駄馬として使われることはほとんどありませんが、当時のドサンコたちは200kgもの荷物を運ぶことができたといいます。
※駄馬=背中に荷物を乗せて運ぶ馬のこと。下等な馬の意味ではない。

さらにドサンコは『側対歩』という揺れの少ない歩き方をするため、荷物が傷みにくいという利点がありました。当時の人々とってはかなり使い勝手のよい品種だったのではないでしょうか。

側対歩については以前、下記のような漫画を描かせていただいたことがあります。よろしければご覧ください。

またドサンコは体高130cmほどで体重はサラブレッドに迫る350kg~400kg。日本在来馬のなかでは大きい品種なので、漫画内でもキロランケが「道産子の小さいのしかいなかった」とわざわざ言ってくれているとおり、白石に与えられたのはかなり小柄な個体だったといえるでしょう。

▼ちなみに公益財団法人 馬事文化財団(馬の博物館)さんの映像コンテンツがとてもよいので、こちらもぜひ見ていただければ。ドサンコの現状がよくわかります。(結構泣けます)

第七師団にはたくさんの馬がいた?!

これまでも鶴見中尉をはじめとした第七師団の登場シーンは馬がよく出てくるなあと思っていました。でもこの時代、どこの陸軍部隊もそういう感じだったのだろうと考え、特に調査していませんでした。

しかし、6巻で旭川にある第七師団の本部を描いた下図のコマに、馬がしっかり描かれていたのが印象的で(ただのにぎやかしかもしれないですが)ちょっとだけ調べてみることにしました。

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ゴールデンカムイ 6巻 50話(野田サトル)より引用

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すると、1988年(明治32年)に札幌から旭川に移った当時の第七師団では多くの軍馬を必要としていたということがわかりました。やっぱり第七師団には馬がたくさんいたんですね。当時は騎兵のほかにも、将校の乗馬やばん馬、駄馬などさまざまな馬が使用されていたことでしょう。

また軍馬をたくさん育てなければならなかったので、当然訓練用の馬場も必要になりますが、そう…ここは極寒の北海道。冬は積雪や凍結で馬場が使い物にならないわけです。そこで第七師団はすぐに、覆馬場(おおいばば)を作ることを決めたそうです。

あさでん春光整備工場 旧陸軍第七師団騎兵第七連隊覆馬場(PIXTA)

覆馬場とは屋根付きの馬術練習場のこと。この第七師団の覆馬場は非常に立派で、レンガ造りのモダンな意匠。屋根には採光用の高窓と砂ぼこりを排出する小さな越屋根があるのが特徴です。現在はチップのようなものを敷き詰めている場合もありますが、基本的に馬場というのは土ではなくサラサラした砂が使われることが多いです。馬場の砂が舞いやすいことも考えられた造りになっているんですね。

この覆馬場は第七師団の騎兵第七連隊が使っていたもので、完成した時期も大正1年前後。歩兵第27連隊の鶴見中尉たちは残念ながら使っていないと思いますが、第七師団では明治末期から大正初期にかけて、このように雪に対応した覆馬場を小連隊、大隊ごとに設置していたようなので、もしかすると鶴見中尉たちも似たような環境で馬術の鍛錬を重ねていたかもしれません。(実際の歩兵第27連隊には乗馬隊もあり、作者の野田サトル先生の曽祖父である杉本佐一さんが所属されていたとのこと

なお、旧陸軍第七師団騎兵第七連隊覆馬場は現在倉庫として使われています。現存する唯一の覆馬場の遺構ということで、旭川に訪れる際にはぜひ立ち寄りたいと思っています。

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参考資料・参考サイト

日本陸軍と馬匹問題 -軍馬資源保護法の成立に関して-(杉本竜)
戦時下の軍馬政策と農家経営 日中戦争期 関東地方の農耕馬徴発と補充(大瀧 真俊)
ばんえい競馬のなりたちと変遷(帯広競馬場/2023年8月閲覧)
旭川観光情報 公式サイト
旭川市公式サイト

ほか

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