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第四話 アルコールとのどごしと油臭さと

 長瀬駅を下車した丸井は外の雨に億劫としていた。
 改札の前にある東大阪入場管理局でパスポートを開示した丸井は、国内でパスポートを持ち歩くめんどくささに顔をしかめていた。
「はい、まいど。気つけてね。夜は壁付近に行ったらあかんで。この前も二人行方不明なっとるさかい」
管理局の男性職員に警告された後、丸井はやっと駅から外に出た。

 東大阪市は"街の首領"河野誠二が銅の密売で逮捕され、アメリカに身柄を引き渡されて以来治安悪化が進み、この状態の伝染を懸念した東大阪市が他地域との隔離を実施。布施を起点とする通称"嘆きの壁"を設立。近鉄電車でしか東大阪に入る事ができなくなり、パスポートの提示も義務化された。この流れを受けて壁撤廃派の"あの頃の近鉄復帰戦線"代表大浦歩を筆頭に暴動が勃発。
俗に言う"東大阪内戦"だ。
それ以来東大阪は文明としての時間が停止。街を支えているのは、政治家でも宗教でもなく、町工場だけだった。

 「相変わらず油臭い街やな。はよ酒飲んで死にたなるわ」
  丸井はボソリと呟き、歩き出した。

駅から見えたのは"まなびや通り"通称、修羅の門。
かつて、近畿大学が正常に機能している頃、大学正門前まで約700m続き、学生の活気に溢れていたという。
しかし、度重なる内戦で近畿大学が長瀬の本部キャンパスを放棄。
その後は巨大ゼネコンにより、ショッピングモール建設計画が進められたものの、過激派に乗っ取られアジト化された。
後に自衛隊の軍事介入で過激派から国有地へと返還された。

 丸井はまなびや通りに入ってすぐ目的の立ち飲み屋に到着した。
 居酒屋「リーフ」 店の前に据えられた造花、木目調の扉。立ち飲み屋にしては綺麗な店構えだ。営業時間は「14:00からまで仕事辞めたくなるまで」と書かれている。
店の前に競馬新聞と赤ペンが捨てられている所はさすが東大阪と言える点だった。
 煙草の臭い、喧騒にまみれた店内。プロレタリアの象徴というべき雰囲気に溢れていた。「これだよこれ」丸井は乾いた唇をペロッと舐め、一番奥のカウンターに着いた。
 カウンターの奥にはせっせとオーダーを作り続ける老夫婦がいた。手慣れた手つきだ。モノづくりの街東大阪、そこの労働者たちの心の拠り所となっている所以を理解できた。
 カウンターの女性と目があった。優しく、何もかも傷付けず包み込んでくれそうな笑顔がそこにあった。
 「お母ちゃん、唐揚げと俺の心くらいキンキンに冷えた瓶ビールちょうだい。」
丸井は飲み屋の年配女性従業員に対しては"お母ちゃん"と呼ぶようにしている。
 「はいよ。でも、それやったらホットの瓶ビールになってまうよ」 "お母ちゃん"は片眉を上げ悪戯な笑みを丸井に向けて答えた。
「お母ちゃん、冗談や冗談。はよキンキンに冷えた瓶ビールくれ。手震えてクソ漏れそうや」
 自分でも照れ隠しとわかった。冗談でもいい。少しでも明るい人間、日の目を浴びて生きていける人間と言われた気がして丸井は心底嬉しかった。
 キンキンに冷えた瓶ビールはすぐにやってきた。よく冷えているビールだ。グラスにトクトクと瓶ビールを注いだ。我慢できず半分くらい注いだ所でグラスを口に当て一気に飲み干した。
のどごしの良さで気を失いかけながら、アルコールが食道を経て、身体全体に染み渡るのを感じた。
義務教育はつまらない人権やら、道徳やらを教えるならこの"のどごし"を教えるべきだ。
店内のテレビに映し出されたのは情報番組。
関東人のコメンテーターが大阪の実情に対して「未曾有の危機。第二次大戦後最悪と言ってもいい」とコメント。
「ガタガタうるさいやっちゃのお!金や!治安守りたかったら銭持ってウチこいや!」2席隣の男性が声を上げた。上の歯がない。
「東大阪をみすみす捨てた人でなしが何言うてけつかんねん!ドアホ!ケツの穴から手突っ込んで奥歯でカスタネットすんど」
その横の男性も叫んだ。下の歯がない。
テトリスだったら二人揃った段階で消滅してしまう。
丸井は店内の喧騒をアテにグイッと瓶ビールを喉に流し込んだ。

 丸井が3本目の瓶ビールを開けた時、入口が開く音がした。
ほろ酔いだった彼はふいに音の方を見た。
女性だった。
セミロングの髪を後ろで束ね、団子の先にアメリカンドッグの串を刺していた。白のTシャツに青いジーンズ。肌は透き通るように白く、竹ぼうきのようなまつ毛がこちらを迎えてくれるように生えていた。丸井はすぐに"ゆうか"だとわかった。宇賀に渡された写真と全く同じ人物だ。

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