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そばかすの背中に乾杯を――『ラ・ラ・ランド』

週報2017.03.04-10

よう。おれだよ。下品ラビットだ。
元気してるかい。そうかい。そりゃよかった。
おれは元気だぜ。

みなさんはご存知だろう。おれ、下品ラビットは、うさぎ小天狗の別人格だ。
P.K.ディックにおけるホースラヴァー・ファット、エルザにとってのアナ、タイラー・ダーデンにとってのタイラー・ダーデン、そういう存在だ。
うさぎ小天狗が言いにくいこと、言いたいと思ってるが言わない方がいいと思ったこと、「うさぎ小天狗」のパブリックイメージに合わないだろうと無意識に排除した考えを、「うさぎ小天狗でなく」言うためにいる。言い訳といっていい。
だから、やつはおれを別人と思いたがるし、そう書くだろうが、それはやつの妄想だ。しかし、あいつは臆病な八方美人なんでね、おれみたいなのがいてやらなければならない。

さて、そんなおれたちは、日曜に『ラ・ラ・ランド』を見に行った。
そこそこよかったが、物足りなくも感じた。

よかったところの筆頭は、白人女性の背中のそばかすだ。
冒頭、冬のロサンゼルスの日を浴びて、ゴンヌズバー! と現れる、白人女性の背中に、ちらほらとそばかすがある。これと同じそばかすが、あとで、女主人公の背中にもあるとわかる。
おれはそばかすが好きだ。ウブなチャンネーの雰囲気があるからだ。しかも、この場合、そばかすは背中にある! 背中は、人の一部なのに、本人には永久にわからない部分だ。隠せない人の本性が、意図せず滲みでるところなんだ。
そして、そういうウブなチャンネーの「冬の時代」が、「どこまでもつづく順番待ち」のなかで踊る、ということで表現されるのに感動した。
長まわしじたいはどうでもいい。あれは、テクニックとしてはもはや「生中出しAV」みたいなもんだからだ。

それから、メソメソウジウジしてるやつに、「だからなんだってンだッ!」と叫ぶところも、いい。
おれは、やりたいことがあるくせに、自分じしんが信用できなくて、そのために失敗するのがこわいから、やらない理由をブツブツと呟くわりに、「(やらないとは言ってない)」とかいうやつには、ほんとうにイライラさせられる。それが惚れた相手ならなおさらだ。
だから、そういうやつをひっぱたくシーンに、カタルシスを感じた。ジョン・ウーの二丁拳銃みたいなもんである。

音楽もよかったな。EDMみたいのがグイッと入ってくるジャズ、おれは好きだよ。ライブのシーンの曲も好きだ。ふたりが一つの曲を歌うやつも良かった。
サントラは、次の日にダウンロード版を買った。これを書きながら聞いているよ。

あと、ラスト。ベッタベタだ。ど演歌である。だが、あれでよかった。
というのも、この映画で、おれがもっとも「どうなっちゃうの!?」と思わされたのが、あそこだからだ。ひょっとしてもうひとつの可能性の方へ行っちゃうのではないか? と思ってしまったんだ。仮にベタベタなラストでも、そっちへ行っちまうよりましだから、頼む、夢は夢であってくれと、ドキドキしたんである。もし、もう一つの可能性の方に落ちついていたら、おれはこの映画を口汚くののしっていたはずだ。
鑑賞後、合流した飲み会で、ある方が、このラストを「イルカの『なごり雪』だ」と言っていたのは、けだし名言であろう。「なごり雪も降る時を知り、ふざけすぎた季節の後で……」である。あの後どうなるかはわかるな? 季節は巡るんだ。
そういう甘っちょろい話である。陳腐といってもいい。だが、そういう甘っちょろさを、おれは嫌いじゃない。ニコラス・ウィンディング・レフン監督の変格任侠映画『ドライヴ』は、これに匹敵する甘っちょろさ、陳腐さで、おれは『ドライヴ』が大好きだ。

だが、物足りなさを感じるところもある。それは、「狂気」を文字通り唄いながら、ちっとも狂いきっていないところだ。
芥川龍之介「地獄変」を見てみろよ。あそこには、人間が誰しも経験したことのあるだろう「恋」や「愛」を超えて、「なにかすごいもの」になってしまった、人間の「真の姿」がある。
だが、この話はそこまで到達していない。さっき「甘っちょろい」といったのは、そういう意味でもある。芸術とショービズの違いなどではない。どっちも、突きつめればこそ、他人の心に何かを残すものだからな。

そして、この物足りなさのおおもとに、映画全体の、客観性にとぼしい語り口があると思った。
この映画を、おれは、「デミアン・チャゼル監督じしんの内面の葛藤を、客観視した『つもり』で、二人の主人公に振りわけて描いた映画」と見た。
エマ・ストーンが演じる女主人公は、女優志望だがなんかうまくいかない、ぶざまな「きちがいピエロ」だ。彼女がオーディションに落ちまくるときのディテールは、チャゼル監督じしんの経験から描いているという。
そして、ライアン・ゴズリングが演じる男主人公は、「おれのかんがえたさいきょうのジャズ」が、時代に合わない古くさいものだとわかって、なお追求する、これまた「きちがいピエロ」のジャズピアニストである。彼がジャズにこだわるキャラなのは、チャゼル監督がジャズに一家言ある男であることと無関係ではあるまい。
そのライアン・ゴズリングに出会う夜、エマ・ストーンは、鏡に向かって、「雲のうえに引きあげてくれる誰かを探すだけでいいの?」「私は私の知らない私に会いたいの」と唄うんだ。
つまり、ライアン・ゴズリングこそ、彼女の「知らない私」であったのだ。この二人の主人公は、同一人物なんである。
その同一人物どうしが、互いを、つまり、自分じしんを見る。同時ではない。見られているほうは、だいたいどこかあさっての方角を見ている。そうしてる相手を、じっと見る。
特にエマ・ストーン演じる、背中にそばかすのあるチャンネーの顔を、見る。ライアン・ゴズリングがなんかを見ている姿を写すシーンよりも、エマ・ストーンがなんかを見ている姿を写すシーンの方が、多いし、長いから、見られてるのはこっちだ。つまり、ライアン・ゴズリング演じるチャゼル監督が、エマ・ストーン演じるもう一人のチャゼル監督を見ているのだ。じっと、見ているのだ。

