「日常だって冒険だ」から外国に行かなくてもいいのか?

たまに「外国なんか行かなくても、日常の中にも新しいものがあり、その中で生きることだって冒険であり旅である」といった主張を目にするが、それには部分的に同意しつつもやはり違うのではないかと思ってしまう。

ひとつには、程度の問題がある。例えば、東京にだって坂や大地の起伏があるわけだから、わざわざ「山登り」なんか行かなくても、それと同じような経験が東京でも体験できると主張したとして、同意できる者はあまりいないのではないかと思う。そもそも起伏の程度が異なるだけでなく、それによって気候や生態全体が異なってくる。東京では、雷が目の前で落ちることもなければ、転んだぐらいで死んだりしない。昼間が夏並みの暑さでも、夜は真冬の温度になるというような落差もない。また、同程度の起伏であっても、熱帯と東京では、その起伏が意味するものがやはり大きく変わってくるだろう。

別に山でなくても、プールで泳ぐことと、海で泳ぐことは異なっていることは明らかであるし、銭湯の富士山の絵と、露天風呂から見る富士山もやはり互いに異質な経験に属する。

第二に、そもそも「冒険としての日常」という観念自体もまた一つのきわめてドメスティックなものにすぎないのではないか。外国に行けば、冒険として見ることができないような日常が広がっている。利益調整としての日常、紛争としての日常、リアリティが極端までに切り詰められた退屈としての日常、戦争としての日常などだ。そこでは、「冒険としての日常」という観念自体がノイズ、危険思想、子どもの御伽噺、幻想、単に退屈な言葉遊びとなってしまうだろう。つまり、「冒険としての日常」という観念または態度は、そこでは冒険ではまったくなく、日常に何ら新しいものをもたらさないのだ。

もちろん、外国に行け、冒険としての日常なんて生ぬるいと言いたいわけでは決してない。外国に行ったって変わらない者は変わらないし、そもそも過激な差異に接さなければならないというマッチョイズム(例えば「登山しないやつはだめだ」みたいな考え方)にも断固として反対だ。逆に、行ったことのない近所の居酒屋に入ることが、外国に行くよりもはるかに異質な経験をすることだってあるだろう。

さらに、外国を「自分たち違っていて当然な場所」として表象し、そのように接してしまうならば、それによってやはり異質性が抹消されてしまうだろう。というのも、その異質性の自然化は排除まで一歩手前にあるものだからだ。

異質性といったって、さまざまな異質性がありうるし、自身がどのような者としてそれに関わるかによってその異質性も大きく異なってくる。

英語圏の異質性、東南アジアの異質性、日常の中にあるさまざまな異質性はそれぞれ異なる異質性であり、フラットに並べたり、比較したりすることはできないし、そもそも私がタイに感じる異質性はあなたのタイに感じる異質性は異なったり、逆に私のタイに感じる異質性はあなたのポーランドに対して感じる異質性と部分的に似ていることだってありうる。

何が言いたいかというと、簡単に二者択一にして比較するようなやり方が全く適切ではないということだ。そして、異質性と異質性の間の異質性、すなわち「メタ」な異質性をフラットに並べたり、同質化したりしたうえで比較するのはあまり意味がないし、開かれているように見せて実は閉じているという欺瞞がそこに潜んでいる。


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