『隋書』「俀国伝」メモ

漢光武時,遣使入朝,自稱大夫。安帝時,又遣使朝貢,謂之倭奴國。

漢の光武帝の時、遣使し、入朝する。大夫を自称する。安帝の時、また遣使入朝する。いわゆる、これを倭奴國と言う。

『隋書』「俀国伝」

光武帝の治世は、56~57年。安帝の治世は106~125年。安帝の時の遣使は『後漢書』では倭国王帥升になる。漢の光武帝の時は金印授与があり、『後漢書』では倭奴國だが、倭国王帥升が倭奴國とは『後漢書』では記載していない。

開皇二十年,倭王姓阿每,字多利思比孤,號阿輩雞彌,遣使詣闕。
(中略)
王妻號雞彌,後宮有女六七百人。名太子為利歌彌多弗利。無城郭。

開皇二十年(600年)、倭王は姓をアメ 字(あざな)をタリシヒコという。アホケミと号する。遣使し、隋の担当所管に詣でた。
(中略)
王の妻はケミと号する。後宮には600、700人いる。太子を名付けて、リカミタフリと為す。城郭無し。

『隋書』「俀国伝」

日本書紀に記載が無い、阿每多利思比孤(天の足りし日子)の遣隋使になる。絶対年代で日本書紀の推古八年になる。つまり、女帝である推古天皇が、妻を持ち、600、700人の後宮を持つ阿每多利思比孤のはずはない。聖徳太子と思われる。太子と記載されるリカミタフリが聖徳太子という解釈もある。その場合は阿每多利思比孤が蘇我馬子である可能性もある。

森浩一氏の『敗者の古代史』によると、600、700人の後宮を持っていたのは斑鳩の宮だろうとしている。中国でいう後宮では無かったとしてもこういうキラキラしたところには女性は集まるものだ。推古天皇の死後、聖徳太子の子、山背大兄王が継承者になれなかった理由はこのような斑鳩の宮の異常さによるものと推測している。

浄土真宗の開祖、親鸞は僧なのに妻帯をしたが、親鸞のひ孫、覚如が書いた『本願寺聖人伝衣』には、親鸞が法隆寺の六角堂で女性との交わりについて救世観音から説かれたという。法隆寺と斑鳩宮にはこのように性的イメージが後世まで伝わっている。

日本書紀が敢えて無視したこの遣隋使。推古朝と蘇我氏、聖徳太子の時代の謎を物語っている。

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