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10月はたそがれの国

【週報】2017.09.25-10.01

ごあいさつ

 こんにちは、うさぎ小天狗です。
 秋もいよいよ本番です。さんまにきのこ、かぼちゃにみょうがにさつまいもと、旬の食材が市場に出回ります。
 ぼくと下品ラビットの棲むうさぎ穴では、だいたいこの季節になると天ぷらをします。特にきのこの天ぷら、まいたけとしいたけが人気です。天ぷらのおともはもちろんビール。揚げたてサクサクを塩とつゆで交互にいただきながら、しゅわしゅわのビールでグイッと追っかける。これ最高。
 秋といえば食欲の秋。これがうさぎ穴の秋の第一であります。

秋は読書の秋、編集の秋

 そうそう、秋といえば読書の秋。特に「インテリの読書家」を標榜する下品ラビットは、いつにもまして本を読んでいます。最近は池田亀鑑『平安時代の生活と文学』を手に入れて、パラパラ拾い読みをしているようです。
 ぼくはといえば、今週はもっぱら読むよりも書く方だったり、編集する方だったと言えましょう。プロットを練り、草稿を起こしつつ、お預かりした原稿をフォーマットに落とし込んで組版を作る。並行してツイッター連載用に文章を書いてもいます。これが『ニンジャスレイヤー』関連であれば大々的にご報告するところなのですが、今回はちょっと違います。なので、これは現状はまだ秘密ということで。
 もちろん、『ニンジャスレイヤー』二次創作の方もぬかりはありません……と言いたいところですが、現在noteで連載中の「スリー・ニンジャズ・アンド・ベビー」にいくつか誤記が見られます。note版がディレクターズ・カット版になるとして、これは取り除くべき瑕瑾です。

 アマチュア小説、しかも二次創作とはいえ、自分以外の誰かに読んでほしいと思って世に送り出すものであることは、どんなレーベルのどんな小説であろうと変わることはありません。となれば、ただ書いただけでは折り返し地点にさしかかったばかり、復路にその「自分が書いたもの」を「誰かに読まれるべきもの」として再評価し、必要に応じて適宜書き換え、入れ替え、付け足し、削る作業が必要です。
 アマチュア小説は、ある意味おうちで食べるおうちのご飯のようなものですから、味付けや下処理に雑なところがあっても、それは自家で消費される分には許される範囲かと思います。しかし、他人に読まれるものとして世に送り出すなら、可能であれば公開の前に、せめて公開のあとにも、全体を通しての手直しは必要となるでしょう。文字数の多さ、筆の速さはたしかにすばらしいことですが、いたずらにそればかりを誇るのはあまり意味がありません。
 まして、アマチュア小説には編集者がいません。となれば、みずから編集者的な視点を持つか、編集的な立場――すなわち、文章を読んで全体の眼目を理解した上で、そこに至らぬ点を指摘してくれるような、著者としての思い入れを廃した立場――で、自作と関係してくれる人を探すべきでしょう。
 幸い、ぼくには下品ラビットがいてくれます。彼は一歩引いてぼくの書いたものに指摘をしてくれる存在です。彼の手助けを得て、「スリー・ニンジャズ・アンド・ベビー」も#1まで遡り、しっかり見なおしておかねばなりますまい。

黄昏人の王国

「編集」という点では、ヤラカシタ・エンタテインメントがかつて編集を担当させていただいた、『ビギニング・オブ・ザ・ラスト・シックスゲイツ』『獅子語忍者噺』のことは忘れられません。
 特に前者に関しては、作者の篠@やさすいマグロ氏が亡くなられて一年が経ったこと、先週末に篠氏を偲ぶ会がしめやかに行われたこともあって、個人的には秋風が立てた耳の間を吹き抜けると、しんみりと思い出させれてなりません。
 何度も原稿のやりとり、意見の交換をしました。イラストを担当してくださった方とのやりとりを仲介する中で、作品自体に新たな展開が加わることもありました。お話を作ることはぼく自身も好きで、これまでもずっとしてきたことでありましたが、お話を調整し、紙面に落とし込み、イラストを添えて物理的な一つのかたちにするまで、作者というかたちでなく編集に関わったのは、それが二次創作のごっことはいえ、人生はじめての経験でした。
 それは、とてもおもしろいことだったのです。

 この「ヤラカシタ・エンタテインメント」を、ぼくと下品ラビットが、コスギ・タンゲくんも引き込んで、今も続けているのは、そのような活動を今後も続けたかったからです。このnoteページも、そのために宣伝活動的に初めたところがあります(そのわりには不徳のいたすところ、今月開催の「ニンジャ収穫祭」にはサークル参加ならなかったのですが)。
 そして、いつか篠氏の遺した原稿を、なんらかの形で世に出せたらと思うから、というのも、ヤラカシタ・エンタテインメントを続けている理由の一つであります。これは、篠氏の遺稿を正式におまかせいただく以前の、このnoteでの最初の週報では、ちょっとにごした表現になっておりますが、サークル活動の根幹の一部として、最初からあったものです。
 もちろん、これから先、この夢がかなえられるかどうかはわかりません。超えなければならない関門はいくつもあります。どれだけの規模で世に出すのか? 本人でないのに原稿をまとめて同人誌にすることの是非は? 考えなければならないことは多く、結果的には夢は夢にして終わることもありましょう。
 ですが、そのことについて考え、たとえ形にならなくとも、なんかしていればそれはそれで楽しいし、後に全く別のところで役に立たぬとも限らない……そう考えて、仕事の合間や、眠れない夜などに、編集ノート的なものをまとめている次第です。

何かが道をやってくる

……いつの年も、末ちかくあらわれ、丘に霧が、川に狭霧がたちこめる。昼は足早に歩み去り、薄明が足踏みし、夜だけが長々と坐りこむ。地下室と穴蔵、石炭置き場と戸棚、屋根裏部屋を中心にした国。台所までが陽の光に横をむく。住む人は秋の人々。秋のおもいを思い、夜ごと、しぐれに似たうつろの足音を立て……

 今回、週報のタイトルにも引用した、レイ・ブラッドベリ『10月はたそがれの国』の冒頭からの引用です。「SFの抒情詩人」と言われたブラッドベリの小説は、SFというよりはホラー、ホラーというよりはファンタジーの雰囲気で、特に若い頃の詩的な文章に唯一無二のあじわいがあります。
 中でも、『10月はたそがれの国』は、彼の詩的な文章が冴え渡り、言葉の連なりの陰影の中に、人間ははっきりと目にすることのできない「あるもの」を描き出そうとする、彼の真骨頂が伺えるものといえるでしょう。
 不死の妖魔の一族が年に一度だけ一堂に会する日「万聖節の前日」を、一族に育てられている死すべき人間の少年の視点で描く「集会」や、終わりゆく夏の終わりに亡くした恋が甦る、戦慄すべき時間のかたち「みずうみ」など、すべての作品に前述の「あるもの」は影を落しています。
「万聖節の前日」とは、そう、ハロウィン。ハロウィンといえば、ブラッドベリにはハロウィン生まれの二人の少年が「時間」と対決する『何かが道をやってくる』という長編もあります。不可逆な時間と対決し、その働きをしることで、大人になる少年たちの前に、道をやってきた「何か」とは「未来」のことかもしれません。
 ぼくらヤラカシタ・エンタテインメントの前に、なにがやってくるのかはわかりませんが、それがなんなのかをしっかりと見極めるためにも、この秋はゆったりと過ごしていこうと思います。
 まずはビールだな。


(うさぎ小天狗)


イラスト
『ダ鳥獣戯画』(http://www.chojugiga.com/
 

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