この二人が、ついにキスをするシーンを見て、おれは『バック・トゥ・ザ・フューチャー』のキスシーンを思い出した。といっても、写真のなかのマーティに、薄れ消えかけていた手足が戻るアレではない。その前の、のちにマーティのかーちゃんとなるロレインが、車のなかで彼にキスするシーンだ。
ロレインはマーティに欲情し、しんぼうたまらなくなってキスするんだが、びっくりして離れてしまう。彼女はおかしなものを見るような目でマーティを見、「変だわ、弟とキスしたときみたい」と言うんだ。

そりゃそうだ、タイムマシンによって生じたパラドックスではあるが、マーティはロレインの息子なのであるから……と思うのと同じことを、『ラ・ラ・ランド』のキスシーンに思った。こいつらはなんで幸せそうにキスしてるんだ。BGMがでででん! とクライマックスを迎え、ハート型にアイリス・アウトなんかしてるんだ。おめーら同一人物じゃないか! きもちわるい!

しかし、実は、人間とはそういうものではないか。

おれたちはうさぎで、インテリの読書家だから、葉物をかじるように毎日本を読んでいる。

先週は、プラトンの『饗宴』を読んでいた。
『饗宴』は、プラトンの師父ソクラテスを中心とした知恵者たちが、飲み会の座興として、「人がなにかを愛し、求める気持ち」を、「エロスの神」に仮託して考察するトークライブを行う、というものである。そのなかで、作者プラトンは師父ソクラテスをして、話者ソクラテスは賢者ディオティマをして、「エロスとは、人が、いまの自分のなかにないもの/いつかとどめておけなくなるとわかっているものを、求める気持ちである」と語る。その理解のうえに、あの有名な「人間はもともと人間二人ぶんがセットになった球体存在であったが、なんかあって分割されて、今はさびしく生きているので、片割れを求めておるのだ」という説がある。

『ラ・ラ・ランド』は、その片割れを、自分じしんのイマジナリフレンドに求めた物語であろう、と、おれには思える。
それはあわせ鏡の狭さだ。無限の奥ゆきを見せるが、錯覚にすぎない。

だが、その狭さは、ある種、ある時期の人間にとっては、必要なことだ。
「きちがいピエロ」は、「『自分よりもまとも』な、ほかの人はそうなんだろう」と思っているような、「まったき人間」になるために、まず自分じしんと出会い、融合せねばならない。そうしてこそ、狭いあわせ鏡のそとにいる、真の他者との合一を目指すことができるんだから。
もちろん、その合一は、共感と想像の作りだしたものである。だから、永遠に叶えられない。肉体に隔てられた心どうしは、すれ違い、かすりあい、ひととき触れあっても長く重なることはなく、さびしく、寒い。おれたちは宇宙のなかに孤独であり、夜空のしたにひとりぼっちなんである。
だが、だからこそ、おれたちは、陽の光に恋いこがれ、月の輝きを愛し、暗い夜空に星を探すのである。手の届かないものに手をのばす姿が、美しい「よいもの」なのは、そうすることが人間にとって「自然」だからなんである。

そう思うと、おれは『ラ・ラ・ランド』が嫌いになれない。さきほど語ったような、「アバターとイマジナリフレンドがチュッチュしてる」構造は、実は誰のなかにもある。おれたちのなかにもある。おれじしんがそういう存在なんだからな

この映画は、そういう「人間のどうしようもなさ」を見せてくれる。
監督が、その「どうしようもなさ」を意識していたかどうかは、この際関係がない。意識しても、上手くやれば「地獄変」か『きちがいピエロ』のようになっていただろうし、そうならないのであれば、おれたち受け手からすれば、意識してないのとほとんど同じことだ。もし意識してないのなら、それこそダッセエところだが、なんにしても、そういう「はからずも漏れでてしまうあさはかさ」までちゃんと描いて「しまっている」ところに、「物語ることのミラクル」があると思う。
それは白人チャンネーの背中のそばかすの美しさと同じものだ。
手ばなしで褒められる映画ではない。だめなところはたくさんある。監督の、賢しらで、鼻持ちならない、あさはかな人間性が、じんわり滲んでいるように思えて辟易する。
だが、それは春野菜のえぐ味とか、薬味の辛味とか、若いテキーラが持つガキンチョグルグルパンチのようなキックとか、そういううま味にも似ている。
そして、どうしようもない人間たちは、いわんやどうしようもないおれたちは、実はそういううま味が好きなんである。

ここまで書いて、おれは春野菜のてんぷらが食べたくなった。
ちょうど、コスギ・タンゲが飲みに行こうと言ってきたので、〈たまい〉に行って、春野菜のてんぷらを食った。

うまかったぜ。

(下品ラビット)

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